小説「素ナイパー」第15話
「ちょっと!直哉!」
不快な里香のノックで直哉は目を覚ました。海外から久々に日本へ帰って来てからは時差ぼけが酷くて昨日眠りにつけたのは朝5時だった。
「入るわよ!」
掛け布団に包まれる直哉の前に機嫌の悪そうな里香が立った。
「あんた、私が頼んだもん買ってきたんでしょうね?」
「え?」
「え?じゃないわよ。フランスに行くんだったら、ランコムのボデイークリーム買って来てって行ったでしょ?」
「らんこむ?」
直哉は数ヶ月前に交わした里香との会話を検索した。すると確かにそう言われた記憶はあった。
「ああ。忘れた」
「はあ?何よそれ!この役立たずが!」
里香は捨て台詞を吐くと勢いよく扉を閉めて出て行った。いつもの直哉ならここで嫌な気分になるのだが、今の直哉は里香の態度をなんとも思わなかった。むしろ(買ってきてあげればよかった)とすら思った。知子との再会のおかげで心に余裕が生まれていたからだ。
仕事でまたニューヨークを訪れると言い、デートの約束を取り付けてから直哉は土地勘のないニューヨークの店を猛烈に調べ上げ、いくつかのレストランをピックアップしていた。
アパレルブランドの広報の仕事をしているという知子をハッとさせ、昔のイマイチな自分とは違うと思わせたいと。
あの時、高三の卒業式をまじかに控えた日。急に学校に来なくなり連絡も取れなくなった知子が海外に留学したと担任の口から聞いてから直哉は何も打明けてもらえなかった自分の至らなさに対する後悔を抱えながら生きてきた。
今思えば訓練もろくにしなくなり(もちろん仕事のことは知子に話していなかったが)知子に熱中した自分に言いだす事が出来なかったんだ思う。自分の想いの重さが知子にプレッシャーを与えてしまったのだと。だから彼女あは何も言わずに去ってしまったと。
今回はもう同じ失敗は繰り返したくはなかった。あまりのめり込まず大人らしく少し距離を置くぐらいの付き合いをすると。しかしそのためには、彼女にあの頃と違う自分を見せなくてはならない。
ベッドから起きてパソコンで集めたレストランのホームページをもう一度確認していると携帯が鳴った。
「そっちはどう?」
相手は一平で知子かと期待した直哉は落胆した。
「どうって。まあ普通だよ」
人間は自分の人生が上手くいっている時ははだいたい普通と答える。
「ふーん。こっちも順調なんだけどね。たまにはかけてみるかなあと思って」
鋭い勘が働いたかのような一平からの電話で、直哉は知子に再会した事を告げようかどうか迷ったが結局言わなかった。
「じゃあ。またかけるよ」
秘密をもったせいで直哉が他の話題を振ることが出来なかったので二人の会話は数分で終った。
「ふー。あぶない。あぶない」
電話を切ると知子の事を言わなくて良かったと心から思った。一平にしても洋介にしても、話した事で何を言われるか分かったもんじゃないからだ。どうせ「またかよ」と呆れ顔をされるに決まっている。
「ちょっと直哉!降りてきて!」
再びパソコンに向かおうとすると一階から姉の里香が叫ぶ声が聞こえた。
「今度はちゃんとリスト作ったから!スペイン用の!」
仕方なくパソコンを閉じ一階に向かった。すると里香が店の名前と商品の写真が載った数枚のレポート用紙を用意していた。
「今度こそよろしくね。特にバレンシアガは忘れないで」
その分厚さを見ると、さすがの直哉でも憂鬱になった。
「わかったよ」
直哉は渋々レポート用紙を持ちまた二階に戻った。そしてもう一度パソコンの画面を開いた。
(スペインの仕事が終われば知子に会える。きっとここからは何もかもがうまくいく)
仕事も姉からの指令もすべては知子に会うまでのちょっとした難関だと思うと憂鬱さは消えた。
喜びの前にある煩わしい事柄さえ愛すべき出来事であると思えるほど、彼は浮足立っていた。
僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。