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サドベリースクールという秘境

先日、サドベリースクールの見学説明会に参加してきた。どのような学校かというのは下の記事を読んでいただいた方がわかりやすいかと思うが、私はそこで感じた母親としての想いを書いてみたいと思う。

わが子が学校に行かなくなり、その理由の1つとして
「学校には僕にあった勉強の仕方がない」と言うようになった。

彼は「生活の中で大人と同じように勉強したい」と主張する人だったので、サドベリースクールについて調べてみようと思ったが、もしそうでなければサドベリースクールを「面白い学校だな」とは思っても、わが子を入学させようかと考える勇気はなかったように思う。

それくらい自分が受けてきた教育からは大きくかけ離れているので「ここに入学したらどんな将来となるのか」は想像もつかない。そして、サドベリースクールのスタッフの方も「お子さんが自分で切り開いていく力を信じるしかない」とのお話だった。

もし自分が小学生ならこんな学校に行きたいと思う。と同時に将来への不安を自己責任で背負えるかはよく考えないとわからない、とも思う。

社会に守られ、親の判断に守られているのはある意味では楽なのだ。サドベリーでは子どもがゲームをしたり一日中自由に過ごしており、「楽そう」に見えるかもしれないが、その背中には「自分でやらなければ、誰かが代わってくれるわけではない。自分の事は自分で責任をとる」事が徹底しており、その厳しさは成人した大人が社会で背負っている事と同じものを、子どもでも背負う事になる。

1人の息子は「そんなの絶対無理」という。「みんなと同じである事は安心」だそうだ。

そしてもう1人の息子は、サドベリーを見てとても迷っていた。「体験は試してみたい」という。ただその責任の部分をどれだけ感じているかは定かではない。

ただ、それも時間をかけながら本人が感じる事かもしれない。母親として、お話を聞けてとても良かったと思う点があった。

それは、サドベリーの特徴でもある「学びたいときは、学び方も学びに使われる教材も、学びのタイミングも本人が決める。あえて大人はその準備をしない」という方法。

買い物に行って計算ができなくて困ると本人が思えば、「お金の計算がしたいから計算の仕方を学びたい」というと、その意思を確認してからどのように学ぶかの相談に乗ってもらえるそうだ。「誰か人を呼ぶか、動画から学ぶか、ドリルから学ぶか、本を読むか」などは全て自身が決める。

また「午前中にやりたい。午後やりたい」なども自分で決めるのだそうだ。

スタッフの方はその筋道の立てかたの相談というスタンス。

私は今まで、本人の興味がありそうだと思うものは、手に届く場所にあれば、刺激に触れる事ができると思い、「こんなのあるよ」と教材を買ってきて置いておいていたように思う。

今、振り返り、それらの教材に興味を持ったかというと、ほとんどが流されていったのだ…。それをなぜだろうと思っていたが、その過程に親が入り込みすぎていたのかもしれないと思った。

学び方を調べる、筋道を立てれるのが、究極の探求活動かもしれない。それが人が元々持っている本来の興味からくる学びの面白さなのだと思う。

サドベリースクールでは、時間がゆっくりと流れていた。何を大切にするか明確になっているその場所を私は好きだなぁと思った。






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