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外にいるゴキブリはこんなにも怖くないのに

帰り道、都内の汚い飲み屋街、中華屋の勝手口、たまにゴキブリを見かける。

でも室内、特に自分の家で見る時と比べて圧倒的に怖くない。雑魚め!と、軽く一瞥くれて通りすぎるか、足で威嚇してその場を去らせてやる。

自宅の場合は、殺虫剤がないと怖くて無理だし、触りたくないし、頼むからなんとか穏便に終わってくれと願い、隙間に入るなんていう長期戦を強いられないことを神に祈り続ける。
こちらから暴行を加えようものなら死に際に卵の置き土産をするとか言うし、1匹見たら50匹はいると思えとか言うし、いや、ゴキブリ半端ないって。後ろ向きのボールめっちゃトラップするもん。

最近、改めてこの手の感覚は一体なんなんだろうと思った時、いつしかネットでみた面白い比喩表現を思い出した。
「外で汚いおっさん見てもなんも思わないけど、家帰って普通におっさんいたら気持ち悪いし怖いやろ、それと似たようなもん」
とかそんなんだった気がする。

確かに怖えーよ。

なんで私の家いるんだよ、なんか汚いし、やめろって、いやいやおっさんがおっさん呼んでうちで宴会開くなよ。暴れるな、吐くな、同じ話をするな、キツすぎる下ネタ言うな、自慢話ばかりするな、おもんない若手イジりすんなって。
…話が逸れたが、
こういうことだろう。(違います)

やはり「自分のテリトリー」、
つまりは安心できる場所って大事なんだ。
人付き合いにおいても同じく、
安心できる人やコミュニティは大事。

物理的にも心理的にも、テリトリーは人生で必要不可欠。

・・・
少し自分の話をする。
私は自身に降りかかったことをなんでもかんでもネタに昇華し笑って解決しようとするので、ストレスの肝の部分は心の納戸に整頓もせずに投げ込んでしまう。沈黙の臓器でお馴染み、肝臓と似たような感じだ。

なぜそんなことをするのかと言えば、毒を吐きすぎて人に嫌われるのが怖いし、幼稚だとか、ださいだとか、感情の制御ができない人間だとか、そんな風に思われたくないプライドもあるからなのだろうと思う。
なかなかどうして対処が難しい。
弱音とかはあまり人前で吐きたくないし聞かれたくもないので虚勢を張って生きている。
本当は内心を垂れ流したりしたかったりするのだが、そう簡単に垂らしてたまるかという確実に不要で変な意地がある。
心理的なテリトリーが狭くうまく発散できないのでこんなこと(納戸行き)になるのだ。が、もう少し拡げてみようにもやり方がわからない。

自分語りをしたが今回言いたいことは以下。

自分の物理的、心理的に安心できるテリトリーは死ぬ気で守り抜いた方がいい。
多少拡がることは良いことだけど、縮小するのはいただけない。
それを守るためならテリトリー外の多少の犠牲は払うべき。

曖昧なものに左右されテリトリーを失うくらいなら、自分にとっての「確実な安心」を堅実に守ってゆきたい。

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