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入院ライフ:わたしの膠原病記


まず近況を



入院して早や3日目になりました。

熱もないし、痛みもないし、拍子抜けしながら滞在してます。

相部屋なので、会話も聞こえてくるのですが、
他の方は発熱してたり、点滴治療してる様子。

とはいえ、私の体の事情としては、入院して治療する必要があってわざわざこうして来てるわけで、天が与えた恩恵のおこもりだと思って、自由な時間を有意義に過ごそうと、まあ前向きにマイペースにやっています。


来週から、新しい特殊な薬を始めることになりました。
そのための入院のようなものです。
生物学的製剤、その名は、アクテムラ。
生物学的製剤って、よくわからない。もう少し学習しないと。

人が聞いたら、ビビるかもしれないけど、
それが注射タイプで、
今後は自己注射することになるらしい。

つまり、定期的に、自分で自分に注射、と。

正直、最初それを聞いた時、
「それって、飲み薬はないのですか?!」
という言葉がよぎった。

が、もう、つべこべ反応するだけ気持ちも落ちるので、サレンダーな私。

私だって注射が好きなわけではない。
どうせなら、やりたくない。
一度始めたら、ずっとしなきゃいけないのかな?
とか、いろいろ思いがよぎった。

でも、すぐにこうも思った。

世の中には、言わないだけで、
自己注射して元気に暮らしてる人も沢山いるしね!
そんなこと、ビビっても仕方ないだろう。
死ぬよりマシやろ、と。
体のためやろ、と。

開き直りって、こういうときに役立つ。

体質的に子供の時から糖尿病になる人もいて、
小学生だって、必要なら毎日注射してたり、というのを聞いたことある。

そんな子供達のために、
痛くない注射針を開発したという町工場の人の話を、
ニュースで聞いた記憶。

調べてみたら、岡野工業という会社で、
これがもう素晴らしいとしかいいようのない技術者さんで、
いろいろな話が出てくる。
世の中には立派な人がいるものだ。

私の注射もそんな針だったら良いけど、どうでしょう。

製薬会社の注射ハウツー動画も見てみた。
補助キットみたいなのもあるみたい。
そこにセットして、押すと、簡単にできる、、、みたいな。

来週月曜日から、早速「自分で」と言われている。
練習するらしい。
戦々恐々。

まあ、やってみて、怖そうだったら、補助キットをお願いしよう。
てか、補助キットないと、初心者は難しいのでは?。

私の薬の場合、毎日ではなく、
週に一度っぽいので、そこも救いかな。

まあ、それでステロイド減薬できるなら、絶対そっちの方がいいんだろう。

いまはただただ穏やかに、状況をうけとめようとしている。

それが自分の為と思っている。

読書の楽しみ


村上春樹の「海辺のカフカ」を順調に読み進めている。
寝る前に読むと、どうも影響を受けそうなので、日中に読んでいる。

最初なんとも思わず読み始めたけど、
けっこう「海辺のカフカ」はしんどい話だと感じている。
体調がこんなせいか、暴力シーンや無意識のシーンがしんどいし、
テーマがどうも重たい。
ギリシア神話をモチーフに使っているのもあるかな。
最後まで読んでみないとわからないけど。
いまは、下巻の真ん中らへん。

ディテールはやっぱり素敵だし、
登場人物たちは共感しやすくて魅力的な人物が多い。
だから読んでて気持ちいいし、読み進められてしまう。

でも、あらためて、村上春樹ってやはり外国文学の影響強いなと。
バタくさいというか。
フィクションであり、ノベルなんだなあ。
映画をみるような気分で読んでいる。
ご都合主義っぽい無理な設定も、
ストーリーの引っ張り方でうまいことまとめてしまう。
ディテールがうまいから、読んでしまえる。

昨日の夕飯後は、
カフカにすこし食傷気味になり、
柳田由紀子『宿なし弘文 スティーブ・ジョブズの禅僧』を読んでみた。

こちらは、5分の1くらいで、もーいーやって気分になった。


ジョブズの師匠だったというアメリカにいた日本人禅僧らしいけど、
その弘文さんという人に、あまり興味が持てなかった。

人は伝説を作りたがるんだな、と。

そして、期待していたよりも、禅の話が出てこない。

私がいま欲しかった禅の知恵や知識は、そこになかった。

まあ単に伝説の人について知ってる人たちに聞き書きした取材レポ、
ドキュメンタリーって思って読めば、
ジョブズ好きな人なら、おもしろいのかも。

私の場合、マインドフルネスとか、
もっと実践的な禅の話を知りたかったなと。

弘文さんを、一休さんになぞらえてる人がいたけど、
一休さんとは違うと私は思った。

いくら常識を喝破する破戒僧の要素があったとしても、
一休さんはあそこまで無責任ではないと思う。

ということで、どうせなら、前から集めてた一休宗純の関連書籍を読み進めた方が、早いだろうな、と。

なので、次は、水上勉『一休』を読むかなと思っています。

正岡子規『病牀六尺』を読み直す


あと、並行して、あらためて読んでいるのが、
正岡子規の『病牀六尺』。

病気が悪化したことで、おセンチになり、
世を儚んで、にわかに読み始めたわけではありません!(笑)
ので、あしからず。

もともと、自分の研究テーマが正岡子規だから、
何度も読んでおり、仕事の一部みたいなところもあり、
せっかくの自由時間、
これを機にあらためて丁寧に読み直そうかと。

自分も治療しているときに読むというのも、
また一興かなとも思い、
少しずつ読み直したらいろいろ発見も多いし、インスピレーションもある。

正岡子規の文章って、本当、人柄がそのまま出ていて、
しかもその気質がまた、なんとも魅力的で、唯一無二なのです。

どう魅力的なのかは、また別のところで詳しく書きたいと思います。

正岡子規の文章を読んでいると、
正岡子規の声をそのまま聴いてるような気がするんです。

もしかして、晩年は口述筆記だったからかな。

新聞連載ってこともあり、短い随筆がずっと続いていく。
それも読みやすい。
それ以上の長文は、
子規の体力的状況では無理だったということも、あるかもしれない。

あれだけの悲惨な状況で、あんな風に連載している人間的強さ。

いろいろな話題を引き合いに出して、レパートリーは豊富。
子規の知的好奇心の赴くままに進んでいく。

そして率直に死生の問題に切り込んで、てらいのないさま、
それに対する読者の問いに対してもまた率直に応える、豪胆さ。

尽きないなあ。子規のことを考えると、興味が尽きない。

まあ、今日はそんなところで。









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