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太陽は過去、地球は現在、月は未来

オースターの小説に登場するレストランの最後の夜

ぼくは海外文学をよく読むのですが、なかでも好きな作家のひとりがポール・オースター。

初期のニューヨーク三部作(『ガラスの街』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』)からクッツェーとの共著『ヒア・アンド・ナウ』まで、彼の作品はほとんど読んでいます。

もう70歳を超える御大なんですよねー。

それでも執筆活動を旺盛に続けていて、2017年には最新作『4321』を上梓。

ブッカー賞の候補にもノミネートされました。

そんな彼の邦訳が新潮社からこのところ立て続けに出版されまして、ぼくも久しぶりに貪るようにオースター世界にひたりました。

そんなオースター作品のなかでもぼくがいちばん好きなのは、1989年に発表された『ムーン・パレス』。

コロンビア大学の学生、マーコ・フォッグの破滅と再生の物語なんですが、これは主人公と同じ年代のときに、そのかけがえのない時期にいちどは読んでおくべき小説だと思います。

人類がはじめて月を歩いた夏だった。父を知らず、母とも死別した僕は、唯一の血縁だった伯父を失う。彼は僕と世界を結ぶ絆だった。僕は絶望のあまり、人生を放棄しはじめた。やがて生活費も尽き、餓死寸前のところを友人に救われた。体力が回復すると、僕は奇妙な仕事を見つけた。その依頼を遂行するうちに、偶然にも僕は自らの家系の謎にたどりついた……。深い余韻が胸に残る絶品の青春小説。

作品のタイトルになっている「ムーン・パレス」というのは、そのころブロードウェイにあった実在の中華料理店の名前。

ところが小説が書かれた2年後の1991年、このレストランはひっそりと歴史に幕を下ろします。

今日はその閉店のようすをおったニューヨーク・タイムズ紙の記事を読んでいきたいと思います。

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すべてが15分ごとに変化するように見える都市で、中国料理レストランの閉店が人びとの悲しみをさそったり、注目を集めたりすることはほとんどない。

しかし「ムーン・パレス」が木曜の夜に最後の料理「芙蓉蛋」を提供したとき、リン・カザルス=アリエットは泣き、ラウ・ウェイトンはクイーンズからさようならを言うために駆けつけ、カミーラ・コッチは食べようとさえしなかった。彼女はいつもの食卓に座り、白ワインを飲みながらL&Mを吸っていた。「カミーラは悲嘆にくれているの」と、彼女のタバコ仲間であるユージニア・モンゴメリーは語った。

突然の固有名詞にとまどってしまうかもしれませんが、彼らはみんなムーン・パレスの最後の夜に集まった常連さんたち。

ひとりひとりのコメントは、また後ほど出てきます。

家族や教会のような大きな組織が崩壊することをみんなが恐れている時代に、騒がしい地元の集会場所の崩壊なんて、簡単に忘れてしまいがちだ。たとえそれが、トラウマになりそうなほどのネオンサインでよく知られている場所であっても。

そう、ムーン・パレスはそのネオンサインが特徴的で、小説内でも、

僕の部屋から見えるその風景全体が、一つのネオンサインによって埋めつくされていたのだ。ピンクとブルーの文字が煌々と燃えて、 MOON PALACEという言葉を書き出していた。

と描かれています。

旧ペンギン版のペーパーバックの表紙に描かれている看板が、実際の看板を元にしているので、雰囲気は伝わるのではないでしょうか。

絶望的なまでに陳腐かつロマンチックに聞こえるかもしれないが、多くのひとが「ムーン・パレス」を愛していた。それは、ぽっかりと開いた古き良き食の時代の遺物で、ブロードウェイの111番街と112番街のあいだ、安ピカ物の百貨店とバンク・ストリート書店のあいだに位置していた。ウェイターたちは家族となった。安くて種類の豊富な料理は、確実性の乏しい世界で唯一の確かなものだった。そして、異なる種類の人びとが重なりあわずに生活することの多いこの街で、「ムーン・パレス」は中国人移民とコロンビア大学の教授、そしてセント・ルーク病院の看護師たちが行き交う交差点だった。

