見出し画像

my思考回路を分析してみた。

会社が、個人情報やらネット上の情報管理やら厳しいこともあり、
仕事内容のことはあまり書かなかったのですが、
この頃、頭の中がとっ散らかり気味なので、少し書いてみます。

私の現職は教育系ですが研究職の面もあるので、
一応、職場で本を読んだり買ったりすることが許されているあたり、
恵まれていると思って感謝せねばならぬ(そう思わないとやっていけない)。

文学作品を授業で取り扱うとき、
何度も何度も繰り返し同じ作品を読み、説明する。

それにより、読むごとに文章の巧さや、構造分析や設定の細部に気づき、
発見に繋がったりする。
ある意味、お得だ。

ただ、ときどき、頭のなかの思考回路がとっちらかってしまう。

今の私の脳みそのなかを整理すると、
おおまかにこんな感じだと思ったら、すごく納得した。

(1)授業のための思考
(2)研究のための思考
(3)小説を書くための思考

それ以外に、
(4)雑用&生活のための思考。

(4)は、(1)~(3)以外のときといってもいい。

これらが重なり合って、
ぐにゅぐにゅと不思議な生き物のようにうごめき合っている。


プロって、定食屋のおばちゃんみたいにサービス提供できるものかも。


今、(2)(3)が活性化しているので、
一番上の「授業のための思考」が押され気味。

始業のチャイムが鳴っても、
そちらへ意識を切り替えるのが難しいときが多々ある。

こんな頭の中の状態で、人前でよく授業できてるなあと自分でも思う。
ただ、
人間、慣れってのは恐ろしいし反面、すごいってのがあって、
職業病というか、とにかく成立できてしまう。

いざスタートすると、そちらへシフトしていく。

このごろ疲れすぎて、こんな動画をよくみていた。
見ていて、思った。
もやは、私もこんな感じかなと。


おばちゃんの厨房が清潔で整頓されてるのと、
料理を出す時の無駄のない動きに、みていて飽きなかった。
気持ちよかった。
私も、ちゃちゃちゃっと、うどんや定食のようにサービスを提供しています。
仕込みはたっぷりしてあってね。

こんな感じで、パンケーキを焼く職人さんみたいに、
素人にはむずかしいけど、
慣れた手順でいつも通り作っても、ふわっと焼けてしまう。
体や感覚が覚えてる感じ。

プロって、考えなくても無理なく出来るからプロなのかもしれないと、
これらを見ていて思った。

慣れた手順で、一定の品質を保ちながら、
そのときそのときで改善のための微修正をしつつ、良いものを提供する。
そう、
そんな風に提供したいのが、私にとっての(1)。


問題は、研究と小説と・・・・・・。


(1)はまあ全自動的にできるのだけど、
問題は(2)(3)。

油がのってくると、集中したくてたまらなくなる。

仕事は仕事、研究は研究、趣味は趣味と割り切って、
バランス良く、さくさくできればいいんだろうけど、
近接しすぎているところもあり、
どっちがどっちなのか、ぶっちゃけ分からなくなり、混乱するときがある。

小説を書こうとする動きは、
感受性やインスピレーションも大切だし、
日常生活と別の能力を使うこともあるので、別格だと思っている。

だけど、資料収集や調査の面では、かなり近似していると最近思う。

ただ資料収集や取材の段階で、
脳みそも気持ちも満足してしまっては、
いつまで経ってもオリジナルの小説は書き出せない。
恥ずかしいことに、私がよく陥るパターンがそれだ。

だから、
まずは(2)の研究をある程度めどをつけてしまって、
あれこれ手を出すのではなく、
この分野、この方向性という風に、
厳選してやっていこうと最近思っている。

ようは、研究をかなり絞っていくということ。

ブルーオーシャン、レッドオーシャン


私くらいの年齢になってくると、
大学・大学院生から研究生活をスタートとして計算しても、
20年間くらいやってきたことになる。

この頃では、
計画の段階で、あらかた何が出来て何が出来ないのか、判断しやすくなってくるというのはある。
このテーマ、この素材、この手法でやってみて、
どの程度のことがいえるか。
それが新しいか、古いか。
大体わかる。

