見出し画像

遠足で職員室に来た日のこと

テレビからニセの笑い声が聞こえる。深夜2時だというのに、なんて刺激のないバラエティだ。「眠たいね」。彼はそう言ってあくびを漏らし、ごろんと横になった。

今日はたくさん遊んだ。映画に公園に喫茶店。好きなものを詰め込んだ一日が終わる。明日には空っぽになって、また新しいなにかが私を埋めてゆくだろう。

「うん。もう遅いし眠ろう。おやすみ」
「おはよう」。彼に肩を揺さぶられた。
寝ぼけ眼のままメガネを掛ける。スマホを見ると9時を過ぎていた。カーテンの向こうから光が漏れている。初冬の晴れた朝は、私が一年で最も好きな時間である。彼もそう。「冬はつとめて」もなかなか馬鹿にできない。ベットから出てカーテンを開けると、山の向こうには、あかあかとした夕陽が落ちようとしていた。

「そういえば、駅前にイタ飯屋ができてたね」
「あー、らしいね。行く?」と私が返事したころ、彼はすでにリュックを持って、出かける準備を整えていた。急いで薄手のコートを羽織り、リビングの電気を消す。靴を履いて玄関のドアを開けると、入道雲の隙間をかいくぐるように朝陽が降り注いできた。

「やっべ。ミーティングの資料つくるの忘れてたわ」
彼はデザイナーだ。まだまだ駆け出しだが、いくつかのプロジェクトに参加しているらしい。
「私はヤマ越えたから、今日は楽チン」
いいなぁ、と漏らす彼と駅で手を振って別れる。私は山手線、彼は大江戸線。それぞれの仕事がはじまるとき、ふたりはとてもうきうきしている。いつもは混んでいるが、今日は遅くなってしまったので人もまばらだ。本当はもっと早く帰る予定だった。でも直前になってシステムのバグが起きてしまい、その修正に時間を取られたのである。22時50分、電車内から窓の外を見る。紺碧のなか、ビルやマンションの灯りはだれかのひらめきみたいで、妙にうれしい。スマホが震えた。彼からのラインだった。

「もう家着いた?」

「まだ電車だよ」

「どのくらいで着く?」

「あと三駅だね」

「まじか。俺も。あと10分くらい」

「じゃあ駅前で合流しよう」

「はーい」

などとやりとりをしている間に電車は最寄り駅に着く。改札を出ると、彼が待っていた。今日は人生ではじめてスワンボートに乗るのだ。きっかけは昨晩のこと。突然、彼から「あの乗り物なんだっけあれ」と話を聞かされた。私が「え、知らない。なにそれ」と目を丸くすると彼は「嘘だ。スワンボート知らないの?」と言いながら、明日乗りにいこうと誘ってくれた。

しかしこれ以上ないくらいの晴天だ。たなびく雲はもうすっかり秋の表情で、私たちはその下を電車に揺られる。吉祥寺で降りて、井の頭公園まで歩くと、池には4、5艘のスワンボートが浮かんでいた。へんな乗り物。こんなの知らなかった。聞くと昼はあまたのカップルで、白鳥も行き場をなくすほど混雑するらしい。午前中に来て正解だった。一台ずつ借りて、白鳥のからだに入る。たとえ協力するものだとしても、私たちは別々につかって、別々にあそぶ。観覧車もスキーのリフトもそう。動物園は離れてまわるし、映画館では違う列に座る。でも食事は必ず一緒。同じものを食べると、同じタイミングで笑うようになる。

「お邪魔します」。アヒルボートはペダルを漕ぐと進む。舵をきると曲がる。とても単純だ。わはは、と言ったのはアヒルではなく私自身で、視界の端では陽が傾き、薄く月が上りかけている。マフラーをぐるぐるに巻いた私は、春の陽気を感じながら、彼がこの場にいないことを思い出した。

#シュルレアリスム #シュルレアリスム小説 #小説 #短編小説 #文学 #シュルレアリスム作家 #小説家 #ライター

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?