オムレツを作ろう(村上春樹著「村上ラジオ3 サラダ好きのライオン」より)感想文

 村上春樹がこのエッセイで言おうとしていることは、食べ物を美味しく書くには「それが風景になじんでいること」が重要であり、この馴染んでいるという感覚は生活していくうちに少しづつ作られていくということだと思う。
 村上春樹はこのエッセイにおいて、オムレツ作りに目覚めた最初の瞬間をこのように回想している。
「その昔テレビの番組で村上さん(註:帝国ホテルのシェフであった村上信夫さんのこと)がオムレツをささっと作られるのを見て、その手際よさと、出来上がったオムレツの美しさに感動し、そのときに『よし、いつか僕もこんな風にオムレツを作れるようになってやるぞ』と決意した」
 随分長きに渡ってこうした思いを村上は心の底にしまっていたものと思われる。そこから村上春樹のオムレツ作りの格闘が始まる。この格闘の模様はこのエッセイ最大の見せ場である。なんと、オムレツ作りの最大のコツとは、そのフライパンを仕立てることだというのだ。これはなんとも奥の深い話だ。
 村上春樹は徹底した生活者である。書くことはすなわち生きることである、と公言する「肉体から文章を作る」村上春樹がここにも現れていると思えないだろうか。
「よく焼いて錆止めの塗料を落とし、きれいに洗う。まず揚げ物に使い、次に炒め物に使い、十分に油を馴染ませておいてから、オムレツ専用のフライパンにする。いったん『オムレツ用』と決めたら、ほかの用途には一切使わない。」マジである。真顔でこんな文章を書いている村上春樹というのは一体どんなおっさんなんだろうと、非常に興味が湧いてしまう。
 要するに、このエッセイとは、生活の厳しさを説いたエッセイなのである。どんな些細なことでも生活にはそれなりの思いや、苦難がある。それを「オムレツ」といういささか可愛らしいアイテムをもって紹介してしまうところが、この村上春樹というおっさんの憎らしいところだ。
 しかし、ここまで周到な準備をすればオムレツ作りは完璧だろう、と思う。実に入念な準備だ。ところが、村上は最後に「オムレツ作りに一番適したシチュエーションというのは、やはり情事の翌日の朝だ。」と延べ、そのシーンを具体的に描写する。ここまで書いてきたフライパンの泥臭い描写なんかが、どうでもよくなるくらい美しい風景だ。きらきらと朝日に輝くオムレツが目に浮かぶようである。
 どうしてこのようにきらきらと輝くように見えるのか。それはこのような光景が、長く苦難とともに歩んできた生活の果てにあるものだからではないか。そして、それを村上春樹はフライパンの調教、という作業でもって僕たちに伝えようとしているのではないか、とふとそんなことを思った。


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