小説「素ナイパー」第19話
ある日ジェフは新規の顧客を紹介された。その客とはたった一回だけ手続きのために必要な書類を書いてもらう時に会っただけだった。
ジェフの記憶の中でその人物は小柄で痩せている、田舎物がたまたま金持ちになってしまったような何の華やかさもないただのおっさんでパーテイなどでは「隅のほうにいるような人間」という印象しかなかった。
電話でたまに資産の状況を聞いてくる以外は特に詳しい話を求められることもなかったのでジェフはこの男の資産も自分の遊びに加える事にした。
客は健康食品会社を経営していた。そこでジェフはある酒造メーカーの株を買い占めることにした。
同じ業界同士でいがみ合いをさせるためだ。やがてにわかに酒造メーカーの方がTOBだと騒ぎはじめるといつものように買った株をすぐに売った。
酒造メーカーの経営者と食品会社の経営者が面識のある事は事前に知っていたので二人の関係が変る事は目に見えていた。
ジェフは三ヶ月に一度開かれる食品業界の交流パーティーでの二人の遭遇を心待ちにした。この遊びもいつものように自分の心を釈迦の心持ちにしてくれる事を疑わなかった。
今回の直哉の依頼人はその健康食品会社の経営者だった。堅気ではなかったのだ。さらにはジェフが買い占めた酒造メーカーの経営者も同じく堅気ではなかった。
二人は同じマフィアの幹部で旧知の仲だった。しかしもちろん強引な株の買占めにより関係は一時険悪になった。組の中で内部抗争も起こりかけた。しかしそれが誰の仕業かがわかるとすぐに和解しその犯人を殺す事に決めた。
もちろん何故そんな事をジェフがしたかは理解していない。彼らにとってはそんなことはどうでもよかった。マフィアにとって信頼関係は一番重要でそれを壊されかけた事が何より許せなかった。
直哉の運転するタクシーに乗り込んだジェフは書類に目を通しながら足を組み、運転手を一度も見る事なく傲慢に行き先を告げた。直哉はジェフのその態度に毎回腹が立っていたので何も言わずに車を発進させた。
ジェフの住むアッパーイーストサイドにあるアパートメントまではウオール街から二十分程掛かる。その二十分の間ジェフが書類から目を離して外の景色を見ることがないのはこれまでのリハーサルで確認済みだった。
ニューヨークの街を北上しそ知らぬ顔でハンドルを右に切り、イーストリバーパークに向かう。
今回の手順はマーカスの時とほぼ同じだった。マフィアの待つ公園にジェフを連れて行き引き渡すまでが直哉の仕事だった。
直哉はたんたんと車を走らせた。気付かれないようなるべく有名なスポットを通らないように注意しながら。するといつもと違う展開が直哉を襲った。ジェフが話しかけて来たのだ。
「ねえ君。仕事は楽しいかい?」
直哉は焦りを抑えるために少し時間を置いてから答えた。
「ええ。まあ。楽しいですよ」
この五日間こんな事はなかった。バックミラー越しに直哉が視線を送ってもジェフが書類から目を離す事はなかった。仕事で何かあったのか。それは分からなかった。
ジェフは書類をめくりながらまた聞いた。
「へえ。君は昔からタクシードライバーになりたかったのかい?」
「いやそういうわけではないですけど」
「なるほどね。夢ではなかった職業についているのに楽しいか・・・。私も夢であった職業についているわけではないが楽しくないよ。とても退屈だ。最近はほんの少し楽しみを見つけたからましになったがね」
直哉はバックミラー越しにジェフを見つめた。書類を見る眼差しは何かの数字を追っているようで常に小刻みに動いていた。
しかしその黒目には何の感情も宿していないように見えて初めて直哉はジェフに同情した。金持ちであり、はたから見れば全てを手に入れているように見える人間でも苦労はあるものなのだなと。
「くだらない話をしたな」
自分に言い聞かせるようにジェフは言うと初めて書類から目を離した。それと同時に直哉は車を止めた。
僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。