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「エゴイスト」感想文

 2017年6月30日のことはよく覚えている。
 自分はベルリンにいて、ちょうどその日にザクセンハウゼン追悼博物館(強制収容所)を訪ねた。偶然父方の祖母が亡くなった知らせを受けた日でもある。帰宅した私は食事を作る気力もないほど疲れ果てており、近所のスタンドにパスタを食べに行った。バーを兼ねるその店には巨大なテレビがあって、そこでメルケル政権下のドイツ連邦共和国が同性婚を法的に承認したことを知った。
 色々な事情があり、今は祖国かつG7で最も同性婚に理解のない国に住んでいるが、あの時のエポックメイキング的な感触はちょっと言葉では表現できない。戦争が終わったときとか、隕石が落ちたときとか、そういうタイミングでしかもしかしたら味わえない性質のものかもしれない。とにかく何かが変わり、変わったことによって社会もごろっと変わるのだろうと、テレビに映る人たちは実にさまざまなことを言っていた。個人的な歴史と大きな歴史と、その日から変わった歴史の結節点。生きているとそういう「巡り合わせ」としか言いようのない不思議な瞬間が結構ある。歴史を作っていくのは確かに人間なのだが、人知を超えた歴史の力のようなものを感じる瞬間も確実にある。

 あれから自分の置かれた立場も随分と変わり、大きな変化で言うなら昨年、長年のパートナーと法的に婚姻関係を結んだ。有り体に言えば結婚したわけだが、いくら入籍をもって結婚したと法律が見なしても、実態としてはまだまだ家庭を築いているような感触がない。そもそも自分は諸事情あって配偶者と生活を共にすることができていないし、挙式もしていない。日々の生活の中ではクレジットカードの名義変更くらいしか結婚の実感を得られるものがないが、それでも法的に家族であると見なされることに付随する様々な利点を思うと、真っ当に納税し、家庭を運営し、共に生活していてもこの当然の権利を享受できない人が数多くいて、更に政権与党が差別を助長するような状況を訝しみたくはなる。おそらくこうした疑念は法律婚の当事者であればこそだと思う。法の上で婚姻関係を結んだからこそ、以前に増して遣る瀬無さが募る。自分の場合は少なくとも、独身時代に増してこの理不尽を許したくない気持ちが強い。せめてその権利を「選べる」選択を社会として用意してもバチは当たらないんじゃないか。全員が望むとも、望まないとも、選べる自由くらいはあってもいいんじゃないか、と。

 そういう状況下で「エゴイスト」という作品のことを知り、2月に公開されると聞いて昨年から楽しみにしていた。何の映画かは最早覚えていないが、別の映画を見に行った特報で見かけてからずっと気になっていた。その最中で佐野玲於さんの出演歴から「ハナレイ・ベイ」という映画を知り、松永大司監督を知った。「ハナレイ・ベイ」で吉田羊さん演じる女性の「喪失」の描き方に心のしんから打ちのめされ、深夜3時にしゃくりあげて嗚咽しながらどうにかこうにか見終えたのも記憶に新しい。この監督の作品であれば必ず名作になるだろうと思った。特報ではリストの「愛の夢」が引用されていて、街角を肩をぶつけながら歩く、ベッドで抱き合う、ソファでじゃれあう二人の役者の背景にピアノの旋律が流れていたが、このリストの選曲も非常に良かった。過度に湿っぽくなく、官能的な色味も帯びながら、どこか寂寞感の漂う演出だった。ちなみに作中での引用はない。特報のためだけにこの名曲が使われている。なんと贅沢で効果的な音選びか。

