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長編小説【三寒死温】Vol.7

第一話 人探しの得意な探偵


【第六章】届いていた手紙

幼い娘を背負い、バチバチと肌を打つ大粒の雨に濡れながら渡しの乗り場まで急ぐ道すがら、下働きの男の子が教えてくれた。

私の手紙は、やはりきちんと届いていたのだ。そして手紙を受け取った彼女たちは、みな米兵相手の仕事を受け入れる覚悟で心に鍵を掛け、この場所に来ていたのだ。
でもそれは、私が手紙に書いたような仕事ではなかった。
私と同じ料亭の女中としての雑用仕事ではなかった。

それは、娼婦としての仕事だった。

表面上は料亭として営業していた「浜野屋」だが、実態は、国からもGHQからもどこからも営業許可を得ていない女郎宿だった。
システムはいたって単純。仲居として客前に出て、お声が掛かったらそのまま米兵と一緒に夜の街へと消えて行くだけ。
「仲居と客の自由恋愛」という屁理屈のような印籠を掲げながら、米兵に娼婦を斡旋していたらしい。
それは店で大騒ぎをする客なんていないはずだ。
長居をする客もいないはずだ。
自分でも知らないうちに、私は、不法な売春婦募集の片棒を担がされていたのだ。

私が裏方専門で働かされていたのも納得した。
どんなに忙しい時ですら仲居仕事が回ってこなかったのにも納得した。
初めてこの街に来た時に若旦那が声を掛けてくれたのにも納得した。
そして、私を邪険に扱った湯屋の男の態度にも、納得した。

唯一の救いは、誰も強制的に娼婦として働かされていたわけではないということだった。事前に仕事の内容は説明されていたし、帰りたがる娘を無理やり慰留して引きずり込むようなこともなかったらしい。
果たしてこの店が違法であったことが知らされていたかどうかは分からないけれど、みな、娼婦としての仕事を納得した上でここに留まったようだ。
事実、半数以上はその場ですぐに帰ったという。

ただ、彼女たちからすれば、私には「騙された」と感じたことだろう。少なくとも私の言葉を信じてここまで来たのだから、これがまっとうな仕事なのかという気持ちだったに違いない。
そう思うと、涙が止まらなかった。

良かった、まだ舟がある。いきなり立ち止まった下働きの男の子はそう言って、渡しの乗り場を指差した。
いつの間にか、こんなところまで走ってきていたのか。
「早く。この嵐に乗じて逃げろ。」
「君は? 君は逃げないの?」
「まだ、逃がさなきゃならないのが残ってる。」
そう言い終わるや否や、下働きの男の子はきびすを返し、来た道を走って戻って行った。
滝のような大雨と、トンネルに差し掛かった汽車の中にいるような凄まじい風音、そして陽が落ちかけた薄闇とで、男の子の姿はあっという間に私の視界から消えていった。

「乗せてください。」
土手を降り、渡し舟の乗り場の正面に立って、私は言った。
そこで私は、一銭も持ち金がないことに気がついた。考えてみれば、着ているものだって割烹着のままだ。私と娘、まさに取るものも取らずに身体一つで飛び出して来てしまっていた。
「対岸に知り合いがいます。向こうの出身なんです。着いたらお金を払いますから、どうか乗せてください。」
もちろん出まかせだ。こんな嘘が簡単にすらすらと自分の口をついて出てくることに、私自身が驚いた。
しかし、見え透いた作り話が通用するほど甘くもない。船頭は、私ではなく背中の娘をじっと見てから、小屋の中にいるもう一人と目配せをした。

嫌な予感がする。

思った通り、その男は自分の顎をしゃくるようにして娘を指しながら、じっと私の目を覗き込んできた。そして、同じ動作を二度、三度と繰り返した。
冗談じゃない。
返事をしないでいると、船頭は何も言わずに竿を持ち上げた。そして、岸の一角を勢いよく突いて、船を漕ぎ出そうとした。

