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小説「中目黒の街角で」 最終話

 知花と別れた後の僕はどうしようもなかった。知花と心太の顔を思い浮かべては毎日喪失感と後悔に暮れて何も手につかなくなった。音楽だけではなく、知花という夢の女性も失ったことで人生の目的もわからなくなってしまった。

 何の為に働いているのかもまたわからなくなり、出戻りした会社での仕事のモチベーションも失った。やがて移動して来た新しい上司とうまくいかなくなったことをきっかけに会社を辞めた。
 運よく世の中は人手不足で違う会社に転職はできたが、やはり二人がいた時のような気持ちには戻らなかった。

 中目黒にも近寄らなくなった。あの街に行けばもしかしたら知花に会えるかもしれない。しかし、会ったとしても僕はただの昔の男として扱われるのだろう。そんな状況に耐えられる気がしなかった。どうしても行かなくてはならない時は、知花の店のある路地を通らないようにした。

「結局は、不倫だったんだ。仕方ないよ」

 同級生の田中は僕を慰めるようにそう言った。しかし、本当にそうだったのだろうかと思う。あの時、僕達には社会に反していることをしているという自覚はなかった。ただお互いに惹かれ合い、付き合いを始めただけだった。
もちろん、社会的には不倫と言えるのだろう。知花は離婚していなかった。それは事実だ。しかし、彼女の結婚生活は破綻していた。いや、そんなことは関係ない。不倫だろうとなんだろうと僕達は終わっていただろう。十年経っても僕は未熟で自分を抑える事ができなかった。そして彼女を苦しめて失望させてしまった。
 タイミングのせいでも運命のせいでもない。僕は僕自身のせいで最愛の人を失ったのだ。人生において二度もチャンスがあったと言うのに。
「君をずっと待っている」この言葉を言った時の僕に嘘はなかった。しかしいつの間にか知花に決断を迫りそれが思い通りにいかないと不安を感じ彼女を疑った。
 僕は唯一、将来をともにしようと思った運命の女性を自分の過ちで手放してしまったのだ。DJになる夢を諦めた時よりもその喪失感は深く心にこびりついた。

 しかし、どうにか生きていられたのは書くことができたからだろう。たいした物を書いていた訳でもなかったけれど想像の中へ逃げ出す事ができたし、かすかな人生への望みを繋ぐことができた。
 知花と別れてからしばらくして運よく一つの文学賞を取ることができ、作家としてデビューをした。そして今は、友人達の力を借りながらどうにか独立して生計を立てることができている。
 たった一人でいたら、生きていたかさえも疑わしい。不甲斐なく終わった恋と失くした夢が残るこの街に一人で住み続けるなんて僕にはできなかっただろう。

 書きあがった原稿を編集者に送ったのは夕方過ぎだった。仕事場と住処を兼ねたこの家は知花と会っていた時と変わっていない。今でも掃除をしていると、まだ彼女の髪の毛を見つけることがある。そんな時はとても悲しくなる。
 僕は三十八歳になった。相変わらず新しい恋はできていない。こんな中年で独身のそこそこの作家がまた恋に落ちることなどあるのだろうか。また誰かに出会い、胸を焦がすほど好きになることができるのだろうか。
 眼下に広がる中目黒の景色を不安を抱えて眺めていると同級生の田中から電話がかかってきた。

「よう。なにしてる?」
「原稿を書き終わったところだよ」
「そうか。今日は店が休みでさ。飲みに行かないか?」
「ああ。そうだな。どこにする?」
「中目黒にしようか。久しぶりに。知り合いの店ができてさ。行ってみたいんだ。いいかな?」
「・・・ああ。もちろん」

 中目黒と言う言葉を聞いただけで胸に痛みが走った。しかしいつまでもそんな事ではだめだと自分に言い聞かせて黒い財布を持って外に出た。
 

 八幡通りを歩くと、今でも夜中に僕の家に自転車で向かってくる知花の残像が浮かぶ。坂を下り、鎗ヶ崎の交差点に辿り着いた時も最初にふられた時と、再会した時を思い出した。
 僕は切なさを噛み締めて信号を待った。この交差点はいつも変わらない無機質な表情で人々を送り出す。誰もがこの場所に大した感慨など持っていないだろう。しかし僕はこの交差点に立つだけで胸が締め付けられる。

 信号が青に変わった。歩き出すと、横断歩道の真ん中にたどり着いたところであの大きな瞳を見つけた気がした。
 僕の身体は一瞬で緊張に支配されたが、すぐに落胆が訪れた。そこに当然、彼女はいなかった。自分で自分の気持ちには嘘をつけないことを自覚すると、また情けなくなってしまった。結局、文章にしたところで知花への気持ちは変わらない。僕は今でもこの交差点に留まったままでいるのだ。ふと見ると、ビルに描かれたパンダのイラストが相変わらず僕を笑っていた。

 鎗ヶ崎の交差点から坂を降りてゆくと逃げ出したい気持ちと期待感が入り混じった。また会いたい。でも会った時に知花の隣に違う誰かがいたら・・・。
 何度も仕事終わりに彼女と立ち寄ったセブンイレブンを通り過ぎると、僕は歩く速度を速めた。
 その先には彼女の店に続く路地がある。今でもその路地に顔を向けることはできない。あの道には羞恥にまみれた自分がいる。余計な嫉妬にまみれて大切な人を逃してしまった情けない自分が。
 

 どうにか路地を通り過ぎて目黒川を眺めながら深呼吸をするとやっと心が落ち着いた。
 バカみたいな話だ。運命を否定されて別れたと言うのに、僕は今でも知花が好きなのだ。いったいどうしたらこの想いは消えてくれるのだろうか。

 中目黒の駅に向かって再び歩き出そうとすると、見覚えのある小さな男の子が横に立って僕を見つめていた。
「久しぶり」
 耳障りの良い声が響いた方に目を向けると、そこに知花がいた。そして心太が言った。

「ちっちさん」

 僕は心太の手を取り彼女に近づいてゆく・・・そんな想像をしながら僕は目黒川を渡った。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。