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なぜ未来を考えるのか。理想のために生きると今を生きるの違い。#75

私が学んだ1つに、アドラー心理学ベースのコーチングがあり、どのテーマであっても、目的論で未来をイメージする。

だが今日のクライアントは、未来はあえて考えないでいたいという。

半年前から月1回セッションをさせていただいているが、私からみるに、クライアントさんは発達段階は高い。

CFOとして上場した経験もあり、高収入で引っ張りだの一方で、自身の体調を崩してしまったことや合理主義や資本主義に対する違和感から、今は退任して個人で仕事をされている。

自分がいたゲーム自体を認識し、自己をも相対化しながら多様な文化や価値観に触れていきながら自己の再構築しているグリーンの段階。

セッション前後の雑談含めて、私との対話も1つ1つ味わうように進む。
私から発する言葉1つに対しても、色んなことを敏感に感じ取られている。

彼女からは流れの中で生きるというようなニュアンスの言葉もあり、グリーンからティール段階にかけてある実存的段階に入っている。

さて、そんなクライアントから発言未来をあえて考えないということに対して、今日は少し考えてみたい。

そもそもなぜ未来を考えるのだろうか。

この問い自体、分解しなければならないほど抽象度が高い。それを重々承知の上で、自分の思考すすめたい。

一般的には、理想は描かなければ見えてこなく、理想を描いて、その理想に向けて必要なリソースを確認するためとでも言えるのだろう。色んな言い方があるが。

だがどうだろうか。

実存的段階からの方々は、今を生きることに集中している。

田坂広志さんは、こんな言葉を言っている。

「志」とは、「いつの日か、こういう夢を実現しよう」という、目標ごときのものではありません。それは「いまこの瞬間を、いかに生き切るか」という覚悟に他ならないと思うのです。

ヴィクトール・フランクルは、人生が自分に対する問いかけに答えるといい、人生の意味をその瞬間瞬間に答え続けると言っている。

これら今を生きることには、いくつかの前提がある。

自己の高次の欲求を認識できていること

そのうちの1つは、高次の欲求、自分自身は人生において何が大切であるか、信念が明確にあることが挙げられるように思う。

逆にそれがない人が今を生きるとっても、それは単に短期的な視点のみで生きているに過ぎない。

なぜ未来を考えるのかの問いに対する答えの1つはここにある。

未来をイメージしてクライアントに問いかけると、多くのクライアントは、
マズローでいう欲求段階説の満たされていないことを挙げる。

コーチはそれがクライアントが望むことと鵜呑みにせず、それが叶ったら次に何をやるかと展開させていく。

そうすると、自己実現欲求レベルの高次の欲求が出てきて、自分の本当に望むことが出やすい。

未来を考えるのは、真に自分が望んでいる高次の欲求を見つけることと言えるかもしれない。

逆に言うと、それが明確にあるのであれば、未来は考えなくていいのだろう。

現実世界の捉え方

さて、この今を生きることの前提を他に挙げると、現実世界の捉え方にもある。

この現実世界は、多くのことが繋がっており、絶え間ない流れの中にある。

たとえば自分の価値観さえも、それは自分が置かれた環境下で思い込んだものに過ぎず、生きていく流れの中で変容していくものになる。

こう捉えると、今の自分にこだわっていても仕方なく、むしろ自分が自分さえにもとらわれない自由自在な存在であろうとして、流れの中で生きようと思う。

この前提があれば、未来を考えることは、今の自分で発想することにあまり意味がないと考えるのもわかるだろう。

別に未来を描くこと自体を否定するわけではない。
もちろん別の目的をもって未来の結末を予測することは重要である。
たとえば、AIがこのまま進歩していければ、人類はどうなっていくのかなど。

ただ、安易に何でもかんでもセッションにおいて、未来をイメージするのがよいかというと、それは違うのだと思う。

今日のようなクライアントの支援に関わるたびに、私自身の人間性、発達そのものが問われていると身にしみて感じる。

2021年2月25日の日記より
2021年2月27日


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