その時、私の脳裏をかつての恐怖と不安が走馬灯のようによぎっていった。

◆ ◆ ◆

「こんな時間まで、どこをほっつき歩いていたんだ!」
唐突に響く大声に、娘を背負って寝かしつけながら窓の外を覗くと、斜向はすむかいの家の男の子が俯いて玄関先に立ちすくんでいる姿が見えた。

右手には大きな四つ手網。
左手には桶いっぱいに溢れるエビガニやタニシ。
雷魚みたいなちょっと気持ち悪い魚もいる。

きっと近くの用水路で魚獲りに夢中になっていたのだろう。普段だったら自慢できるくらいの大漁が、今回ばかりはかえって仇となってしまったようだ。何とも間の悪いこと。さっさと手伝えと頭を小突かれて、少年は肩を落としながら家の中に入っていった。

その日は朝から雲一つない青空が広がり、真夏に逆戻りしたのかしらと思うほどの熱量を発する太陽が、燦々さんさんと輝いていた。
いわゆる台風一過の晴天。
いつになく早い秋雨前線が居座っていたせいで、二、三日前から鬱陶うっとうしい雨が降り続いていたのだけれど、そこにやってきた大型台風が前線を囃し立ててしまったのだろう。昨夜は、これまでに見たこともないくらいの大雨が一晩中降り続いた。

「菊ちゃんも、早いとこ準備しとくんだぞ。」
どうやら、私が玄関先の一部始終を窓から覗いていたのは、すっかりばれていたみたいだ。私は慌てて窓を開けて、声の主である斜向かいの家の旦那さんに「はあい!」と元気よく返事をした。
そして、お隣さんから分けてもらったドラム缶を土間の上に置いて、濡れてはいけない貴重品をその中に詰め込み始めた。

お隣さんには「一つしか余ってないけどいいかい?」と言われたが、悲しいかな、一つあれば十分だった。
全部入れ終わったら、同じく分けてもらった古畳でドラム缶に蓋をして、重石代わりの漬物石を乗せる。これで準備万端。
ここよりもっと下流の方では用水路の氾濫が絶えなかったそうだが、かつてそんな場所に住んでいたことのあるお隣さんが教えてくれた、列記とした浸水対策だ。

大雨の影響で川の上流が氾濫したらしいという報せが入ってきたのは、昼過ぎのことだった。
屋内の浸水対策を済ませ、念には念を入れて、この辺りには一軒しかない二階建ての歯医者さんに布団を預け終わっても、正直なところ、私にそれほど危機感はなかった。それは周りのみんなも一緒だったようだ。
もちろん真剣な表情で準備をしているけれど、本当に堤防が決壊して集落が水浸しになるとは誰も思っていなかった。
どこまでも続く真っ青な空が、それを証明しているような気がした。
実際、陽が落ちて暗くなってからも、変わった様子など何もなかったのだ。

ポン!

聞き慣れない破裂音で私が目を覚ました時、時計の針は二時を指していた。その夜は電球を点けなくても時刻が読めるほど、辺りは月の光に灯され明るかった。何の音だろうと思いつつも、再び目を瞑ろうとしたところでもう一度、「ポン!」という乾いた音が辺りに響き渡った。
どうやら音の出どころは台所のようだ。
一度だけならまだしも、立て続けに二回。
念のために見ておこうと、私はそっと布団から這い出た。

隣にいる娘の鼻先にそっと自分の頬を近づけ、寝息を立てているのを確認してから、彼女の顔が隠れるくらいまで布団を引っ張り上げた。
そして、押入れにしまってあった竹ぼうきを手に取って、恐る恐る襖を開けた。足の裏から伝わってくる板張りのひやりとした感覚が、得体の知れない恐怖を増殖させる。

自分でも気づかぬうちに閉じてしまっていた瞼を開けると、居間と同じように台所も月明りに照らされていた。
四畳半ほどしかない狭い空間に、流しとかまど、そして水屋が一つだけ。
奥の土間には、逆光に照らされた真っ黒なドラム缶の輪郭が妙に浮き上っている。一目見て、人は誰もいないことが分かった。

その時、またしても「ポン!」という音がした。それと同時に、視界の片隅で何か角ばった物体が床から飛び上がるのが見えた。

それは、食料をしまっておくために四角くくり抜かれた床の扉だった。
床下に狸でも隠れているのかと思って竹箒を握りしめる両手に力を込めたところで、お隣さんの怒鳴り声が聞こえてきた。
「来るぞ! 水が来る! 逃げろ!」
私は、身動きが取れずにその場に立ち尽くしてしまった。

水が来る? どういうこと?

