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私が看護師になってから。

勝手な独断と偏見もだいぶ混ざっているかもしれないのだけど。
看護師になる人は、人に興味があり優しく在りたいと思って、根っこが真面目な人が多い気がしている。

なーんて。私も勝手にイメージを持っているのだけれど、「白衣の天使」なんて表現があるように、仕事のイメージで想像する人柄の印象が強いようにも思う。

そのイメージと本当の自分とのギャップ。そんな葛藤は多くの看護師の中にあるのかもしれない。


私は20代の頃、合コン(懐かしい笑)で職業を隠していたことがあった。

その頃は、「え~?じゃあ、普段注射とかするの?」というやり取りが、メンドクサイと思っていて、人に仕事のことを質問するのは大好きなのに、自分のことを仕事のイメージで決めつけられたくない、なんてちょっとやさぐれた感覚を持っていた。

今となれば、仕事を隠すことも、「注射ウンヌンの」会話のくだりもなんだか若くて微笑ましい笑、けどね。

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そして「看護師」の仕事の中で、方向性を見出して道を追求しキャリアを重ねる方もいれば、いろいろと別のことに挑戦しようとする方も多いように思う。私は明らかに後者だ。

病棟で6年ほど勤務したころ、大学に通いだした。
看護学とはなんら関係ない、当時興味のあったマーケティングを学ぶために選んだのは商学部だった。
ずっと看護ばかり学んでいたから全く違う分野に触れたかったのだと思う。

と同時に、ケアマネージャーの資格を取得して、しばらく働いてみたりと、いろいろ試した時期だった。

ケアマネージャーというのは、一言でざっくりというと「介護サービスの組み合わせのマネージメントを患者さんやご家族と一緒に考える人」だ。
その資格を使って、介護保険の認定調査員をやったりもした。

それらの経験が、後になって子育てや、不登校の学習マネージメントでも役立ったりもした。当時は思ってもいなかったことだ。

ケアマネージャーの仕事である、地域にあるサービス、民間のサービス、周囲の人の想いと本人の希望、特性を合わせてマネージメントをする視点。

これが、特性があって不登校になった我が子のために、地域の習い事や学習支援、民間のサービス、それぞれの会社や担当者の方針や想い、本人の希望、本人の特性や病院の判断、親の希望を合わせてマネージメントする視点とかなり似ていた。

(公的な支援という視点でいうと、本来は相談支援事業としてサービスの利用計画を立てるマネージメントが受けられるはずなのだけど。

我が家の場合はお役所からの確認がないまま、その利用計画を親が作成して提出することになった。たぶん人数も多いしあまり公的マネージメントが機能していないのが現状なんだと、自分なりに思っている)


人生は何が助けになるかは、全くわからない。

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在宅での医療や看護にはずっと興味があった。

自宅で生活をする患者さんは、着慣れたパジャマをきて、愛するペットと一緒に寝たり、お気に入りのたまご豆腐を毎日食べたりしている。

それは、病院で全員が同じ薄ピンク色の病衣をきて、同じトレイに配膳された食事をしている患者さんよりも、全身からその人らしさがあふれて、自然体で生きているように感じた。

病院は治療を優先する場所だ。

その人の生きざまとか、価値観は少し脇に置いて、健康のため、寿命を延ばすために、入院中はその人らしさを少し我慢することもある。
それは、病気を治すためにはとても大切なことでもある。

ただ本当に患者さんの人生にとって大切なのって、自分で自分の健康や気持ちを把握して、自分で管理できて自分を大切にできること。
そして幸せだと思って生きられることじゃないか?って思いはじめたら、なんだか病院の外に出てみたくなった。

私の場合はね。
ちょっと人に対しておせっかいになりやすいのだ。

看護師の場合は、結構先読みをするのだ。
病状の知識と今までの経験から「たぶんこれから、こんな風に病状が進行する可能性があるな」って、少し先を予測していることがある。

すると「今のうちに○○しといた方がいいですよ、その方が病状の進行予防できますから!!そうに違いない!!」という気持ちになって、それを伝えたくなることがある。

でも、それってたぶん、ダイエットと一緒。
「糖質を少し制限して、たんぱく質とミネラルバランスを考えて、一日の食事摂取しましょう。そしたら痩せますから。」
なんて、言われたって。

う~ん、なんだかそれは聞いたことあるし、知ってるけれど
そんなこと言われただけで、実際に出来たら苦労しないんだよね

と思う。

それを、「なんで糖質制限しないんですか!そしたらきっと痩せるのに」ってごり押しされたって、「わかってるわ~!」って言いたくもなるよね。

「○○しといたほうがいい」と分かるのと、そこに併走できることはかなり違うと思う。だからこそ、チャレンジしながら失敗しながら、患者さんが患者さんなりの生活を調整して変化をつけ、自分らしく生活していけるようなプロセスを経ることが、実は近道だと思うのだ。

そのプロセスの併走者であるってことが、患者さんの意志を尊重したり、大切にしたいことだと思うのだ。

看護師が支援しすぎて、管理しすぎることで
「看護師がいないと自分の体の管理ができない」にならないようにしたい。

これって、育児も一緒だとつくづく思っている。

支援者がでしゃばりすぎない。
親がでしゃばりすぎない。

患者さんが主体となって、自分の人生を自分で選択する。
子ども本人が主体となって、親が敷いたレールの上を生きるのではなく、
じわじわと自分で人生の選択ができるようになっていく。

育児の時は、親の「よかれ」と思う価値観でつい押しすぎちゃう傾向がある。それも愛情なんだけれどね。

意見を全く言わないのも、違う。
でも言い過ぎて押し付けるのも違う。
さじ加減は実はとっても難しい。

看護の場合は、その選択のメリットデメリットを伝えて、あとはご本人の選択を信じる。職業人としてお勧めすることはとても大切だから、記録には残しておくのだけれど、それでも本人が選択したことを尊重する。

じゃないと、例え、その後が良くなったって、悪化したって。
本人が選択したという納得がないと、その人の人生の責任は本人にしか負えないのだ。そして例えその結果、何か状態に変化が起きても、その段階からまた一緒に考える。

そういう考え方がいいなあと思う。

在宅だからってそれが十分に出来ているかというと、疑問に思うときもあるし、私にその力が十分にあるかっていうと、まだまだ知識も経験も未熟で判断できないこともあるのだけれど。

でも、そういう考え方を丁寧に温めて抱えながら、ケアしたいし、育児もしたいなと思う。そのために押し付けすぎない自分でいれるよう、成長したいなとも思う。


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