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子どもに教えられたこと / それは人間関係のルールだった

子どもに教えられたこと、を言葉にするのはいつも難しい。かの作家が書いたとおり、大切なものは心の目でしか見えないからだと思う。かろうじてぼくに書けることがあるとしたら、子どもは人間関係の先生ということだ。つまり、この大人は思いやりをもって関わる人なのか?についての批評を、心にまっすぐぶつけ返してくる存在なのだ。

(ここからはぼくの体験をもとに説明してみたいと思う)
ぼくは学童保育で宿題を教えたり、ケンカを仲裁したり、あっち向いてホイやビンゴをして子どもと遊んでいる。その時の子どもは、遊びのカテゴリそのものをジャッジしてるのではなく、人と人との関係性の中にあるつながりを軸にして、大人の心をゆさぶってくるのだ。駄々をこねてふざけてみたり、わざと無視して大人を困らせたりもする。だから気をつけて、どんな風にウソや上べでごまかしても、必ずあなたの心は見抜かれてしまうから。

もしある日の夕方、あなたに寄りかかって子どもがうたた寝をはじめたら、それが子どもの人間関係の答えだと思えばいい。よだれを垂らしたり、おならをしたらそれもまた子どもの答えだ。子どもはそんな風にしか伝えられない。あとは大人が心の宿題をがんばる番なのだ。

ぼくは宿題にあたまを抱えるひとりの大人として考える。もしかしたら、子どもは子どもではなく人として、大人も大人ではなく人としてフラットに関わるなら、人の思いやりは心にとどくのかもしれない。たぶんだけど、大人は子どもを先生にして、人間関係のルールをゼロから学び直せると思う。
くり返しになるけれど、人はいつでも人として関わることを忘れてはいけない。大人と子ども、子どもとネコ。黒人と白人、仏教とキリスト教。どんな関係性にあっても同じ人として関わること。どんな時代においても、この人間関係のルールを無視して生きることはできないし、子どもから教えられるテーマままだまだたくさんあるぞ、とぼくは日々感じている。

これが、子どもから教えられた、人間関係のルールです。人間関係であり、人が人として生きるための大切ルールだと思う。ぼくはそう理解して、今日も子どもと遊んでいる。どんな時でも子どもは一緒に考えてくれる友であり、心によりよい存在なのだから。おしまい。青ʁ


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子どもに教えられたこと

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