しばらくして、お隣さんの台詞と昼間に浸水対策の準備をしたこととが、ようやく頭の中で結びついた。
本当に堤防が決壊したのだ。川が氾濫したのだ。

私は急いで居間に戻って、眠っている娘を抱き上げた。猫背になりながら背中に回して、さらしを結ったひもで自分の体に括り付ける。そして、少し高台にある天神さんまで逃げようと、玄関の土間に足を降ろした。
「冷たい!」
私は、思わず叫び声を上げた。
でもそれは、板張りの床の冷たさとは全く違う。足元を見てようやく、くるぶし辺りまで水に浸かっていることに気がついた。

玄関を開けると、更に勢いよく水が入り込んできた。
「菊ちゃん、もう間に合わない!」
再び、お隣さんの声が辺りに響き渡る。でも、姿は見えなかった。続けて、「上だ! 屋根の上! 屋根に登れ!」という怒鳴り声が聞こえてくる。
その間にも水かさはどんどん増え続け、いつの間にか私の足はひざ下まで水に浸かっていた。

初めて見る浸水は、私が想像していたものとはまったく違っていた。
囂々ごうごうと押し寄せる津波のようなものを頭の中に描いていたのだけれど、そこには水の流れらしきものがほとんどなかった。まるでお風呂の水を貯めるみたいに、ただただ水かさが上がっていくだけ。
目に見える動きといえば、ところどころに渦を巻くような模様が、明るい月に照らされてきらきらしている程度だった。

ばしゃばしゃという水を切る音に振り返ると、お隣さんが竹を荒縄で縛っただけのみすぼらしい梯子はしごを持って大股で近づいてくるのが見えた。
「さあ、はやく!」
梯子を玄関のひさしに立て掛けくれたお隣さんの言うままに、私は両手でささくれ立った竹の筒を掴んだ。
そして、右足、左足と一段ずつ登っていった。

暴れ出した真夜中の喧騒で聞こえるはずはないのに、ぎしぎしという梯子の軋む音が私の頭の中にこだまする。
それでも恐怖を押し殺して、私は震える手足を動かし続けた。
もう少し、あと少し。

いよいよひさしの上が見えようかという高さまで来た時だ。不意に、ぱきっという何かが弾けるような音が聞こえた。
今度は、頭の中の想像ではない。
空気を震わせながら鼓膜まで伝わってくる本物の音だ。

私が頭上を見上げたのと同時に、ちょうどひさしと接していた辺りから梯子がぐらりと傾いた。
左足を踏み外した私は、悲鳴を上げながら梯子にしがみついた。
落下を覚悟して、瞬時に背負っていた娘の背中に右手を回しながら、左手で梯子を抱えるようにして身体を支えた。

しかし、それ以上、私の体が傾くことはなかった。
見れば、勢いで踏み外した私の左足が、お隣さんの背中の上に乗っている。梯子はまだ、完全には折れていなかったのだ。私がごめんなさいと言おうとすると、その言葉を遮ってお隣さんが大声で怒鳴った。
「いいから上がれ! 屋根をつかんで! ひさしに足を掛けて!」
私はどうにか身体を持ち上げて、不安定なひさしの上に腹ばいになった。

次の瞬間、竹梯子が真っ二つに崩れ落ちた。
「大丈夫か? 登れたか?」
「はい。どうにか。でも、梯子が。」
「心配するな! 俺は大丈夫だから!」
そう叫びながらお隣さんは、今度は斜向かいの家に向かって水の中を掻き分けて行った。その時にはもう、水かさは彼の腰辺りまで上がっていた。

