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スナーキー・パピーの新譜がすさまじかった

すごいアルバムを聴いてしまった

「ライヴ録音からこれを作れるのか!」
 スナーキー・パピーの新譜を聴いて、口をあんぐりさせるほかなかった。

 超絶技巧集団のスナーキー・パピーだからライヴだろうがスタジオだろうが、どんな演奏でも「できる」ことは旧譜からもわかってはいるが、それ以上に「こんな録音物の作り方を思いつくの?」という衝撃だった。やはりマイケル・リーグの発案なのだろうか……そうだとすると、控えめに言っても鬼である。すごいアルバムを聴いてしまったようだ。

 ただ実際には演奏そのものにも、その手練れ集団すら苦労した様子が上の映像から窺える。キメが多く、複雑な構成の曲を有観客ライヴでやる(相変わらず譜面もないように見える)のだから、とんでもない緊張感だろう。

 そして聴き手に対しては、その驚きの分だけ、アルバムを通して完全に未知・未聴のサウンドが用意されていた。録音芸術としての「フィクション」と人力ビッグバンドの「熱」ががっちりと融合されているのだ。

 このアルバムは、これまでのスナーキー・パピー(以下、パピー)のアルバムと地続きでありながら、同時に異なる質感を持っている。私個人が考えた、その理由を書いていこうと思う。

 私は、先行してシングル的に配信されていた曲と映像を、まったく視聴していない状態でアルバムを聴いた。中途半端に聴いてしまうよりも……と思って意図的に遮断したのが、結果としては正解だった。予備情報なしで本作を堪能することができたのだ。
 2022年現在の空気など読まずに、これは「アルバム」という単位で聴くべきだと断言したい。この密度感・ボリュウム感でアルバムをぶつけてくるパピー、本当に恐るべし。その気合の背景は、例によって柳樂光隆氏が行ったマイケル・リーグへのインタビューでお読みいただきたい。

本作の新しさを楽曲から聴き取る

エンパイア・セントラル

 新機軸の発露は、1曲目の『Keep It on Your Mind』がまっさきに担っていた。だから私は冒頭ですでに口はあんぐり、だったわけだ。まさに”心に留めた”。
 5分半の楽曲にこれでもかとアイデアが詰め込まれているし、パピーがこれほどレイドバックした(しかし演奏に緊張感のある)グルーヴで演奏するのも、以前の作品にそうはなかっただろう。
 この曲がとても新鮮に聴こえたのは、セクションごとに主旋律楽器と音場(各楽器の定位)を変化させながら、次第に音数が増えてパピーの全容を示していくかのような構成になっているからだ。
 変化の主なポイントは、導入、1分28秒、2分1秒、3分30秒、4分。この時間点を通過するごとに、楽曲は変化していく。
 基本はリフの反復で構成されているのに、退屈する瞬間がなく、何度でも繰り返し聴きたくなる(私はそうだった)。それはうねりの大きなグルーヴがスケール感を生むのと同時に、先述の音場変化によって、聴き手の聴取ポイントが強制的に変えられているからだろう。定位の決まったドラムを軸にした回転ステージを見ているかのように、上記の時間点を通過するたびにバンドのフォームが変わっていくミックスになっている。

 これが完全なスタジオ録音の切り貼りで行われたミックスであるなら、そう驚きもしなかったかもしれない。パピーはすでに「Immigrance」や「Culcha Velca」で演奏とエディットの技巧を折衷させていた。
 しかし、時間軸の切れ目がない、ひと続き・ひと塊の音楽を切り分けて再構築していく(リフォーム)困難さは容易に想像がつく。グラウンド・アップのハウスエンジニア的存在のニック・ハードの編集にも、緻密な作業が要求されたはずだ。

 リーグがビッグバンドによるライヴ録音にこだわるのは、スタジオで整理整頓したオーバーダブでは起こらない微細な変化、音を重ねているプレーヤー同士の揺らぎが生むグルーヴやケミストリーが欲しいからだと想像する(何せ打楽器だけでも2ドラム、3パーカッション)。
 さらに、少しずつ各奏者の立ち位置で物理的に位相がずれているだろう音も、このアルバムのサウンドの魅力なのかもしれない。天井の高い録音場所(ギャラリー)の残響とポストプロダクションの掛け合わせにより、このアルバムでしか聴けない独特のリヴァーヴ感をまとっていると感じた。

 パピーは本作で、従来までのライヴ録音が「必要とされる理由」を、思い切りひねって着地させてみせたのだ。
 そう考えなければ、「Immigrance」や「Culcha Velca」からの飛躍がなくなってしまう。逆にライヴ録音であれば、「We Like It Here」やそれ以前の作品群と区別することもないだろう。
 なお、『Keep It on Your Mind』はアウトロを、イントロのように静かに終わらせている。広げた風呂敷を、ひとつの位相に戻して観客の聴取点に戻す狙いかもしれない。というか、終点までこないと、これが有観客のライヴ録音だとは気づかない