おそらくこの辺りにあったのだと思います。

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26年のあいだ開業していた「ムーン・パレス」は、決して上品になろうとはしなかった。もっとも目立つデザイン的声明は、オレンジと黒で描かれた4つの禁煙サイン。クリスマスのリースにつながったイルミネーション用のライトは、祝日から数週間たったいまもまだ輝いていた。コショウの効いた四川料理や湖南料理が主流を占める時代にあって、この店の上海料理のメニューは退屈で風変わりなように見えた。鮮やかなオレンジ色のソースで甘酸っぱい豚肉を煮込んだ料理も提供していた。しかし香港出身のラウ氏は、何を注文すべきかを知っているひとであれば、優れた本格的な料理が食べられると語った。

せっかくだから、ククブクらしいことを書きましょうか。

この記事が書かれた1991年の段階で、中国料理のなかでも四川料理や湖南料理が人気だったというのは興味深い情報です。

91年というのは、最近リプリント版も発売されたフューシャ・ダンロップの四川料理のベストセラー『The Food of Sichuan』が発売されるよりも、10年も前の話。

『The Food of Sichuan』はイギリスで最初に発売されたcookbookなんですが、その10年も前にニューヨークで四川料理が「主流を占めていた」というのは、いかに食文化の移入が他都市にくらべて進んでいたかがわかります。

「ムーン・パレス」が閉店になるのは、よくある理由からだ。売り上げが落ち、賃料が高くなり、競争相手が多いのにこれ以上価格をあげられなくなったのだ。2名のディナー、前菜とメインコース、そしてドリンク付きで30ドル以下。賃上げをめぐる大家との2年間の訴訟ののち、レストランは閉店することを決めたのだ。

最近、同じニューヨークのレストラン、ガブリエル・ハミルトンの「プルーン」が閉店したというニュースを読んだことを思い出しました。

店をたたんだ理由を比較すると、家賃の高騰などは30年前と変わっていませんが、新自由主義の影響でレストランビジネスにも変化が訪れたこと、SNSの発達とフーディー文化の弊害などが今日にはあって、むしろムーン・パレスが「いい時代」に閉店できたんじゃないかと思って悲しくなります。

「ムーン・パレス」を愛するひとたちにとってもっとも苛立たしいことは、近隣との違いを示すその特徴的なランドマークが、なにか匿名的なもの、あるいは全然良くない、スタイリッシュなものに置き換わってしまうのではないかという予感だ。実際、ビルのオーナーの代理人は、国内大手のチェーン店と交渉中であるという。

ムーン・パレスの後にどんな店が入居したかはわからないのですが、ムーン・パレス以前はは別の中華料理店だったんだそうです。

これはジョー・Bさんの個人ブログ「War of Yesterday」に記されているんですが、あの芸術家 ピカソが撮った写真のなかにこのストリートを撮ったものがあって、そこには「New Asia Chop Suey」と書かれた同じ形をした看板が写っているんです。

おそらくこのお店の内装などを引き継いだので、ムーン・パレスは古びた感じがしたのだろうとジョーさんは推測されています。

このブログにはムーン・パレスのメニュー表も掲載されていますよ。

小説に出てくるキティ・ウーは、翻訳完成記念ディナーのときに、このメニューに載ってない料理を中国語で注文したんだっけなあ。

「この近所からひとつひとつ、すべての善きものが消えていってます」と語ったのは、コロンビア大学の音楽の教授、ノア・レヴィ。「何ものにも替えられないというのに」

「ムーン・パレス」の最後の夜は、その前夜とほとんど同じだった。スウィングドアをくぐって食べ物がキッチンからテーブルに運ばれる。テーブルは夜になると白いテーブルクロスによっておめかしをするが、下に敷かれた日中用の茶色と白のビニール製のクロスを隠し切れていなかった。多くの客にとって、その食事はお通夜のようだった。

「恐ろしいことに、私たちは今夜わかったんです」と、夫のジョルディさんと来ていたカザルス=アリエットさんは語った。彼女はこのレストランのオープン当初からの常連だ。カザルス=アリエットさんは頬をつたう涙をぬぐい、閉店記念に店から贈られた2膳の箸を眺めるのだった。

小説ではお金がほとんどなくなったマーコが、最後に冷蔵庫に残っていた卵を落として割ってしまい(有名なシーン)、ほとんどやけになってムーン・パレスで食事をするんですが、

さらに情けないことに、僕は自虐的な洒落を抑えきれず、よりによって最初にかき玉スープを注文したのである。それにつづけて揚げ団子、海老のチリソース煮、中国ビールを一本。栄養的にはプラスになったかもしれないが、その滋養も、頭のなかで渦巻く思いの毒によって打ち消されてしまった。

