小説「鎗ヶ崎の交差点」㉚
鎗ヶ崎の交差点はいつものように静かに存在していた。人も車もほとんどいなく、僕は自転車を引いて現れた知花を見つけるといつの間にか駆け足で近づき声をかけていた。
「お疲れ様」
「うん。こんな遅くにごめんね」
彼女に会ってしまうとさっきまでの葛藤がどうでもよくなった。いや、自分の自信のなさでこの笑顔を失うことだけはしたくないと思った。
「ぜんぜん。自転車、持つよ」
「ありがとう」
自転車のカゴにはワインのボトルとチーズが入っていた。
「この時間まで何してたの?」
「え?ああ。部屋の掃除とスタバに」
「ごめんね。急に」
「いや、でもうち何もないけど」
「うん。大丈夫」
知花は八幡通りを歩きながらその日、店に来た客の話をした。僕は緊張していて上の空でその話を聞いていた。
マンションに着き、部屋の扉を開けると知花が目を輝かせて言った。
「綺麗な夜景」
僕の家は古いマンションだったが、窓が広く部屋に入るとすぐに中目黒の夜景が望めるのが自慢だった。知花ははしゃいで部屋に入った。
「お邪魔します」
「どうぞ」
知花が持ってきたチーズを皿に盛り、ワインをグラスに注いだ。すると、窓の外を見つめていた知花が言った。
「ねえ、夜景見たいから電気消して」
「うん」
僕らは街の明かりの前で乾杯をした。
「今日は忘年会だね。二人で」
知花は嬉しそうにワインを口にした。夜景を眺めるふりをして、僕は知花の横顔を盗み見ていた。疲れているのがわかった。その表情を見ていると愛おしさがさらに増した。
「今年一年。お店お疲れ様でした」
「ありがとう。本当に疲れた」
とても力なく彼女は言った。
「大丈夫?」
「うん。でも、この時間があるから頑張れる。家まで来てごめんね。向こうの実家に行く前に二人で会いたくて」
僕はたまらなくなって、彼女の頭を自分の肩に乗せた。
「無理はしないで。君は誰よりも頑張っているから」
「そんなこと言ってくれるのは山崎君だけだよ」
「そんなことない。みんな思ってる」
近くに知花の香りを感じながら、僕は本当に彼女を守りたいと心から思った。そして自分の覚悟が固まりつつあるのがわかった。
「君はもっと自信を持つべきだよ。お店を経営して。子育てをして。こんなに頑張る人を僕は知らない。旦那さんの実家に行って何を言われても聞く耳を持たなくていい」
「ありがとう」
言葉がなくなり、お互いにワイングラスに口をつけた。そして、僕は知花にキスをした。グラスを置き、恐る恐る首に唇を這わし、服の下の彼女の肌に触れた。知花は拒まなかった。そしてそのまま互いに吐息を吐きながら、服を脱がしあった。下着に手をかけた時に知花が言った。
「ねえ。あっち行こう」
僕は彼女をベッドに誘い、その柔らかい身体を抱きしめた。彼女の肌の温度を感じた瞬間に理性は消え去った。常識も世間も関係なかった。そこにいたのはただの男と女だった。僕達はこれまでの想いを解き放つように愛し合った。
知花の身体は昔とは違った。十年前と比べれば少しふっくらしたかもしれない。しかしその肌は変わらず美しく昔よりも僕の身体に馴染むような気がした。まるで、当時僕らにあった格差の壁が消えたかのように。
途中、僕は知花に言った。
「愛している」
歯が浮くようなこんな言葉を行為の最中に女性に言ったことなどなかった。しかし、自然に言葉が漏れた。すると知花は嬉しそうに笑い、頷いた。
僕はこの時に知花を幸せにするために生きようと誓った。どうしようない仕事も、叶えられなかった夢も、知花さえそばにいてくれれば折り合いがつけられると。この日から、彼女は僕の全てになった。
僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。