長編小説【三寒死温】Vol.6
第一話 人探しの得意な探偵
【第五章】春に降る長雨
祭りの最中の女衆のようなハードな雑用にどうにか身体が慣れてきた頃になって、仕事の合間を縫って私は残してきた娘たちに手紙を書いた。
自分自身が外に出て遊ぶような余裕はないけれど、少なくともこの街には活気が溢れている。川の西と東とでは雲泥の差がある。進駐軍が相手だということさえ目を瞑れば、こちらにはまっとうな仕事がある。私たちと似たような境遇の未亡人も数多くいるし、娘も自分と似たような境遇の友だちと仲良く暮らしている。
そう書き添えて切手を貼り、投函した。
ここのところようやく郵便がまともに機能するようになったらしいので、きっと彼女たちの元に届いてくれることだろう。特に、直前まで「一緒に行く」と意気込んでいた彼女には、無理強いして残ってもらった経緯があるだけに、一刻も早く報せたいという気持ちがあった。
しかし、そんな手紙を出してしばらくしても、誰もこの料亭に姿を見せることはなかった。手紙が届かなかったということも考えられるけれど、もしかしたら、やはりここが進駐軍を相手にしている料亭だということが、足枷になっているのかも知れない。
事実、私自身も悩まなかったわけではない。彼らが主人を殺した兵士の仲間であることに違いはないし、限りなくゼロに近い確率ではあるものの、彼らの中に主人を殺した兵士がいる可能性だってある。
しかし、接客どころか話もロクにしたことはないけれど、たまに見かける彼らは、ごく普通の一人の人間でしかなかった。
怪物でもなければ、殺人鬼でもない。確かに体の大きさも肌の色も違うけれど、時折見せる笑顔などは、子どものようでさえある。
そんな彼らを目の当たりにしているうちに、いろいろな感情がうまく頭の中で結びつかなくなってしまった。もしかしたら、かつて台風で家を流された時、娘を進駐軍の米兵に助けてもらったことも、私のこんな心変わりに大きな影響を及ぼしているかも知れない。
あれは、こちらに来る直前のことだった。
台風としてはそれほど大きかったわけではないけれど、数日前から停滞していた気の早い秋雨前線が刺激されてしまい、ものすごい量の雨が一晩中降り続いた。その翌日、台風一過で雲一つない晴天が広がる空には、真夏かと見紛うほどの太陽がぎらぎらと顔を覗かせていた。
確かに雨はすごかったけれど、大した被害もなく一日が幕を降ろした時、唐突に川が氾濫した。上流で増水した大水は途中いくつかの場所で堤防を決壊させながら、丸一日という時間をかけて私たちの暮らす村まで辿り着き、一息に飲み込んでしまったのだ。
それこそ家の鴨居のあたりまで水に浸かり、行き場を失った私と娘は、月が煌々と輝く中、命からがら屋根の上へと非難した。
家や人が流されていくのを目の当たりにし、不安と恐怖で一睡もできない夜を過ごした後、上る朝日を背景に進駐軍の四角い鉄製ボートのシルエットが近づいてくる様子は、戦争が起こる前に見たアメリカの無声映画に出てくる巨大な歯車のような威圧感を放っていた。
文字通り丸太のように太い米兵の腕に抱え上げられた時に娘が見せた笑顔は、いまだに私の頭から離れない。瞼の裏側にしっかりと焼き付いている。
すべての面でスケールの大きい彼らに喧嘩を吹っ掛けたのが間違いの素。
個人に責任はない。
いつしかそう感じるようになっていた。
でも、これらはみな、私の個人的な体験談に過ぎない。彼女たちが不安に思うのは無理もないし、もしかしたら、こんな私を軽蔑している可能性だって否定できない。もしそうだとしても、文句を言えた義理ではない。
◆ ◆ ◆
季節が一巡りして二度目の春を迎えた頃、私はこちらに来て初めて、ちょっとしたお暇をもらうことができた。
休みといっても、それほど大げさなものではない。
たった一日ばかりの、束の間の休息。
それでも私にとって、まったくの私用で料亭の外に出るのは初めてに近かった。緊急を要する使い走りで割烹着のまま近所に駆け出したことはあったけれど、それもごく稀な話だ。それどころか、どんなに忙しい時でも裏方の雑用のみで、仲居仕事すらしたことがなかった。
仕事とは関係のないところで、まとまった時間を料亭の外で過ごすのは、本当に久しぶりだった。
もうすぐ五歳になろうとしていた娘を連れて河原まで来てみると、反対の川岸に、大きな緑地帯が広がっているのが見えた。
懐かしさに、思わず頬が緩む。
確か、地域のみんなが楽しめる憩いの場を作ろうということで、木々や草花の保護を始めたのがはじまりではなかったっけ。
この間の戦争の時には、空襲の際の防火避難場所にもなっていた。警報を聞く度に子どもを抱え、頭を隠し、身を屈めながら足を運んだ場所だ。
そんな思い出したくもないはずの記憶までもが、どことなく郷愁を帯びて蘇ってくる。
その奥には、桜の綺麗な防水の土手がある。
緑地に暮らす植物たちが芽吹き始めているのでここからは見えないけれど、きっと今頃は、満開のトンネルを築き上げているはずだ。
そういえば、川の氾濫で街中が水浸しになってしまった時の堤防の決壊は、この桜並木の土手の一部だったと聞いたことがあったけれど、どうなったのだろう。もう修復は済んでいるのかしら。