「わあああん!」
背負った娘の鳴き声で、私は我に返った。
大丈夫よ、と繰り返し言いながら四つん這いになって、屋根の上へと登っていった。そしてゆっくりと慎重に立ち上がってから、さらしのひもをゆるめて娘を抱っこし直して、もう一度自分の身体に括り付けた。

私が歩くたびにばぁんばぁんと鳴り響くトタンの音が、やたらと耳に障る。
屋根を登り切ると、むねの一か所だけが少しだけへこんでいるのを見つけた。私はそこに腰を下ろして、水浸しとなった集落を見渡した。

川から溢れ出た水は、既にひさしのすぐ下まで達している。
背後から聞こえた「大丈夫か?」という声に振り返ると、斜向かいの家の屋根にもいくつかの人影が見えた。良かった。間に合ったみたいだ。
返事をしようと右手を上げたところで、娘がまたひっくひっくと小さな鳴き声を上げ始めたので、慌てて私は正面を向き直した。

娘を抱えて左右に揺らしていると、少し先にある家の倉庫に、誰かが泳ぎ着いて這い上がっている姿が確認できた。
その倉庫は、もう茅葺かやぶきの屋根しか見えてない。あそこは確か、娘が近所のお友だちとかくれんぼをしていた時に、隠れたままいつまでたっても見つけてもらえずに泣きながら出てきてしまった場所だ。
そんなかつての笑い話を思い出したのものの、このまま水が増え続けたら屋根の上でも安全ではなくなるのだと考えたら、浮かべられるはずだった笑顔は闇へと消えていった。

その時、それまではただゆっくりとその高さを上昇させるだけだった水の様子に、変化が現れた。
ところどころに見えていた渦模様が少しずつ大きくなっていき、次第にその幾つかが結びついて一定の方角へ向かう流れとなっていった。

この集落はちょっとした窪地にある。
恐らく、堤防の決壊で溢れた水を一時的に貯めていたこの辺りの容量が、限界を超えたのだろう。さらなる低地へと進むべき道筋を見つけ出した洪水の流れは、みるみるうちにその勢いを増していった。

どうやら、これ以上、水が上がってくることはない。

そう思と、自然と安堵のため息が零れた。
あとは、強くなった水の流れに、どれだけこの家が持ちこたえられるかだ。そして、家が持ち堪えてくれている間に、救助が来てくれるかだ。
運良く渡しの船でも流れ着いてくれればいいのにと思いながら、私は長方形の四角い顔を覗かせる倉庫の茅葺屋根と、泳ぎ疲れたのかその上で横たわる人影を眺めていた。

すると突然、その四隅から屋根を支えていたと思しき柱が勢いよく上空へと飛び上がった。四本の直線が中空を舞い、大きな水飛沫しぶきを上げて水中に消えるのと同時に、茅葺の屋根もゆっくりと動き出した。
そして、流れに沿って次第に速度を上げたかと思ったのも束の間、月明りに照らされながらあっという間に沈んで見えなくなった。
その上で四つ這いになったまま、何もできないでいた人影と一緒に。

◆ ◆ ◆

待って!

自分でも気づかないうちに、私は大きな声を上げていた。
もしかしたら、目の前のこの舟が最後の渡しになるかも知れない。
これを逃せば、今度こそ私も娘も命を落とすだろう。そう、確実に。
そんな思いが頭の中を駆け巡った。

そして、いつ、どこで聞いたのか覚えていないけれど、私の耳にはっきりとした声が聞こえてきた。
それは滑舌の良い、溌溂とした印象を与える、若い娘の声だった。

「命あっての物種、ですよね。」

その台詞は、どこからともなくやってきて、確実に私の鼓膜を震わせると、跡形もなく過ぎ去っていた。
気がつけば私は、独り言のように呟いていた。
「名前は、つばき。植物の『椿』。もうすぐ、五歳になります・・・」

つづく(第一話 第七章へ)


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