悲報 さだまさしさんの『償い』は『洗脳』かもしれない。
閲覧注意:さだまさしさんのファンや、『償い』という詩に感動した人は読まないでください。
さだまさしさんの『償い』という歌を聞いたことはありますか?
『ゆうちゃん』という心の綺麗な人が交通事故を起こし、その償いのために、わき目もふらずに働き、せめてもと被害者の奥さんへ一生懸命送金するという詩です。
このゆうちゃんの気持ちや行動を否定したいのではなく、私は、どうしてゆうちゃんがこれほど償わなきゃいけないんだろうなって思っていました。
交通事故起こした本人なんだから仕方がないじゃない?っていうのが皆さんの常識で、交通事故は、ドライバーの責任になるのは当たり前だと思いますよね?
私は個人的に思うんですけど、車社会にした以上、一定の確率で交通事故は絶対に起こると思っています。つまり、誰かの責任とかじゃなくて、交通事故は、100%起きるっていうことです。100%起きるものを、どうやって止めろっていうんですか?
一生懸命、交通事故防止策をこうじて、皆がルールを守れば交通事故は起きないと言う人も多いですね。ルールさえ守れば、交通事故は起きないと。言い換えればこれも、ルールを守らない運転手の責任だと言っているわけです。
でもね、今まで生きてきて思うんですけど、人間全員がルールを守ったことなんて一度もないですよ。これはまぁ、100歩譲って良しとします。よくないけど。
で、ルールを守っても、ルールに不備があれば事故は起きますし、今まで、ルールに不備がなかったこともありません。
そして次に、車に何らかの不備があったりした場合も事故の原因になりえます。これもまぁ、よしとします。車を作るうえでのルールを守れば、防げるということにしておきます。
でも、その不備はたまたま発生するかもしれません、石が転がっていたとか、天候が悪かったとか、外部的要因によって起きるかもしれません。
どれだけルールを守ったとしても、交通事故は、全体的に見て、100%必ず起きます。1人でも死んじゃダメなんですよ。
だから、1人でも交通事故による死者が出てきたのであれば、少なくともそこで、車社会をストップさせるべきだったんです。
いや、ルールさえ守れば大丈夫だ!とかいって、ずるずると行き、交通事故者が増減している始末。
被害者は確実に出ているのに、今年は減少したぞ!といって喜んでいる人々。100%出ていますよ。
増えたか減ったかに視点がずれてしまい、100%確実に死者がでているということからは、いつの間にか目が背けられている。
これは、車の利便性や、車による経済効果を、人命よりも優先しているからです。つまり、金や利便性は命よりも貴いということを、我々社会全体が認めているのです。
ゆうちゃんがここまで自分の罪を自覚して、あれほどの償いの行為を見せるのは、私も感動しました。でも、真の責任者は、車社会をストップしなかった人にあると思います。つまり政治家や車業界関連の人たち。
で、この歌に感動すると、やっぱり交通事故の責任は運転手で、ゆうちゃんこそ責任を取る人間の最高のモデルケースになっている気もしますが、100%起きるものに対して、いつの間にか自分に責任が擦り付けられている気もしてきますね。つまり、責任自体も、分配されてしまうわけですね。流されて行くわけです。
確かに、何の責任もないと、気が緩んで、無責任な運転を始める人もいるのかもしれません。だから、起きてしまったものはしょうがないけど、できるだけ起きないように、運転手の心理に釘を打ち込んでおく、という役割としての責任なのであって、決して被害者のためとかじゃないと思います。なくなった命は絶対に戻ってきませんから。車の交通事故をなくすには、車社会をやめるしかないでしょ。
つまり、車社会は動かしたいし、それによる犠牲者が出ることも受け入れている、だけどそういう社会にした責任は負いたくないっていう人が、どこかにいるんじゃないでしょうかね。また、それを受け入れている人たちの心に、本当の責任があるんじゃないでしょうか。
最も尊いものは、犠牲者です。車社会は、交通事故の死者の生命エネルギーを燃料として、毎日 回転しているのです。つまり、本来はもっと生きるはずだった寿命分が、車社会の燃料になっているのです。戦争は終わっても、平和だと言われてきた日常でも、社会を回転させる犠牲者は必ず必要です。
でもやっぱり、例え100%事故は起きると言っても、車動かす以上は気を付けてくださいね。
よくわからないという方は、じゃあ、考え方を変えてみます。次の予言を読んでください。
予言
予言します。1週間以内に(別に期間はどうでもよく、1か月以内でも1年以内でもいいです。)、また車による人身事故が起きます!そして誰かが死にます!死ぬとわかっているんです!でもそれが誰であるかはわかりません。でも絶対に死にます!皆さん、その人の命を救うために、車社会を留められますか?加害者は、次なるゆうちゃんです!(こんなに心がきれいじゃないかもしれませんが。)止められませんね。
人命が貴いなら、死ぬとわかっていてどうしてとめられないのでしょう。
だから、私はゆうちゃんがそれだけの責任を負うのはおかしいと感じたのです。ゆうちゃんが、その一人になったのです。この記事でいいたかったのはそういうことです。
追記(まとめを兼ねて):
車社会を動かす以上、100%交通事故は発生する。必ず人が死ぬ。
ルールを守れば事故が起きないというのは非現実的な話だし、仮に達成できたとしてもそれを達成する間にやっぱり人が死ぬ。そもそも全員がルールを守ったことはなく、ルールそれ自体が完全であったためしもない。結局は人命よりも経済が優先されているだけであり、本当の責任はそうした社会を容認している我々側にある。(特に車社会をスタートさせると決定した側にある。)ゆうちゃんは、必ず100%起きる交通事故で、その加害者側になった人間であり、彼自身の責任というよりは、確実に起きる事故だったのに、その加害者となった不運な者の一人なのだ。彼自身が強烈に罪の意識を感じ、一生懸命償おうとするのは、ドライバーの責任であるという印象を強く私たちの心に刻み込み、自動車事故を起こした人はかくあるべきという考えを植え付ける「洗脳」になってしまっていると考えました。
車社会を動かせば、交通事故が100%起きるのは理解できると思います。実際にそうなっているわけだし。
でも、ゆうちゃんがその事故を起こしたのは、やっぱりゆうちゃんの不注意だったんじゃないの?って思う気持ちがなかなかぬぐいされないんですね。
100%事故が起こると言うことは、誰かが絶対に加害者になります。それが、その時はゆうちゃんに順番が回ってきたってことですね。
つまりね、次事故を起こすのは、あなたかもしれないってことです。
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