これが1966年ころの話。

ちょうどそのころ、1967年のニューヨーク・タイムズ紙で、あのクレイグ・クレイボーンがムーン・パレスのレストラン評を寄せている、と「War of Yesterday」には記されています。

「マンハッタンの中華料理で最高の料理」「水餃子と揚げ餃子も一流」とべた褒めだったそうです。

スペイン出身の彼女の夫は、レストランに来ると実家を思い出すと語った。「昔の世界がよみがえったみたいだ」と彼は語った。「従業員の友だちみたいになれる」彼らがなにを飲むか、いつものようにウェイターは注文の前からわかっている。オリーヴ入りのマティーニだ。最後の食事として、彼らはワンタンスープ、青椒肉絲、チキンのカレー煮込み、そしてピスタチオ・アイスクリームを食べた。

コロンビア大学で事務補助をしているコッチさんは、シェフ以外のだれよりも「ムーン・パレス」で食事をしている人物かもしれない。10年間(あるいは20年?)毎日、ランチとディナーをここで食べている。

「いつからここに通い始めたたのか、正確に述べるのはむずかしいです」とコッチさんは語った。「常連客にいつなったのか、ピンポイントで答えることもできません」彼女が語ったところによると、日曜日はランチのあともずっと居残って、ディナーの時間になるまで小説を読んでいたのだという。そのあとはもちろん、ディナーのために待っているのだ。

毎日通っていたなら、『ムーン・パレス』が発売されてからムーン・パレスが閉店するまでの日曜の昼下がりに、きっと『ムーン・パレス』を読んだ経験があるのではないかしらん?

うらやましいなぁ。

「ここは私のセカンドハウスじゃないんです」と彼女は語った。「ここがメインの家」

彼女は、昨晩は3ブロック先の「アムスタルダム・カフェ」でディナーをとったはずだという。そしてなにが起こっているのかを知った、と。

「ムーン・パレス」で週に一回、友人と食事をするというモンゴメリーさんは、レストランに感傷を抱くタイプではない。「ここは物置小屋みたいな雰囲気でしょう」と彼女は語った。「でもだからこそ何かがある。ここならリラックスできる。だれにも悩まされることがない」

「War of Yesterday」のジョーさんも、「マンハッタンの基準からすればひどく巨大な宮殿。古くて擦り切れているように見えるが、それが心地よかった」と回想されています。

近くに座っていたコロンビア大学音楽学部の理事、ヴィクトリア・ソルターは、このレストランがいろいろな食のトレンドに左右されることなく本物であり続け、常に変化しながらも新しいものであったことを称賛した。「この場所で気に入っているのは」と彼女は語った。「来るたびに何かが違っていることです。私にとってはそれが食べるということなんです。セックスも食事も音楽も、いつもぴったり同じであるべきだなんて思えないから」

常連たちはそれぞれのもてなしを受けていた。もれなく頼んでいない特別料理の前菜がテーブルに登場するが、これは無料だ。「このキャベツを手に入れるには、20年間通わなくっちゃならないよ」と語ったのは、コロンビア大学を退職した日本語の教授、白戸一郎さん。「その資格がないひとにはウェイターがこう言うんだ。『お持ちできません』あるいは『切らしてまして』ってね」

なんと、コロンビア大学で日本語教育に尽力した白戸一郎さんが、ムーン・パレス最後の夜に臨席されてたんですね!

JLP-Scholarshipsealac.columbia.edu

キャベツを使った料理、なんだったのかが気になります。

コロンビア大学の言語学教授、ロバート・オースターリッツさんは、ウェイターがカナディアン・クラブを注ぐと眼鏡をあげた。これも常連への店のおごりだ。「私の子どもたちはここで育ったんだ」と彼は語った。「娘をウェイターのひとりと結婚させようと頑張ったんだけど」
従業員たち、何十年も「ムーン・パレス」で働いてきた多くの従業員には、閉店の知らせは何日か前に伝えられていた。彼らは昨夜遅く、26年間シェフを務めたラリー・パンが作る悲しくも最後のディナーを共にした。彼らは通常の品数以上の料理を堪能した。「イエスのようにね」と語ったのはレジ係のセリーナ・ニン。「最後の晩餐です」

『ムーン・パレス』はアメリカ文学を代表する青春小説として、後世にも残っていく作品。

そんな作品とともに、こうしてレストランの名前とそのたたずまいも語り継がれていくんでしょうね。

特に若いひとにとっては、人生を変える一冊になる可能性があるこの小説。

未読のかたはぜひ読んでくださいね!

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