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日本語は心のよりどころ〜古典素読会

最近の若い人の言葉遣いは、、
敬語や尊敬語使い過ぎでわけわからなくなっているのでは?

昨日、素読会を開催しました。
前回参加してくれた4名のうち3名が集まりました。

日本語48音の母音子音、カタカムナ5,6首を発声してウォーミングアップ、それからカタカムナを1~10首音読しました。
ひとしきり声を出したので小休止。

素読会は講師による細かい発声指導や古典についての解説はなく、ただひたすら古典を読んでいきます。
みなさんは読んだところの感想を言い合っていました。

話がどう転がっていったのか今となっては手繰り寄せることもできませんが、現代の人の言葉遣い、直接的な言い方は非難され婉曲的な表現が求められる現実のことを話し合っていました。

また、現代社会は左脳優位であり、五感がなおざりになりがちだからこそ「五感で感じる~」なんてキャッチフレーズがよく用いられていますが、昨日のメンバーはわたしたちは五感に頼り切っているふしがあるけれど、本当に大切なことは五感がきかないところいわゆる第六感にあるのではないか、などと話していました。こんな話題には当然縄文人が出てきて、縄文人はこうだったみたいだよなどと話しました。

なんてすごい人たちなんだろう!

と思いながらもここは素読会。
そして皆さんの話を聞いて切に思ったのは、わたしたちが今読んでいるものにだいぶ答えがありそうなこと。

言葉遣い、「違うのではないか」「不適切だ」と誰かのことばに文句をつけたとしても、自分の中に確固たる日本語があるのか。どんな日本語ならいいのか。「それは違う」と思っても自分の中にブレない一本の柱があるか。
古典は現在にまで読まれ継がれてきたえりすぐりのテンプレート。
確かに現代人であるわたしたちが文を作るときに何かと使ってしまう指示語などが少ないな、音読しているとそいでそがれたミニマムな美しさがあることに気付きます。

左脳ではなく五感、どころか第六感。
「虫の知らせ」「勘」と言われるようなこと。

ホツマツタヱによると日本語の48音は宇宙を48分割したひとかけらずつ。それらを七五調の心地よいリズムにした和歌は日本人の心ともいえる。
一音一音が自然界の一部なら、日本語そのものが自然の理では?日本語一音一音に言霊があるとも言われています。

とにかく音読しましょう!
と、今度はテキストを開き、古事記・万葉集・古今和歌集の仮名序を色々な読み方で音読しました。
みなさん熱がこもり、大きい声を出し、気持ちよさそうでした。

哲学サロンのようになった素読会。
こんなこと話せる相手今までいなかった、とおひとりが呟き、ほかの方も同意の様子でした。

古典音読にはさまざまなヒントがある。
世の中の人それぞれに想いがある。

コミュニティカフェ構想をあれこれ考える今日この頃、またひとつのきっかけが。

よかった、ありがとう


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