加えて、自分が敢えてそれをやりたいかどうかも、
若いときより判断しやすくなる。

若いときは、自分の指導教授やお世話になった人の影響があり、
頼まれ仕事なども多いので、
自分のしたい研究以外にも、
枝葉がついて、無駄にいろいろなことに手を出したりした。
業績を増やすためにも、そうせざるを得ない面もある。
おかげで色々知識や技術も増えたけど、本当にそれがしたかったのか?と今思ったりする。
で、本心では興味ないことを削って、少しずつ手放している段階でもある。


一方で、おかげさまで、
若い頃の目標も、ある程度は達成できたというのもある。

このごろ思うには、
後半生はどんな研究をしたいか、どんな研究が出来るかということ。

例えば最近のこと。

多くの人がやっている王道の研究があり、
微妙にそれに重なることに少し興味を持った。
しかも、それは自分の本流ではない分野だった。

で、早速本を集めて先行研究を調べたら、
やはり、すでに誰かが、
私がおもったことと同じ指摘をしていると判明。

あっさり苦笑いで、「あ、これ、やめとこー」って思えた。
そこに突入して、猛者を振り切っていくほどの情熱を、
そのテーマや素材に感じるか?と自問したら、
それほどの情熱はないのが本心だった。

敢えて、誰もが選ぶような、選びたくなるような王道は、
そのテーマや素材が好きじゃなきゃ、無謀だなあ。
そんな風に気づけた。

そこでふっと降りてきたのが、「ブルーオーシャン」という言葉。

落合陽一のどこかの本で読んだ言葉。

なんとなくで理解していたけど、
あらためて、検索してみて意味を調べたら、
目から鱗だった。

経済用語だけど、これは研究でもまさに!だった。

研究においても、レッドオーシャンはあって、
同じような分野や手法で、
限られたパイを巡って競争しているところもある。

でも、自分の研究テーマをふりかえったら、
どちらかといえば、若い頃からずっと、
ブルーオーシャン的な傾向だったなあと気づいた。

研究テーマが、マニアック。素材も、マニアック。

なので、やはり今後も、
テーマも素材も絞って絞って、ニッチな場所でやっていこうと思った次第。

自分にはその方が合ってるし、
しかも、
自分がワクワクし、意義があると感じられるものを対象に選んでいる。
業績のためにというより、価値があると感じているから。

あまり深く考えたことなかったけど、
自分にとっての研究や研究スタイル、信念というものを、
この年齢になってやっと考えはじめられた気がする。

こんな気持ちになれたのも、
レッドオーシャンにいかないまでも、
競争社会、承認欲求の世界で一通りやってきて、
もういいやって思えたからかもしれない。

病気しなかったら、たぶん、まだ競争に無意識に巻き込まれていた気がする。

人間の人生の時間には、限りがあるって考え方は、
非常に有効で、
本当に大切なこと、本当にしたいこと、
無駄はなにかってことを照射してくれる。

自分にとって大切なもの、大切なことに、
時間と心のエネルギーを使いたい。
研究にしろ。


残るは、小説のこと


時間配分を考えると、
(1)を効率化して(2)も厳選して安定すれば、
(3)の集中力や時間がさらに確保できるのでは?ということ。

どうしても小説を書く、
小説のことを考える時間が断続的になり、
継続的にならないのが、私の今の課題。

そして、どうしても焦ったり苦行になりがちなので、
それはいやだなあと思っている。

どうせなら、楽しみながら小説を書きたい。

あるいは、無理があるなら、
文体やジャンル自体を考え直してみるか?とか思っている。

これについては、まだ自分でも整理し切れていないので、
もう少し時間がかかりそうです。








で、時間と効率を考えると、
すべてに集中することは無理なので、効率化は大切。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?