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「嫌い」という感情

人間関係で時折現れる「嫌いなあいつ」

私は何故彼を、彼女を嫌っているんだろう。
自分自身が他者にとっての「嫌いなあいつ」になることもある。
彼、彼女らは何故私を嫌っているんだろう。

好きの反対は無関心とよくいうが、なぜ「嫌う」選択肢が出てくるんだろう。

人を嫌うことって、それだけで労力がいる。
だから、そもそもそいつに対して脳内リソースやメンタルを削る必要すらない。嫌う側にとって損でしかない。
しかし人は人を嫌ってしまうものだし、自分が嫌われないような存在でいようとする。
私たちは「誰か」に嫌われないよう、なるべく波風立たないよう、生きている。

誰に嫌われないように生きているんだろう。
誰からの批判を恐れているんだろう。

絶対に嫌われたくないと思えるほど大切な人は、そんな自分を軽率に嫌うだろうか。
いや、きっと嫌いはしない。

では、自分にとって大切な人って誰なんだろう。

ライフステージが上がると、コミュニティも変わってき、常日頃関わる人間も変化していく。
その際よく考えることは、日常的に周りにいる人間=自分にとって必要な人間、では必ずしもないということ。
過ごした時間の長さや密度は私との良好な関係に比例するわけではない。
(つまり、一緒にいた時間や会った回数ではない)
関係を強くするのは共に経験し感動した出来事の多さだ。
(ここでいう感動は喜びや興奮だけでなく、もっと広義なものである)

春から○○と、目先の不安を拭うため無理して実際に会うよりも前にSNSで繋がったり。
裏アカを作りフォローで友達を囲い、わかりやすい形で盤石な友好関係であると誇示してみたり。
他人からの噂や口コミで得た印象があるし、関わる前からあいつに見切りをつけてみたり。

今の人間関係と鑑みても、これらは意味がなかったんだと気づく。若かりし頃のありがちな行動。

嫌いなあいつは自分の視界からそっと外そう。
愚痴を言うなら、ネタにして笑ってやろう。
だが、陥れるようなことはすべきでない。
嫌いな感情を勝手に抱いたのは私なんだ。
(抱かされたパターンもあるが)
嫌う時間をもっと、大切にしたい相手に使おう。

自分を嫌う人間のことは考えなくて良い。
特に、主語が大きくなればなるほど人は言いようのない不安を感じる。
「みんな」とか、「世間」とか、漠然とした主語は無駄に不安を煽るだけだ。
そもそも、ある程度成熟した人間の性格は、変わろうと思って変えられるわけはない。合わないと踏んで、嫌った奴らが立ち去るべきなんだ。

そんなこんなな考えもあり、私は人間の粗みたいな、負の側面を笑いに昇華するのが好きなのである。それを嫌う人間も当然いるだろう。

その時はそっと、視界から外してほしい。

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