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誰かあの評論の続きを書いてくれないものか

 20代のとき、創刊からずっと雑誌『en-taxi』を購読していた。定期的に買っていた雑誌としては、これがほぼ唯一だった。レココレもミューマガも特集買いだったので、無条件にレジまで持っていったのはこの雑誌くらいだったろう。創刊号を買ったのは忘れもしない、明治大学裏に出来たばかりのビレッジヴァンガードだった。当然、坪内祐三の肝煎で始めた「雑誌」だったし、彼の評論や雑文をたっぷり読めることにときめきを覚えていたのだ。本当にアッパーな雑誌で、背伸びもいいところ。申し訳ないことに、拾い読みして自己満足で終わった号の方が多かった。引越しのたびに数を減らしていき、いまでは数冊しか残していない。

 その中でも忘れられない、故・中山康樹の『五感の採譜録』という連載があった。高校生の頃からジャズを聞きかじり(初めて買ったジャズのアルバムはアート・ペッパー『モダン・アート』で、いまも愛聴盤)、2003年にビル・フリゼールの『ハヴ・ア・リトル・フェイス』を知って衝撃を受けてから、ジャズを絡めつつカントリー系を主軸に「アメリカーナ」にどっぷり。だから、中山のこの連載はしっかりと読んでいたように思う(マイルスには思い入れがないのだけれど)。

 特に手放せずに書棚に残り続けているのが2006年夏のVol.14号。B5判にサイズが変わったタイミングで掲載されていて、これが本当に素晴らしい評論だった。その回は「カントリー・ローズ・アンド・アザー・プレイシス〜白人ジャズ・ミュージシャンのもうひとつの系譜」と題されていた。いまでも、この中に登場する音楽と中山が提示した疑問について考えながら音楽を聴いているときがある。

 原稿は、「ジャズから抜け落ちたもの」を探るとして、白人ジャズミュージシャンが受けたカントリーミュージックからの影響を追っていく内容だ。「カントリー・ローズ・アンド・アザー・プレイシス」自体がゲイリー・バートンのアルバム名であり、原稿もバートンの同作に感じた疑問から始まっていく。……バートンの言う「アザー・プレイシズ」とはどこなのか。

↑ジェリー・ハーンのギターがブルージィ

 そして、キース・ジャレットの考察にうつり、バートンの「アザー・プレイシズ」とジャレットの「サムホエア・ビフォ」と共通した世界観を見出していく。

 そうした両者の邂逅によって生まれたフォーキー&ソウルフルな「ゲイリー・バートン&キース・ジャレット」にも触れ、ボブ・ディランやザ・バーズにも触発された彼らの音楽表現について指摘していく。

 中山は続いてパット・メセニーの「アズ・フォールズ・ウィチタ、ソー・フォールズ・ウィチタ・フォールズ」もひきながら、バートンと共通するテーマ「ウィチタ」を「アザー・プレイシズ」ではないかとし、白人ジャズミュージシャンが求めた「架空のアメリカ」の表現だったのではと推論していく。

 そして、ジミー・ジュフリーだ。アトランティックから出た「ウェスタン組曲」を導入にして、「ジミー・ジュフリー3 1961」がECMから再発売されたことをヒントに、ブルーノートのアルフレッド・ラインオンとECMのマンフレート・アイヒャーが幻視していた「アメリカ」へと辿り着く。

 中山のこの評論は、冒頭に「はるか先にある到達点はまだ漠然としか見えていない」と書かれて始まっている。だから、中山自身も、この続きを書かずして(もしかしたら総体としての考えを導きだすことは可能かもしれないが)、鬼籍に入ってしまっている。

 ここからは、私見を交えて書いてみようと思う。

 ロックでもジャズでも、「アメリカーナ」ブームが去って久しい。まるで誰もが幻想の・理想のアメリカを追い求めることを止めてしまったかのように。トランプ大統領の誕生やそれにともなう民主主義の危機といった苛烈な現実を、ファンタジーでは受け止められない、その現実自体がSF的だとでも言うように。

