美望録⓪ 文字にして残すことの大切さ

最近よく感じるのは、文字に残すってすごい素敵なこと。
自分が大切にしている2つの日課がある。
一つ目は、毎日の日記。かけがえのない毎日を大切に過ごすために。
二つ目は、#一言日経。日経新聞で興味の湧いた記事について文章にする。
そしてただ文字にするだけでなく、自分の大切な人と共有をしている。

嬉しかったこと、悔しかったこと、学んだこと、不思議に思ったこと。。。
それぞれ大小はあっても、毎日生きている中で考えたり感じることは多い。
その一瞬はそう思っていても、自分たちはすぐに忘れてしまう。
普段ぼーっと生きているわけではないのに、自分の考えや思ったことを
人に話したり、何かに残す機会って意外と少ないのかもしれない。

人と楽しく会話してしても、
あとからこんな話のネタもあったのになあとか、
これ話そうと思ってたのに忘れてたなあとか、
逆にこれ聞こうと思ってたのに忘れてたなあとか、
自分のなかではよくあること。

あるいは真面目な話や意見を交わす機会があっても、
普段は冗談とかしょうもない話とかやらかしエピソードしか話さないのに
わざわざここまで話さなくてもいいかとか、
あえてそれを聞くのはちょっと照れ臭いなあとか、
なんか自分でもどう考えてるのか訳わからなくなってきたなあとか、
自分のなかではよくあること。

特に家族とか、幼馴染とか、仲の良い友だちとか、
距離が近い人ほどそうゆうことってよくある。
最近はましになってきたけど、変なプライドを感じて
思ってることの数分の一しか言わずに、ジョークとかそっちの方向に
持っていってごまかすこともある。

最近思うのは、それってすごいもったいないってこと。
ちょっとタイトルと方向が変わってきたかもしれないので話を戻すと、
話したいこととか共有したいことって山ほどあるのに、
すぐに忘れてしまうせいで自分のなかで整理もつかないし、
もちろん相手にも伝わらない。

なんか楽しくない文章になってるような気もするけど、
人と話すのは楽しいし、家族にも友だちにも恵まれて、毎日幸せ。
ジョークは昔から好きだし、最近はなぞかけとか言葉遊びにもはまってる。
人前で話すのも得意だと思っているし、人見知りもまったくしないし、
毎日人と話して笑い合ったり、一緒に考えたり、応援しあったりするのが
最高の幸せだと本当に思っている。

ただ、なんとなく感じるのは自分は記憶力が弱い。。。
記憶力が弱いというか、色々考えながら生きているようであんまり考えない
楽観的?な性格の節もある。
ジョークとかやらかしエピソードとかを話して笑ってもらうのは嬉しいし、
しょうもない話でおたがいゲラゲラ笑い合うのも最高の幸せ。

でも、意見や考えをはっきり話している人を目の前にすると、
なんとなく自分の楽観的な何も考えていないような部分が嫌になる。

話をガラッと変えるとする。
自分が尊敬している方がいて、その人は観光界のプロだと思っている。
その人が仕事で世界一周の旅をしながら書き上げたネット小説を読んだ。
100話まであるなかなかボリューミーなものだったが、本当に面白かった。
音も映像もないただの文章で、自分があんなにワクワクして興奮したのは
初めてだったかもしれない。
言うまでもなくその人は膨大な知識や考え、そして感性を持ち合わせていて
その人が書く文章が面白くなるのは、もはや当然かもしれない。
それでも100話を読み進める中で自分が思ったのは、

「ことばのちからってすごい」
「文字に起こすって大事」

というシンプルなことだった。
noteやブログは今となっては全然珍しいものでもないが、自分のなかで
数年前は意識高い系のとりあえずすごい人たちが使ってるイメージだった。
でも、今はそうではない。
日記や一言日経を日課として無理なく続けてる(サボって貯める日も多い(笑))
おかげで、文字に起こすことって自分の一日や学びの整理になるし、
相手にも伝えやすくなるし、相手も自分の言いたいことをすぐ理解して
反応してくれるし、とにかく楽しくて有意義でいいことしかない。

日記と、一言日経と、世界一周のブログのおかげで、
文字に起こすことの素晴らしさに気づかされた。

とはいえ、
自分が文章を書いたり読んだりするのが苦手や嫌いだったわけではない。
本を読むのは好きだし、文章力はなんなら自分の特技だと思っている。
ジョークやなぞかけも好きなので、言葉であそぶことも得意なはずだ。

でも、日々の自分の経験や考え、思ったことを、
ちゃんと文字にして残すことは、最近特に重要だと感じる。
思えば幼稚園に入る前のちっちゃい頃から小学校ぐらいまで、
日記を書いて親に見てもらっていた。
今でも宝物としてもちろん大切にしているし、
小学校から始めた野球では、その日の反省や自分の考えをとにかく大量に
ノートが鉛筆の芯で真っ黒になるまで書いていた。
ノートでどれだけ書いても、スポーツである以上体で覚えないと意味がない
というのは正論だと思うが、小学校も中学校でも、野球部の監督に
びっくりするぐらい褒められていたのを思い出す。

思えば、幼少期から中学生ぐらいまでは、
日記や野球ノートで文字にして残す、伝えるってことは
むしろよくしていたのかもしれない。

高校や大学では忙しい日々の中で、時間をかけて文字を書くより
とにかく量、質より量をこなすことを大事にしていたのかも。

アイルランドに留学している友だちとこの前電話した時、
「経験はいっぱいしてきたけど、この留学がまた経験で終わるのは嫌だ」
と話していた。自分を含めた同世代が卒業する中で卒業延期をして、
半年間留学に費やすと決心した彼の言葉は、たしかになあと感じた。

自分も話しても話しても尽きないくらいの量の経験をしてきた。
楽しいこと、ワクワクすること、悲しいこと、人生の機転ともいえること、
話慣れたエピソードなら既に自分のなかで整理できているし、
話慣れているんだから相手にも良く伝わっている自信があるけど、
多くはそうではない。
留学中の彼の言葉のように、たんなる過去の経験に過ぎない。

ただこれからは、たんなる過去のエピソードを面白おかしく話して
ゲラゲラ笑い合うだけではなくて、
今自分が思っていることや挑戦してみたいこと、
そして自分がなぜそう思うのか、なぜ挑戦したいのか、
その理由やそう思うようになった背景、
そして将来自分がどんな理想の姿になっていたいのか、
過去のことではなく今や未来のことを自信をもって語れる人間になりたい。

そんなことを思って決めたのが、このnoteのタイトルの「美望録」。
さすが言葉遊びの好きな自分だなあて感じだけど、
たんなる過去のことを記すのではなく、
美しい未来を望むような、そんな文章をたまに書いていけたらいいなあ。


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