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わたしのなかの自然


わたしにとって自然とはなんなのだろう。
自然と向き合えば向き合うほど、人はそれを考えるようになってくるのではないかと思う。わたしはまだ未熟者で考え始めたばかり。答えはわかっていない。答えがわかる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。なにかしらをずっと大いなる自然の中で、手探りで探しているような感覚だ。言葉にはし難いなにか秘めた力がある。

わたしが自然と遊ぶようになったのは、長野県野沢温泉スキー場で初めて雪山で働いたときだった。南の島で生まれたわたしにとって、雪景色なんて生まれて初めてだったし、その寒さも経験したことがなかった。まだよく覚えている。野沢温泉に向かうバスに乗り込んで、舞う雪や、片隅に寄せられた雪の塊をとても美しく思ったのを。窓に張り付いて、その光景を一瞬も逃すまいと、じいっと見ていた。それからスノーボードにのめり込むのに時間はかからなかった。
次に始めたのはサーフィン、波乗りだった。美しい沖縄の離島、宮古島で友達と共に始めた。最初はパドルすらもうまくいかず、ましてやポイントは岸から300メートルほど離れた珊瑚礁の向こう。ヘトヘトで、板に座って波待ちすることもままならなかったけれど、それでも灼熱の太陽に照らされながら、透き通った青い海を見つめ、ぬるい海に浸かっている心地良さといったらたまらないものがあった。たまにアオブダイがわたしたちの下を通る。鮮やかな青に何度も目を奪われた。それよりも、波に乗るあの心地は最高だ。それが透き通った海であろうがなかろうが、寒いところであろうが、波に乗ると面白いくらいになにもかもを忘れた。波を待つ時も、波に乗る時も、その瞬間しか存在しないと、思い知る。わたしはそこまで技術がないので、いっぱいっぱいなだけではあるが。もう少しレベルが上がれば、周囲のいろいろなことが見えてくるのかもしれない。

このふたつがわたしを完全に自然の中で遊ぶ心地よさを教えてくれたと言っても過言ではない。雪の上を走る感覚、波に乗る感覚、どちらも似て非なるものではあるが、頭の奥がツーンとするようなあの心地良さは同じだ。わたしはそれをずっと追いかけ続けている気がする。

自然はわたしの世界の1番中心にある。人間がいなくても自然は在るけれど、自然がなければわたしたち人間は生きていけない、と、わたしは思っている。自然は寡黙であり大胆だ。寡黙ゆえに、そこに在ることに気付かない人もいるかもしれない。けれども気付いたところから、自然という名の宇宙は広がり始める。寡黙でありながらも、植物や、空の大きさや太陽の色、波の形が訴えてくるものは、あまりにも大胆で常にわたしの心を強く揺さぶる。体や脳、神経のどこにどう作用しているのかはよくわかっていないが、胸が高鳴る。自然と向き合う時は、不思議と自分の呼吸や鼓動がよくわかる。ときに涙も溢れる。彼ら、自然は、寡黙であり、大胆だ。

言葉を記そうと思ったのも、自然が元だ。旅を介して自然を知り、自然を介して自分の内側を見る。そこから溢れた感情や浮かんだ疑問や言葉たちを、書き留めておこうと思った。人の言葉は美しい。わたしはまだたくさんのことを知らない。だから探したいと、強く願うのだと思う。手探りではあっても、自然に対する言葉にできないこの感情を、ゆっくりと味わいながら、自分の中で表現したいと思う。先ほども言ったように、わたしにとってそれは、言葉にし難いものだ。答えがわかる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。ただこの美しい自然の中に身を置くことは、この美しい星に生まれてきたことは、歓喜することであり、ましてやこのように思考できることは、ありがたく幸運なことだと思う。

自然が好きだ。だが、まだ彼らの世界を完全には理解していない。いつか自然のサイクルの中に還りたいと強く願うが、人間はサイクルから外れているのか、わたしたちすらも大きなサイクルの中にいるのか。人間として生まれ、言葉を使うことができる、表現ができる。言葉は自由だ。言葉はとても大きなツールであると思う。ペンは剣よりも強し。いつかわたしなりの、わたしの中の自然というものを、表現できたら良いと思う。


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