 だが、アーティストが「幻視したアメリカ」は常に外(アウトサイダー)から見出されてきた。ライオンもアイヒャーもドイツ人だ。アトランティック・レコードのアーメット・アーティガンがトルコ人外交官の息子だったことも有名だ。中山が評論内で指摘しているように、黒人文化としてのジャズに対して、逆説的にアウトサイダーだった白人ジャズメンは葛藤を抱えた。そのブレイクスルーとして外部からの目となる幻想のアメリカを求めたのではないだろうか。

 それに似た葛藤は、4人のカナダ人と1人のアメリカ南部人が結成したザ・バンドも抱えており、だからこそルーツに根差しながらも徹底してフィクショナルで映画的・小説的なアルバムを作り続けた。また、アウトサイダーの目ということで言えば、ヨー・ヨー・マの「アパラチアン・ジャーニー」などもまたその典型だろう。

 ジミー・ジュフリーの「ウェスタン組曲」はとても描き割り的な印象を受けるサウンドだ。凹凸感やダイナミズムに乏しく、あえて乾燥した風合いの「カントリー」を演出している。どちらかというと、アーロン・コープランドの一連の作品を連想させる、ジャズとカントリーとクラシックが融合しているような響きだ。「1961」はもっと透徹な、現代的な空間表現の中でサウンドが響いている。そして、ECMによる再発は、ジュフリーの異物感(どの時代にも属さないという意味でのアウトサイダーのような)を音響的にも際立たせていた。

 そういうフィクショナルなアメリカを作ってきた一人が(中山康樹も愛した)ブライアン・ウィルソンだった。フォーフレッシュメンに憧れてハーモニーを歌い覚え、幻想のアメリカとカルフォニアのサーガを曲にしていった。ウィルソンからも多分にコープランド、あるいはルイス・モロー・ゴットシャルクの影響を感じさせる。ビーチボーイズもまた、アメリカの中のヨーロッパ的な視点(外部性)と無関係ではない。


 もう一人加えるとしたら、それはレオン・ラッセルをおいてない。カントリーもロックも宗教歌もごたまぜにしたスワンプ・ロックという壮大なフィクションは、まるで「アメリカン・ゴシック」の裏側を描いたような世界だからだ。

 また、端的なジャズ&カントリーの例といえば、2008年のチャーリー・ヘイデンの「ランブリンボーイ」、アウト感あるフレーズでカントリーの名曲を解体したジョン・スコフィールドの2016年作「カントリー・フォー・オールド・メン」も思い出す。

 ひるがえって、近年、アメリカーナともジャズ畑のカントリーとも肌合いの違う、ジャズとフォークやカントリーを行き来する音楽を耳にするようになった。

 代表は、やはりベッカ・スティーブンスだろう。初期の「ティー・バイ・シー」を愛聴しているし、最新作の「ベッカ・スティーヴンス&ザ・シークレット・トリオ」もまた素晴らしかった。あまり注目されていないのかもしれないが「&ザ・シークレット・トリオ」には『カルフォルニア』というポール・クレリのカヴァー曲が収録されている。原曲の雰囲気を生かしながらも、メロディが違和感なく微分音の海にただようなアレンジに仕上げられており、これはシークレット・トリオというアウトサイダーの目を通した、スティーヴンス流のフォークへの「橋渡し」と感じた。

 クレリのオリジナルは、曲名もさることながらジョニ・ミッチェルを思い起こさせるし、私の超愛聴盤であるジョン・マーティンの「ソリッド・エアー」も思い起こさせる。そして、どちらも70年代にフォークからジャズへの架橋を試みたミュージシャンだったことからも、クレリの本作の雰囲気を感じ取ってもらえるだろう。スティーブンスにはクレリをフックアップする意味もあったのかもしれない。

 そして、いま中山康樹が存命であったなら、ベッカ・スティーヴンスやマイケル・リーグによってアーティストとしての命を吹き返したデヴィッド・クロスビーの近年の傑作群「Lighthouse」や「For Free」をどう聴くのだろうか。世代を超えて(=アウトサイダーとして)クロスビーに会いにいった彼らが作ったサウンドを、ある「アザー・プレイシズ」 のあり方として、幻視されたアメリカが再び立ち上がるのを、どう聴いてくれるのだろうか。あるいはカントリーへと軽々越境するジュリアン・ラージはどうか。

 だから、誰かに、あの評論の続きを書いてほしいのだ。



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