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【読書?】教養より、許容が大事?と思いたい。

教養量より許容量が大事では?

最近、自分の許容量が
小さくなったなあと思うことが
あります。
デジタル化のせいもあります。
私が歳を取ったせいもある。
疫病禍で、社会全体が
ギスギスしてるせいもある。 
いずれにせよ、良いことじゃ
ありませんね。

許容量とは何か?
「ま、いっか」と思って
受け流せる範囲の大きさでしょうか。

これはどうしたら
大きくできるんでしょう。
まあ、考えてどうこうできる
ことではないかもしれませんが。

もしかして、
今ふと思ったんですが、
本の読み過ぎ、読みかじり過ぎと
関係はないかしら???

読書は自分一人の戯れです。
どう読むかで、心の許容量を
広くできる場合もあれば、
読み方次第では、許容量を
狭くする場合もありますね。

自分一人で自分の好きな本を読み、
自分一人で記事を書く。  
他者はあいだに存在しません。
自分の思う通りになる事態の連続です。
これでひと完結するなら、
読書は人格の許容量を狭める 
恐ろしさを秘めているかもしれません。

と、まあ、これは
読書を「悪者」にして
仮説を立てた場合でして、
あくまで仮説ですが、
それにしても
身の回りでも、教養高い人、
ものを広く知ってる人には
狭量な人と、懐深い人の
2タイプがいるのは確かです。
 
うっかりしてると、
読書は、狭量さへと
人を導く場合があります。

どんなふうに読書すれば
狭量な人間にならず、
懐深い人になれるでしょう。

読書には人を狭量にする
恐ろしさがあるんだと、
いつもどこかで自覚しながら
読んでいけたらいいのでしょうか?

更に欲を言えば、
本の著者ときちんと
「対話」し、
自分との違いも明確に自覚して、
本を一個の人格として、
向きあっていけば、
いいんでしょうか?
 
本もまた、命ある生き物であると!

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