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戦争の話を、もっと家族から聞いておけば良かった?

堀川恵子という
ノンフィクション作家がいます。

最初はテレビの制作でしたが、
早くにルポルタージュ作家に
なっています。

題材はどれも骨太です。

死刑や司法、
また戦争や原爆を
追求してきました。

『原爆供養塔』
『死刑の基準』
『永山則夫』
『裁かれた命』
『教誨師』などなど。

暗く重いテーマに
年がら年中取り組んでる。
さぞや、、、と思いきや、
堀川さんを直に知るライターに
聞いた話ではとても気さくらしい。

いや、だからこそ、
気さくで明るい人だからこそ、
長期に渡って重い題材に
取り組めるんでしょうね。

最新作は
『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちの
ヒロシマ』で、ヒロシマを取り上げ、
ノンフィクションの名作に贈られる
大宅壮一ノンフィクション賞に
輝きました。

著者プロフィールを見ると
私と同い年でした。
堀川さんは凄いなあ、
そんで、私はまあここで
どうにか生き延びてるだけで…。
ボヤキはこれくらいで(汗)。

ところで、
この本は、あまりに根本的な
質問から始まります。

「なぜ原爆はヒロシマに
落とされることになったのか」。
こんな足元を問う好奇心が
良いルポルタージュを生むのかな?

ところで、
私の父がたの祖父は、
軍人だった。

なぜかというと、
今でも、軍人遺族恩給が
年に3〜4万円、
国?厚生省?から
振り込まれるからです。 

もしも、祖父がまだ生きていたら、
この額ではない金額が
国からおりていたかもしれない。

とはいえ、
私は祖父が軍人だったことを
憎んだり恥ずかしく思う訳では
ありません。

祖父は、除隊になるまで、
ヒロシマの呉の軍港に
勤めていたらしい。

ここで、母に
祖父はそこでどんな仕事をしてたのか?
階級はなんだったのか、
質問するんですが、
家族というのはそんなことに
関心はないのですね。

長年、呉の軍港にいて、
大きな屋敷に住んでいた、
馬番がその行き帰りを
クツワを引いたと聞くので、
軍港で何か英語か何か、
はたまた、兵器の使用方法などを
教える教員だったではないか?
とも思うんです。

そんな祖父は、
敗戦まぎわ、肺結核になり、
慌てて郷里の自宅に戻ります。

呉の軍港は、
敗戦直前には、
日本人の誰もが知る通り、
原子爆弾が米軍によって落とされ、
地獄と化する訳ですから、
祖父にも司令が届いて、
被爆したばかりの現地で
救急にあたったでしょうね。

祖父も間違いなく、
被爆したに違いないんです。

でも、現実の祖父は、
肺結核で和歌山に戻された。
そのかわり、核病は治ることもなく、
戦争が終わって数年後に、
なくなったそうです。

その頃の話を母に聞くと、
まだストレプトマイシンみたいな
治療薬は一般的になっていなくて、 
まだ幼い頃の父は、薬のため、
牛の牧場に通っては、
牛の生き血を一升瓶にもらい受け、
ひとりでは運べないから、
荷車に乗せて運び、
自分の父に飲ませてたそうです。

私は祖父のことを
もっと知りたいのですが、
祖父の家族や知人は
ほとんど亡くなりました。

祖父が見知っていた広島の人で
原爆の被害にあった人も
いたかもしれません。

そうしたら、
教科書には載っていない
原爆の被害を、身近に
教えてもらえたかもしれない。

それより、まず、
祖父は職業軍人として、
戦争についてどう考えていたのか?
戦後には、家に石が何度か
投げつけられたようですが、
それは、祖父の職業と
関係はなかったのか?

軍港で働いていた軍人として、
これからを生きる日本人に
何かアドバイスはないか?
それだけでも聴いておきたかったな。

戦争について色々と
教えてもらえたかもしれないのに、 
私はもったいないことをしました。
あーん、悔しい!

いつも堀川恵子さんみたいに
足元や小さな疑問に、
好奇心のアンテナを持っていれば、
もう少し何とかなったかもしれない。

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