ふと思い立って、渡し舟の乗り場の近くまで歩いていくと、運が好いことに一艘の舟が泊まっていた。
私が闇夜に紛れて渡った時の、あの一年半前の舟とはずいぶん違う。
「つばきちゃん、桜のお花、見に行こうか?」と私が言うと、隣で私の小指をぎゅっと握っていた娘の手が、パッと離れた。
「さくらのおはな? みたい!」
娘は嬉しそうに、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。
そして、すぐそばで摘んだたくさんの菜の花を、わーいと言いながら青空に向かって大きく放り投げた。陽の光を浴びてキラキラと輝く黄色い雨粒の中で、娘が「あっ!」という小さな叫び声を上げる。
「ごめんなさい。おかあちゃんのおはな、ぽいしちゃった。」
言われてみれば、私の好きな女郎花によく似ている。
「同じ黄色いお花だけど、これは菜の花。でも、菜の花さんもかわいそうだからちゃんと拾ってあげようね。」
私がしゃがんで彼女の頭をそっと撫でると、娘は泣き出しそうな表情のままこくりと小さく頷いて、土手の芝生に散らばった菜の花を拾い始めた。
私は、すべて拾い終わった菜の花の茎を、持っていた輪ゴムで縛って小さな花束にした。
ふと地面を見ると、一本だけ拾い忘れられた菜の花があった。私はそれを拾い上げ、娘の小さな耳の上に挿した。ようやく娘に笑顔が戻る。
「あつくなったら、おかあちゃんのすきなおはな、つみにいこうね。」
「うん、そうだね。それじゃあ桜さん見に行こう。」
すぐに帰ってくるつもりが、料亭に着いたのは夕方近い時間になっていた。
思いの外、娘が桜の花に見入ってしまい、そんな娘の笑顔を見ていると私も「帰ろう」と無理強いすることができなかった。
案の定、ぐずりだした娘をそのままおんぶして寝かせて、しばらくの間を土手で過ごすことを余儀なくされた。
途中、料亭に職を求めてくることのなかった彼女たちの様子を確かめに顔を出そうかとも思ったけれど、娘を背負ったまま歩くのも気が引けた。
そもそも、今でも彼女たちが同じ場所にいるとも限らないではないか。
微かに渦巻く後ろめたさにそんな言い訳を添えて、娘と菜の花を摘みながら眺めた緑地帯の片隅に腰を下ろして、持ってきたおにぎりを広げた。
普段は味も素っ気もない麦飯が、青空の下、私の膝枕で寝息を立てる娘を見ながら食べると美味しく感じる。これまでのどんな食事よりも滋味深い。
歩き疲れていたのか、ご飯も食べずにぐっすりと寝入ってしまった娘を起こそうかと迷っていたけれど、もう少しこのままにしておくことにした。急いで帰らなければならない用事はない。
気がつけば、娘は二時間たっぷりとお昼寝をしてしまった。
◆
料亭に戻ってくると、どことなくそわそわとした雰囲気が至る所に漂っていた。お帰り、と声を掛けてくれた若旦那も、笑顔こそ浮かべているものの目はまったくと言っていいほど笑っていない。
その後も、いつにも増して頻繁に勝手口を出入りする若旦那を何度も見掛けたけれど、いつものように彼の目が笑うことはなかった。
だからといって、特に何かが変わることもない。ごく普通に米兵たちがやってきて、ごく普通に食事を済ませて帰っていった。
乱痴気騒ぎもなければ、大喧嘩もない。至って普通の夜だった。
もしかしたら、私の勘違いだったのかも知れない。
久しぶりに気を休めたせいで、感覚が狂ってしまったのかも知れない。
張りっぱなしだった緊張の糸を緩めたせいで、元に戻るのに時間が掛かっているのかも知れない。
そう結論付けた二日後、事件は起こった。
降り続く春霖に強風が相まって、まるで台風のように荒れた空模様の日だった。客の入りを心配しながら夕方の営業前に忙しい時間を過ごしていると、まだ開けていないはずの正面玄関から若い男性が転がるような勢いで入って来るなり、大声で怒鳴り散らした。
「まずい! 逃げろ! 若旦那がしょっ引かれた!」
よく見れば、それは私が初めてこの場所に来た時に、街のあちこちを案内してくれた下働きの男の子だった。
「どうしたの? 何かあったんですか?」
私は、割烹着で濡れた手を拭いながら聞いた。
「だから、若旦那が捕まった。全部、ばれちまったんだ!」
「ばれた? 何がばれたんですか?」
「『何が』って・・・」
途中で言葉を切ると、下働きの男の子は少しだけ目を左右に動かして周りの様子を窺った。そして、自分の人差し指を私の鼻先に突き付けると、ドスの効いた声で囁いた。
「菊枝さん、あんたが連れてきたんだろ、あの娘たち。」
私が連れてきた? 誰を? 何のことだかさっぱり分からない。
寝耳に水? 違う。そもそも話の内容が理解できない。
日本語なのに、日本語に聞こえない。
突然、舞台に引っ張り上げられる格好となった私は、発するべき台詞も繰り出すべき所作も見つけることができずにいた。
そんな私の様子を見ていた彼は、初めは訝しそうにしていた表情をあからさまに曇らせたかと思うと、小さく唸り声を上げた。
「もしかして、何も知らされていないのか、あんた?」
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