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寝返りで五輪強化選手に

ちいさなボートは凪のなかをゆったりとすすむ。
麻縄でできた釣り糸を垂らしながら、A氏はタバコを海に捨てた。

なにもない日だった。
潮風とともに般若心経が薄く聞こえ、ドップラー効果とともに山の向こうに流れていった。

A氏は白く伸びたヒゲを撫でる。釣り糸は一向に手ごたえなく、ただ黙って潜り続けている。

遠く向こうから、これまたちいさなボートがゆっくりとA氏に向かって流れてきた。波に身を委ねて、すこしずつ、すこしずつ近づいてくる。そうしていよいよ、A氏の真横を通った。

「釣れますか」

A氏が横を見ると、ボートには両鼻からガブリチュウをぽとぽとと生み出し続ける老爺が乗っていた。

A氏はその問いに答えず、ただじっと彼の顔を見つめる。老爺も依然ガブリチュウをぽとぽと産み落としながら、少しほほえんでA氏を見つめている。
波はゆっくりと2人の距離を広げていく。そうして、まったく見えなくなるまでお互いはじっと見つめ合っていた。

A氏はまた釣りに戻った。
いやハナから釣りなどしていなかったのかもしれない。麻縄は熟した僧侶のようにシンとして動かず、波もまた赤子の寝息のように落ち着いていた。

「釣れますか」

先ほどと同じ声質、同じトーンが聞こえた。
A氏が横を見ると、さっきの老爺が鼻につぎつぎにガブリチュウを吸い込みながら、バックで戻ってきた。

A氏はまた、老爺の顔をなんとなく眺めた。
老爺も少しほほえんだままA氏の顔を見つめ、ボートの底に大量にあるであろうガブリチュウをスポポポポと吸い込みつづけている。

2つのボートはすこしずつ離れていく。
そうして老爺が見えなくなるまで、A氏は彼を見つめていた。

A氏が釣り糸に目を戻した瞬間、はじめて釣り糸がピンと張った。
彼は焦ることもなく、ゆっくりと竿を持ち上げる。すると同時に、右肩に妙な違和感を覚えた。

見るとポロシャツに釣り針が引っかかっているのである。針は麻縄でくくられており、縄はずーっとずーっと天高く、雲の向こうまで続いていた。

A氏は持っている竿をもう一度持ち上げた。
右肩が引っ張られる。
2、3回持ち上げると2、3回引っ張られ、グイと持ち上げるとグイと引っ張られた。

A氏は竿を右手に持ち替え、左手で肩の釣り針をとった。そのまま、右手を上手に使ってアジを釣り上げたが、まだ小さかったのでリリースすることにした。

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