 映画には本当のことをいえば公開初日に足を運びたいくらいだったが、どうしても予定の調整がつかず2週目の週末となった。どうしても諦められず、先に原作小説を買った。ただ同じタイミングでいろんな本を買っていて、職場に鈴木亮平さんのファンだという若い子がいたから先にその子に貸した。だから本を貸した相手のその子もかなりのスピードで読んだのだろうと思う。実際自分も読み始めると止まらなかった。何よりシンプルに文章が素晴らしかった。
 読みやすい文章というのは流れがきちんとできているし、状況が伝わりやすい。冒頭のシーンで武装手段としての服装を説明する中で、主人公がいかに地元を嫌悪するに至ったか、それほど嫌っている実家に帰るのはなぜかという説明をいっぺんにしてしまうのは力強い。ともすれば実際にあった流れだから詳細な描写が可能だと邪推することもできようが、おそらく本質はそこではない。それ以上の意義を見出さなければならない。
 エッセイストで原作者の故・高山氏はフィギュアスケート界隈では有名な人らしい。選手の一挙手一投足を描写する鮮やかな文体が話題となり、その筋から興味を見いだしている人が私のTLには多かった。氏が既に鬼籍に入り、この作品の関係者各位が故人を偲ぶツイートをしているのを見た。いかに愛されていたか、いかに素晴らしい人であったか、いかに愛のある方であったかは、全く関わりのない人間にも見て取れる。そして文章そのものにいかに魂を注ぎ込んだのかも。
 原作の舞台はゼロ年代初頭の東京であり、そのゲイカルチャー、その社会の受容や通念など、時代に固有のものである気がした。これは憶測に過ぎないものの、非常に写実的で真に迫った描写だったと思う。別の作家の作品でも同じ時代の日本のゲイカルチャー、LGBTQという単語が巷間に流布するはるか前の時代の「界隈」の空気感、そういったものが意外なほど嘘のない純度で語られていて、本作でも同じ空気感と不思議な熱を感じた。どちらかというと恬澹とした語り口の合間に挟まれる熱量のようなもの、プラスなものもマイナスなものもある大きな感情のうねりのようなものが行間に滲んでいて、言葉を操ることの奥深さを思い知った気分だった。文体フェチにはたまらない。
 小説としての完成度があまりに高く、出勤前に読み耽って電車の中で号泣する己の不始末などもあったわけだが、物語そのものの本筋とも言うべき「エゴ」についてはかなり解釈が難しかった。理解はできるが、バランス感の難しい概念だと思った。映画を見るまでには考えをまとめておこうと思っているうちに、週末が訪れ、私は映画館に立った。

 感動した、というのとは何かが違う気がする。間違いなく感性は揺さぶられているが、この感情に対する適切な名付けが難しい。
 この文章は映画を見た後でコーヒーショップに入り、メモのていで認めているが、ひとつひとつの要素を挙げるとキリがない。ただ一つ言えることは、我々はまるで浩輔の守護霊にでもなったかのようにずっと俯瞰で彼と、彼の恋人と、彼の母、実父、それから様々な社会を見つめ続けるということであり、つまりそこには人ひとりの人生が描写されているということだ。
 物語は徹底して俯瞰していて、しかもそれは神の視点ではなかった。作中、引きの画角で撮られたのは非常に限定的だった。浩輔を見送る親子、手作りの惣菜をソファで一人食べる浩輔。それ以外は大体胸から上の半身を意識して絵が作られていると感じた。演者の表情、細かい芝居が余すところなく見えたので、ありがたい演出だった。画面酔いの危険性も指摘されてはいたが、自分は気にならなかった。手ぶれまでもを含めて、見ている「私」が一人、そこにいるような距離感で物語を追うことができた。
 原作にはなかった友人との関わり合いの密さもそうだが、都内にあれだけの部屋を持てる浩輔の私生活を想像せずにはいられないし、パーソナリティを反映した美術設定や衣装に関してもそうだが、小説で削ぎ落とされ度外視されていた細部の「人間」を構成する要素がこれでもかと練られていたのが映画の良さだとしみじみ思った。BGMの設定にしても、ちあきなおみを熱唱するのも、実際のトレーニング風景を写すのもその一環だと思う。トレーニングの傍ら、彼らがどうして距離を詰め、どのようにお互いへの感情について確信を持つに至ったか、小説では言及されなかった恋愛関係の具になるところもそうだ。この物語は浩輔と竜太の置かれた状況を理解し、適切に読み取るに際して彼らが間違いなく愛し合っていたことの説明が必要なのだが、その愛し合い方に映画の中で一切の妥協がなかったのが本当に素晴らしかった。きっとどうにでもごまかせたはずなのに、それをしなかった。向き合うという固い決意と矜恃を感じたし、それは物づくりへのある種の誠意でもあるように思った。あれだけの真摯な愛の描写はそう世に出せるものではない。「大奥」の実写版も話題になっているが、性愛というのは元来それだけ慎重に演出され、表現されるべき要素である。アクションの殺陣と同じだ。その妥協のなさが一層、キャラクターの実存性を裏付けていた。特に同性愛を絵空事にしない、セックスファンタジーにしない、という徹底を感じられたのがとても良かった。
 これも当然触れなければならない。鈴木亮平さんの喪失の表象は素晴らしかった。彼は物語の冒頭から武装し、失った母への喪失感を大人になってなお埋め尽くすことができず、恋人を失うことに怯え、恋人を失ってからはその母を失うことに怯えていた。歴史が「記録として残ったもの」のみの集積であるように、世界は「遺された」人がどうその気持ちに折り合いをつけるか、どうやって失ったものを覚えるか、または忘れるかという営みの繰り返しである。あまりに実存性の高い浩輔の失ったものは多い。ずっと半身をもぎ取られながら生きてきた人間の、孤独に慣れきって武装した人間の哀しみをあれほど如実に表現されては、何も言葉が出ない。鈴木亮平という役者の紛れもない技量をまざまざと見せつけられて、浩輔が亮平さんで本当に良かったと思った。ちなみに私はいつも亮平さんの出演作を映画で見るときは必ず西宮の劇場に足を運ぶのだが、ほぼ8割の席が埋まっているというかなりの盛況ぶりだった。
 
