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夫婦のカタチ

夫婦ってどうすれば良いのかな・・。
私は鏡に映る自分の顔をじっと見て
所在なげに前髪を直しました。

そしてまた、大きく息を吐きだします。

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夫婦とは、元々血のつながりのない赤の他人です。

その他人と、生まれてから大人になるまでの間で
出会う誰よりも同じ時間をともに過ごし、
そして、血を繋ぐ家族となる。

すごいことだなと思うのです。大変なことだと思うのです。

実際、この広い宇宙の中から、
たった一人のパートナーとして巡り合えるとか、
運命の出会いとか、
たくさんの恋の言葉があふれている反面、
結婚は忍耐、我慢、妥協など、
ため息しか聞こえてこないような言葉も多いです。

漫画や小説では不倫やお一人様といった作品が
途切れることはありません。

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なんで結婚するのか・・。
小さく言葉に出して、好きだから・・・かな?
とまた鏡に映る自分の顔をチラッとみて
思わず顔が綻んでしまい、
おおげさに息をまた吐きだしてから
遠くに置いたカバンを探り
いくつかの写真たてを目の前に並べました。

その中のボロボロの写真を手に取ります。

広い畑に、寄り添うわけでもなく、
ただ二人ぎこちなさそうに映っている
祖父母の古い写真。

見つけ出した数少ない祖父母の写真。
その姿にまた、自然と頬が緩みます。

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私の祖父と祖母は、
世間一般から見て
とても仲良し夫婦には見えない夫婦でした。

口を開けばすぐに言い合いになっている二人を見て、
子ども心に仲良くすればいいのに、とか、
半分あきれてしまうような、
子どもながらに大人の目線で見てしまうような
そんな夫婦でした。

祖父は頑固で、真面目でそして短気で。
昭和の男というイメージが
そのまま生きているような人でした。

祖母は、家に迷い込んできたへびを
瞬殺で倒してしまうような
浜の女らしく気の強いところも、
口が悪いところもありましたが、
とても世話好きな人でした。


私は、大のおばあちゃんっこでした。
忙しい両親に代わるように、
物ごごろ付いた時から寝るときも、
どこかへ出かけるときも
祖父母が一緒でした。

私には優しい祖父母でしたが、
ちょっとしたことなのに、
いざ二人が喧嘩を始めると、
まさに「犬も食わない」そのものでした。


祖母が
「おめに何言ってもわがんねんだ!」と怒れば、
祖父が
「何この!」と怒って手をあげます。

そんな祖父に祖母は
「また、そうやってすぐぶっくらつける!
 俺死んだらどうすんだ!
 みんなさ迷惑だから
 おれ死んだらおめも死ねよ!」
と言うのがいつものお決まりでした。


よくある恋人同士のような、
死ぬまで一緒にという
甘い言葉では決してないそのセリフに、
今思い出しても苦笑いするほどです。

でも、それが日常で、
それが当たり前でした。

当たり前が当たり前でなくなった日。
このセリフが一生忘れられないものとなるのです。

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忘れもしない、2011年3月11日。
私の家は海のすぐ近くにありました。
県外で就職していた私は、大きな揺れのあと、
母からの電話で家族全員の無事を確認しました。

いつもと変わらない母の声に、
なんの心配もなく笑って電話を切りました。
まさかこれが、母との最期の電話となるとは知らずに。

電話を切ったあと、
しばらくしてかかってきた父からの電話で
私は泣き崩れました。

家がなくなった、母も死んでしまった、
祖父母は行方不明だと。

そのあとのことはぼんやりとしか記憶に残っていません。
あの日、母は電話のあと、津波警報を確認し、
祖父母とともに逃げるはずでした。

しかし、祖父母は動かなかったのです。
祖父は「おれは行かない。」
と頑として引きませんでした。

説得する母に、電話口で母だけ逃げるように叫ぶ父。
立ちすくむ母の姿を想像して胸が締め付けられます。

気の強い祖父母の元、
嫁として悩むことも多かった母は
何を思ったのだろうと。
なぜ逃げなかったのだろうと。

それから、祖父の隣で
黙っていた祖母が口を開いたそうです。

「じじが行かないならおれも行かない。
 じじ一人だとみんなさ迷惑がかかる。

 おれは、じじ一人にすることは・・・できない。
 だから。おれもいるよ。
 だから、逃げて。
 お願い、はよ、はよ逃げて!」


その祖母の必死の言葉を聞いて
母はやっと家を離れましたが、
間に合いませんでした。

母は津波がひいた後、
車の中で見つかりました。

発見した父はただひたすら泣き崩れたそうです。
祖父母はそれからも見つからず、
やっと見つかったときは
もう3月も終わろうとしていました。

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唯一残ったボロボロの祖父母の写真を
私はそっと触りました。

全然仲が良いとは見えなかった祖父母。
でも、本当にいがみあっていたのなら、
きっとこのような最期には
ならなかったのだと思います。

”死を目の前にすると人間の本性が出る”
とはよく言います。
だから、祖父母のどんな恋愛映画にも
出てこないようなセリフは、
やっぱり愛があったのだと思うのです。

今、いろいろなことを振り返ると、
いつも仲良さそうにくっついていなくても、
祖父にとっては祖母が一番の理解者で、
祖母にとっては祖父が自分よりも
かけがえのない人だったのだと思います。

夫婦はその夫婦にしかわからない。

宣言のとおり、
最期の瞬間をともに選んだ祖父母。

そこには、
他人にはわからない
”夫婦のカタチ" があったのだと
私は思います。

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トントンとドアをたたく音が聞こえました。
私は、母と、祖父母の写真を包み
父に託します。

穏やかな午後の陽ざしが
私の真っ白なドレスを照らしました。

まるで、包み込むような
温かくて優しい光に照らされた自分の姿と、
目の前を歩く父の姿に目が熱くなります。

"今日私は結婚します。"
私が、立ち上がれない絶望の中で
何度ももがいている時、
あきらめずにずっと寄り添ってくれていた手を
一生放したくないと心に決めたのです。

結婚というものが、
どのようなものかわかりません。
何がおこるかもわかりません。

しかし、手を放さなくてはいけなくなった
父と母の夫婦の姿と、
最期まで共に過ごした
祖父母の夫婦の姿が
私にはあります。

この先の人生に大きな波が押し寄せてきたとき、
溺れても、飲み込まれても、
向き合うべきものは何なのか、
私はわかる気がします。

これから先、
人生の終わりが訪れる
その遠い遠いその日まで、
一緒に歩むパートナー。

その歩む道のりが、できるだけ長く、
より長く続きますように。

そして、私たちだけの夫婦のカタチを作っていきたい。
重たい扉の先に広がった祝福の拍手と、
はにかむ笑顔の彼の顔を見て私はそう思いました。


こちらは親友の実体験を元にしたお話しです。
あの日、あの時間何をしていたか。
体験した人の数だけエピソードがあります。
あの日から13年以上が過ぎました。

人の記憶や想い出はまた時間とともに変化していきます。
年月をおいたからこそ、あの日のことをもう一度話して、
文字にしたい。そう思っています。

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