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子どもを心の底から信じるということ。

「子どもを信じる」

文字にしたらたった7文字だ。声にだしたら2秒かからない。

そしていろいろなところで何度も言われている気もする。
だから耳ではすでに聞き慣れて、身体に馴染んでいるようにも思う。

そんな言葉。

「子どもを信じる」

でも、その意味を噛み締め、味わいつくして、腹に落とすには、
おそらく何年もかかるものだとしみじみ思っている。


「子どもを信じる」を大切にしようと思うとき、
それとバランスをとっているのが子どもを心配する気持ちだ。


例えば、よちよち歩く子と一緒にレストランでランチしている。
席から5メートル離れた場所には階段がある。
「階段の近くで遊んでいたら落ちやしないかな」と心配する。

それは危険を察知するために大切な親のシグナル。

周りの状況も見ながら判断する。

階段から少し離れているから、大丈夫と思えば見守る。
手を繋げば階段を降りれるなと思えば、側で手を繋ぐ。

もう一人で降りれるくらい歩くの上手になった!とか
うちの子は慎重なタイプだから、ちゃんとゆっくり降りるから大丈夫とか
子どもの持つ力を信じて、安心ができれば
「階段を落ちやしないかな」という心配は、たぶんそんなにしなくなる。


そうなのだ。
その力が十分だと信じられれば親は手を離せる
ということが起きる。

危険を避けるために大切なシグナルが、
過剰に反応すると、ときに親が手を離せなくなって、
「子どもを信じる」ことの邪魔をしてしまう、なんてこともある。

「もう一人で階段降りられるから大丈夫!」
「でもまだふらっと落ちることはあるかもしれない」

その間でぐらんぐらん。
親だって、迷う。

こどもが自分で階段を降りようとする。
「じんぶで!!」
まだ「自分で!」だって、ハッキリ言えないのに。
親の手を振り払って自分で降りようとする。

「まだ危なっかしいよ」と手を繋ぐか、
「落ちても大怪我しない範囲」で支えるか、
「自分で手を離すなら、任せてみよう」と様子をみるか。

その子が親に「一緒にやってほしい」とどれくらい願っているのか。
子どもの個性はとっても大事。
その選択の裏にある親の気持ちは、ちょっと見つめなおしてみると、奥にある心配の強さがわかる。


愛情いっぱいだから。
つい心配してしまう。
ちょっと手伝ってしまう。

危ないからやめときなさい。
心配でつい言ってしまう。

自分の力で階段を降りようとしている子どもの新しいチャレンジを止めたくないと思いつつ。でも危ないのも事実。

子どもを信じて、やっていることを本人に任せてみるのは、実は本当に難しい。


本人が気付かないくらいの程度でサポートしたりする。
チャレンジを見守る親の姿勢は
「心配よりも信じているよ!」というメッセージになる。
「あなたなら出来る」という無言の励ましになる。


「子どもを信じている」というメッセージを送れる親でいたいと思う。
だから自分の心配な気持ちと上手くお付き合いしながら、子どもの新しい挑戦を毎日見守っていく。


すると、少しずつ「信じているから、もう手伝わないよ」なんて。今までと少しずつ違った愛情の形になっていくのだ。



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