見出し画像

小説「素ナイパー」第18話

 真夜中のウオール街には、東京の新橋にいるようなサラリーマンの姿はない。
 人の気配の感じられないビジネス街は摩天楼に吹き付けられ呼応する風の音のせいでまるで「オープンユアアイズ」の主人公が迷い込んだ誰一人として存在しない夢の中のような雰囲気を漂わせていた。

 ウオールストリート沿いにあるニューヨーク銀行の目の前に止まったイエローキャブの中に直哉はいた。
しかし客として後部座席に座っているのではない。防犯ガラスの前の運転席にそれらしく新聞とコーヒーを片手に運転手として待機していた。
 車は事前に父の淳也にメールで指定されたニュージャージーの中古車屋に行くと用意されていた。
古いフォードに黄色いペイントをしたようで塗装に多少むらがあったがシートの皮と料金メーターの古さが逆に乗り慣れた車であることを上手く表現してくれていた。時刻は24時を過ぎていた。しかし今回の標的はこの時刻に姿を表す。

 ニューヨークに到着してからすぐに下見に向かった知子とのデートのために予約したレストランの雰囲気は完璧だった。
 オレンジを基調としたモダンさとレトロさを兼ね備えた内装は少し薄暗くなった夜にはムードを醸し出してくれるように思えた。料理もローマにある二つ星の支店だけあって彩りにも味にも申し分なかった。
 しかし自分で外堀を埋めておいて、直哉は妙なプレッシャーを感じ始めていた。

 (あの頃よりも、俺は成長できているのだろうか?)

 知子とのデートのシュミレーションの中の自分はいつも大人びて粋なジュード・ロウのような男だった。
 相手の瞳を見て喋りさらにジョークの中に少しでもその綱から足を踏み外せばもう二度と上がってこられないような危険さを漂わせるようなクールな男。
 そしてそんな自分だと空想のデートはいつも上手くいった。ほんの数週間前まではその空想に妙な自信を持ちデートの成功を疑う事はなかった。

 しかしこの土壇場になって直哉は疑心暗鬼になっていた。それはスペインでの仕事の一部始終について父親に嘘をついたという後ろめたさが生まれたことが関係しているのかもしれない。

 (知子との件以来、俺はまともに女性と付き合っていないし、すごい仕事をこなしたわけでもない。そんな俺がジュード・ロウみたいに振舞えるはずがないじゃないか)

 頭の中を廻るのは懐かしい昔話を話し尽くした後、会話が滞っているテーブルの風景ばかりだった。
 


 直頭を抱えて持っていた新聞を丸めると向かいのダークグレーのビルの通用口から一人の男が出てきた。
 男はグッチの光沢のある黒のスーツを着ていた。靴はプラダでブランド尽くめのいやらしい格好をしている。右手にはゼロ・ハリバートンの銀のアタッシュケースを持っていた。
 身長は185センチと高くブロンドの髪は短くカットされていて、嫌味なおぼっちゃまである事を一つも隠す気がないような男だった。
 直哉はひとまず知子のことを考えるのを止めると車をUターンさせて男の後方からゆっくりと車を走らせた。
 すると男はいつものようにエンジン音に反応して振り返り、手を挙げて直哉の運転する車を止めた。
男が車に乗り込んでくるときついムスクの香りがして気分が悪くなった。男の名はジェフ・スコットブライト。31歳。投資銀行勤務のアイルランド系アメリカ人だ。

 裕福な家庭に育った彼はオックスフォードで経営学を学び、いくつかの銀行を渡り歩いた後に今の投資銀行に勤め始めた。
 ボンボンらしからずなかなか優秀な頭脳を持っているようで、顧客数は銀行でも三本の指に入るほどの人数を抱えている。
 しかし性格はいたって悪い。鼻につくような高い声で自分よりも劣っていると思った相手には偉そうに振舞うし女は金さえあればいくらでも寄ってくるとも思っている。
 したがって友人もいなければ恋人もいない。寂しい夜は唯一の趣味の熱帯魚を眺めるか、娼婦を自分の住む高級マンションに呼ぶかの二通りしか過ごす手段を知らない。

 とは言え、彼の人生は傍から見れば順調で何の失敗も踏んでいないように思えた。金は生まれた時から持っていて妙な欲で身を持ち崩しそうもなく女も商売女ばかりを相手にしているのでトラブルも生まれにくい。
 しかし彼は今こうして殺し屋の運転するタクシーに乗っている。つまりしがらみや妬みと隣り合わせで死を身近に感じながら生きる下層階級の人間の進む道に迷い込んでしまったのだ。

 要因は刺激だった。ジェフは欲と女以外の男が求める人生の刺激の一つであるスリルに溺れてしまったのだ。
 富裕層の人間から預かった金を増やすのはジェフにとっては造作もない仕事だった。名は知られていなくても安全パイと呼べる株と独自の情報網から手に入れた新興産業の伸びる事が確実な株を買い多少の利益を上げれば客達は喜ぶ。金持ちにとっては投資など、退屈しのぎの遊びであり話の種の一つでしかない。
 そんなあまりに退屈で大きなスリルもない仕事の中でジェフはある遊びを思いついた。それは至極簡単なもので、罪のないもののように思えた。
 

 株に頓着のないクライアントの金で他の顧客が経営する会社の株を大量買いし、TOBだと騒ぎ出した時点で売り抜ける。しかしこの株の買い方ではさほど儲けはでないし株を買った企業の実権も結局売ってしまうので手に入れることはない。しかしジェフはこの株の買いつけにのめり込んだ。
 富のある者同士というのは大抵が顔見知りだ。それは金のかかる遊び場が限られている事にある。特にニューヨークなどはそれが顕著だ。
 TOB寸前の量の株を買い占めれば、おのずとその相手が誰であるかは発覚する。そうなると表面上の付き合いしかしない社交場での関係は疑心に満ちたものになる。そうして狭い世界に生きる金持ち同士の関係を崩せばやがて富裕層同士の競合は減っていく。
 情報の交換をしなくなった彼らは焦る。当然投資の仲介をするジェフにもいろいろとアドバイスを求めて来るようになる。
 優秀な投資家として認められているジェフの情報を誰も疑う事はない。そこである事ない事、プライベートな情報までも彼らに与えて時に疑心を、時に安心感を生ませ彼らの人間関係を操つる。
 ジェフは自分の手の中で踊らされ険悪さを増していく金持ち達を観察する事にハマったのだ。画面上で数字を操作する毎日を送っていた彼はそれに飽き、その数字を持つ人々の中の人間関係に生まれる歪みにスリルを求めた。

 すべては順調に進んだ。少しずつだったが財界の交友関係にひびが入っていく様をみるのは愉快だった。昨日まで酒を酌み交わしていた相手とグラスを鳴らすことさえしなくなる。まるでボーイフレンドを取られた女の子のように。
 その様子を見ていると金を手に入れることにしか才を発揮できない愚かな人間と自分との差を歴然と感じることができた。数字だけを動かす事が自分の才能ではない事も知れ単純な仕事への退屈さは綺麗に消えていった。

 しかし彼には人間を読み解く力が足りなかった。その人物を外見以外で判断する力に。ただそれも無理はない。彼の仕事はほとんどメールとパソコンの画面を見ることで済んでしまうものばかりだったのだから。

 

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。