一休宗純の間違い
頓智で名高い一休さん。
一休さんは御坊さんでした。しかし、普通の御坊さんとは違い、やりたい放題だったようです。
何でも鑑定団で聞いた話ですが、どうしてこんな風になってしまったのかというと、寺の僧侶の修行の様子を見たからでした。
寺の僧侶たちは、一生懸命修行に励んでいることは間違いがないようでした。しかし、どうやら、外面ばかりを取り繕っているようなのです。自分はちゃんと修行をしている。これだけ仏にしっかりと仕えた行動をしている。それを回りに認められたくて修行してんだと。その上っ面だけの行動に嫌気がさしたのだと・・・。
それが修行だというのなら・・・それが仏になるために必要な行動だというのなら、自分はそんなものどうだっていい。そして、禁じられた行動にも平気で手を出すようになったのだと言います。
こんな歌を詠んでいます。
釈迦を侮辱した言葉ですね。釈迦が出てきたせいで、多くの人がかえって道を彷徨うことになってしまった。という感じの意味です。
私は一休さんの気持ちはよくわかるんです。でも、一休さんはここで間違えちゃったなって思ってます。
僧侶たちが釈迦の道を、上っ面だけで目指している。自分がこんだけ修行しているんだと、周りから思われたいからこそ行動している。そういうのが気に喰わないっていうのはよくわかるんです。
ですが!だったらあなたは、周りの目を気にせず、仏の道を歩めばよかったではないかと・・・。つまり、周りにどう見られていても気にせずに、禁欲的な道を歩めばよかったのです。
僧侶たちがそんな奴らなら、自分はもう仏の道なんて従わん!という勢いで、反射的行動をとってしまったのは、早合点だったと思います。
一休さんが軽蔑した僧侶自体、別に仏の道を通ろうとしていたわけではないのですから。彼らだって、自分達が一体何をやっているのか、自分達でもよくわかっていないのです。多くの場合、修行をすること自体が手段ではなく目的になってしまっているのですから。
悪い例を見て、そうじゃない行動をとる、というのは正しく見えますね。だからといって、真逆の行動をとればただしいというわけではありません。
多くの人に愛される一休さんですが、私はこの時の一休さんの判断には納得しかねますね。
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