 と、この一曲で本作の持つ新しさを、私なりに考えたところは説明できたかのではないだろうか。

 先行して映像付きでリリースされていた『Bet』や『Take It』はストレートなスタジオライヴのたたずまいのミックスで、バンドのゴリっとした塊感が味わえる。これはディスク1の最後の『RL』も端的にそうしたサウンドだ。ただし、一聴してライヴ盤らしい音場が広がっているかに思えても、やはり「ただリアルなだけ」なサウンドは求めていないこともわかる。
 いっぽう『Belmont』は生演奏では味わえない浮遊感に満ちている。だからこの曲を演奏の映像付きで聴いていると、不思議な感覚におちいる。特に3分を過ぎたあたりからの展開は、とてもトランスペアレンシャルな音像が広がって、音に包まれる感じがある(のに、映像のバンドの視点は固定されているから)。
 『Free Fall』も好きなミックスだ。左右のスピーカーを越えて楽器の音が気持ちよく外に大きく広がりながら、上下方向には深々とした低域と鋭い高域が鳴っている。

 実際のライヴではバンドサウンドに埋もれてしまうであろう、各楽器の細やかな「鳴り」のニュアンスや、繊細な音しか出ない小ぶりな楽器の音であっても、この録音手法であれば素晴らしい効果を生む。逆にティンパニの低音がアンサンブルを震わせることもある。
 ロウなバンドサウンドの中に、そうした「聴こえていなかった音」が自由な配置で差し込まれることで、非現実的なダイナミックレンジができあがるのだ。

 というように、「エンパイア・セントラル」は一方向からの聴取では済まされず、聴き手の耳にも多様な感覚を求めていると言える。だからこそ、曲単位ではなくアルバムごと聴く意義がある。

 日本盤のボーナストラックの「Take It!」の濃厚な味付けは、ディスク1のより好きだった。

アルバム「エンパイア・セントラル」の意義

 これまで書いてきた内容からもわかるように、その意図(ポストプロダクション)ゆえに、本作はライヴ盤ではない。歴としたスタジオ録音盤である。
 そして、次のようなポップスの系譜に連なる、2020年代のメルクマールとなったのではないかと、私は考えた。
 すなわち、70年代にビル・シムジクが「ホテル・カリフォルニア」で、80年代にスティーリー・ダンとロジャー・ニコルスが「ガウチョ」で、90年代にトータス が「TNT」で、渇望し、試みたことの未来像だろう。
マルチマイクによる生演奏の解体+高解像度録音・編集による楽曲構築というテーマに、当時の機材(やコンピューター)の限界を持って挑んだ三作であり、本作こそその最新モードなのだ。

 「エンパイア・セントラル」は、2020年代のテクノロジーをこの上なく上手に使っていると思われるし、その恩恵を受けることで、先達の作品とは違う次元に立った(音楽的な優劣という意味ではない)。いま現在だからこそ、有観客のスタジオライヴ1発録りという素材を、余すことなくアートに昇華できるのだから。
 音楽の時間軸を寸断せず、空間感とエアー感をうまくつなぎ合わせ、さらに大胆なミックスを施す。そうやって、ビッグバンドのグルーヴと音圧、さらにライヴのテンション感を併せ持つ「スタジオ盤」に再構築したのだった
 ブライダル・ウィルソンが聴いたらなんと言うだろう。
※ただし、複数ある録音日の中で、完全にある日の1テイクずつを基にしているのかは不明。

 上記のような縦軸に置いて「エンパイア・セントラル」を聴くと、パピーがどういった連続性の中にいるのか、あるいはマイケル・リーグのサウンドへの欲望も見えてくる気がする。

 冒頭に貼った動画ほか、一連の「エンパイア・セントラル」動画を見ると、マイクの多さに目をみはる(マイクに明るくはないのだが、1つの楽器に対して指向性の違うマイクをいくつか立てているのだろう)。実際にこれだけのマイクを立てているからこそ、緻密なポストプロダクションが可能なだけの音が集められたのだ。

 観客にヘッドフォンをさせているのは、いったんミキサーを通した音を聴かせるためのはずだ。だから、当日の観客が聴いていたサウンドと私たちが聴いている完パケのサウンドは異なるし、ヘッドフォンを外して生で出されていた音も、それぞれが違った音楽になっていたと思われる。
 マイケル・リーグの頭の中では完成形で音楽鳴らされていたのだろうか……。

 イーグルスやダンなどの先達が音楽の解体〜構築に積極的に用いた別録りを重ねる手法は、ある種のエレガンスだ。奏者は他人の視線を気にせず没頭できるし、現場の空気を気にせず何度でもやり直せる。逆にさっと終わらせることだってできる。
 しかし今回のパピーの手法は対極にある。そもそも集まらないことには始まらない。
 エレガンスを捨て去り、「大勢でせーの」という汗臭くて泥臭い手法を用いながら、それをテクノロジーを介してアーティステイックに反転して見せた。そんな大技を狙って成功したのが「エンパイア・セントラル」なのではないか。
 まさに2020年代にしか生まれない音楽が、本作に詰まっていると言っても過言ではないだろう。敬愛するブラック・ミュージックへのオマージュというテーマもあるので、楽曲の方向性はもちろん、ブリブリに太く、実在感がある音質は大いに好みだった。すごい音を聴いたときの快感は、うまいものを食べたときのように脳天に突き刺さるものだ。

 本作の音楽的背景については、柳樂氏の筆による日本盤ライナーノーツでたっぷりと読める。ライナーで考察されているが、私も本作のコンセプトを知り、コロナ禍で失われかけたものを取り戻したがったようにも感じられた。ダラスというトポスがもたらしたコミュニティの音楽として形作られているのかもしれない。

(了)

※写真はMix Onlineより





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