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親愛なる相手には期待を

相手に期待しないで生きる。

傷つきたくないし、相手にも精神的ストレスを与えてしまうかもしれないから。
人間関係に疲れてしまったから。

家族、交友、恋愛関係において一種の虚無主義的なこの考え方は、往々にして聞く。

何事もいわば「中庸」というのが肝要であるわけだが、私は人に期待することはその対象への敬意・愛情表現だと思っている。

自分が好きで関わっている人間に対し何の期待もせずなんてのは、なんだか失礼だ。
好きの反対は無関心というが、当にその状態に自ら飛び込んでいるようで。

その人と関わることで、何か刺激を受けたり、心が温かくなったり、癒されたり、安心したり、楽しい気持ちになったり、自分を取り巻く人間関係はそんな人らで溢れているのではないだろうか?
特に多数の人間と半ば強制的に関わる空間が多い学生時代を終え、人間関係が良い意味で狭まっている社会人以降の人生に於いては。

彼らに対し、幾ら自分が傷つきたくないからと何も期待せずな関わり方をしていても、きっとその人とはより一層の信頼関係の構築など出来やしないだろう。

私が言いたいのは「その期待が一般的なものなのか、その当人の人柄や特性を加味した特定的なものなのか」という違いだ。

例をだすと、

前者は「友達だったら」「恋人だったら」「先輩だったら」「男だったら」と、ステレオタイプな考えに基づき相手に期待することだ。
これはただのエゴだといえる。
そこに相手の人柄は存在していない。

後者は「あいつだったら」「あいつなら」と、相手の人柄や性格、特性に基づき期待することだ。
これは相手へのリスペクトが感じられる。

完全に持論なので異論は認めるし、後者も過度なものになると相手に負担を掛けてしまう危険性を孕んでいる。

しかしここで述べているのは「期待しない」ということに対しての意見だ。

人間関係で疲れることもあるかもしれない。
しかし、それをお互い乗り越え対話し続けることで、一層良い人間関係を築けるかもしれない。

私自身、常に円満な人間関係のもとここまで過ごしてきたわけではないし、小中高の友人で、年に一回以上連絡を取り合う人なぞ、片手に収まるくらいしかいないが、だからこそ、今なお関わり続けてくれている人々への感謝を忘れず、かつそれを伝えていこうと、そう思って生きている。

私は、私を取り巻いている、有り難くも親しくしてくれている人間に対して、皆一様に、様々な側面で期待をしている。

これは私なりの敬意であり、愛情表現なのだ。

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