 愛とエゴの匙加減は難しい。人は人と関わる中で少なからずエゴイスティックになるし、そのエゴこそが魅力的だと思う。自己主張をされないのは関わりがないのとほぼ同じことだ。愛するとは相手のエゴを受け入れることで、愛し合うとは互いのエゴをさらけ出し合うことに近いのかなと感じている。利己的で自分本位なことは往々にして人を傷つけもするのだが、作中で語られた「あなたが分からなくても、私たちが受け取ったものが愛だと感じているから」という言葉は深い。冷たい言い方をすれば愛は主観なので、愛されたと感じていれば愛になるし、愛されなかったと感じていればどこまで行っても愛にはならない。愛しているを伝えるためにどう愛するか、何で愛を表現するのか。これは浩輔と竜太とその母の関わり合いのみならず、何かを「愛する」という行為に常につき従う普遍的な葛藤であるように思う。とりわけ自分は実在人物を対象としたファンダムに身を置いているわけで、愛の差し向けかたと届け方、愛し方、返礼される広範に向けた愛情(対象を取らない愛情)への距離感をいつもはかりかねている。何かを愛するのは基本的に利己的で自家中毒気味な営みであることを自覚しつつ、それでも関わりを持つということは多かれ少なかれの愛情を注ぐことと非分離なのではないか。
 共感という文脈でこの映画の状況を見るのは難しいかもしれない。だがこの普遍性を考えるのは誰にとってもそう遠いテーマではないのでは。例えばその対象が誰か具体的な身の回りの人間に限定されなければ、特に好きなものがたくさんあるオタクは、愛についてこの映画をきっかけに考えざるを得ないのではないかとすら思った。

 最後にこの映画の中で最も愛を感じたシーンについて記載しておく。ハンドクリームを塗り込むシーンだ。相手を観察していないとできないことだし、相手の体に触れる距離感があっての行いだと感じた。
 個人的な話になるが、自分の祖父が亡くなったときのことを思い出した。湯灌のときに担当者の方が祖父の手に塗り込まれたハンドクリームに気づいて、大事にされてたんですねえ、と母に声をかけた。私から見ても祖父と母は喧嘩の絶えない父と娘だったが、あの類の愛をどうしても忘れることができない。
 映画全体を通して、そういう個人的な記憶に触れる、ひとつひとつのシーンの力が実に見事だった。誰かを「思い出す」というのは案外、そういう些細な、とても小さな、何かしらのきっかけを引き金とした行為なのかもしれない。「ハナレイ・ベイ」もそういう映画だった。松永監督はこの追憶の表現が抜群にうまい。今後もきっと感性を揺さぶられ続けるだろう。

 2023年は2022年に見られなかった分のたくさんの映画を見てみたい。そういえばまだ2022年の総括をしていない(話題偏りそうだけど)
 そっちもそのうちやります。2023年も当ブログとツイッターアカウントをよろしくお願いします。

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