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「君たちはどう生きるか」は宮崎駿が宮崎駿になった瞬間を描く

宮崎駿監督最新作にして、おそらく最終作である「君たちはどう生きるか」は見た人の数だけ解釈が生まれる映画でした。
ネットにも数多くの解釈が溢れ、映画そのものよりも豊かな状況になっています。
しかし、その多くは映画外の情報からの引用を組み込んだ複雑なパズルのような解釈であると感じます。
つまり「〇〇は鈴木敏夫である」「いや、高畑だ」「いやいや、我々だ」
「神だ」「仏だ」「ブッチャーだ」
というやつです。
解釈は解釈で問題ないのですが、そこに宮崎駿監督が現れて
「君の解釈は完璧。君こそ私の最大の理解者だ、マジサイコー」
とハイタッチと握手で正解者を祝福してくれることは、まずないでしょう。
正解のない無限のパズルを解いているようなものです。
ですので、私は
「映画自体の構成」と「作品内にある演出」と「制作意図」
という映画そのものから(可能な限り外部情報を廃して)映画の解釈を試みたい

その結果は「宮崎駿が宮崎駿になった瞬間を描いた映画」だった。
もう最初にオチを言ってますが、ネタバレじゃありません。
タイトルに書いてあるから。



描かれているものこそ真実、描かれていないモノもまた

まずはこの映画はなにか?
「宮崎駿の自伝的映画」である。
これが解釈の背骨です。他の人の解釈においてもこれが背骨であり、映画を見た観客の9割もそういう物して見たでしょう。
映画自体はほぼフィクションで、実際とは大きくかけ離れていますが、ポイントポイントに事実を埋め込んでいます。そのポイント同士を線で結ぶと「宮崎駿座」の姿になる映画です。

話は「少年が自宅の裏の森の中に不思議な塔を見つける。その塔に消えてしまった母親を探すために塔に入ると、そこは不思議で不条理な世界へと続いていた。少女と出会った少年は塔の主と出会う。塔の継承を求められるが断る。塔は崩壊するが、少年は母親とともに現実へと帰還した」
いかにも大時代的なお話、まさに「宮崎氏が少年時代に読んでいたであろう」といった感じの話である。

何度も言うようにこの作品は「宮崎駿の自伝的映画」であり、それ以外の解釈はありません。監督当人もそうであるように作っているはずです。
では映画世界史に燦然と輝く大宮崎監督が、自作自伝の中で何を描いていたのか、まずは作中に「描かれているもの」だけで判断してみましょう・・・

アニメーションとの出会い・・・なし、出会ってない。絵すら描いてない。
映像作品との出会い・・・なし、見てもない
映画との出会い・・・・当然ない
仕事と仲間たち・・・ない
家族・・・実家は描くが、妻子供は当然出てこない。メタファーすらない
母親・・・描かれていますがフェイクだと思います。映画を作るための言い訳
父親・・・存在しないに等しい。もしくは銭形
鈴木敏夫・・・「解釈」は可能だが、彼自身を描く気はない
高畑勲・・・「解釈」は可能だが、彼自身を描く気はない
会社・ジブリ・・・「解釈」は可能だが、ない
観客・世間・・・ 残念ながら、でてる

作中において描かれているものだけでジャッジするならば
「自身の少年時代、それもごく一部を描写する」という目的に特化している映画であることは間違いありません。
監督本人を「映画化」するために選んだ題材は、まさにあの一瞬だけ。
青年時代でもなく、東映時代でもなく、ジブリ時代でもない
アニメにすら出会っていない、少年期のあの一瞬こそが、自身の最重要期であったと
監督は認識したのです。

通常、映画監督の自伝的作品というのは
「俺は生まれたときからカメラを回していた」
「私は初めて映画を見た瞬間、映画に恋した」
てな感じの物になるはずです。なぜなら「映画監督の映画」であるのだから。客もそれを期待します。歴史に名を残した人間の、常人にはない特殊性を描くから自伝というものには価値があるのです。
ならば「世界最大のアニメーション映画監督」の自伝映画であるならば、鉛筆の一本でも握って、机にかじりついて動画を描いて然るべきではないのか?
しかしそうなっていない。(そうであったのなら、この映画はどれほど簡単で解釈のしがいのないものになっていたか・・・)
この映画を作る際、宮崎駿は自身を定義したのです。
自らを「世界最大のアニメ監督」ではなく
「世界最大の妄想家」であると。
そして描いたのです。自身の記憶をさかのぼり、妄想の源泉を特定し
「自らの妄想の出発点」
を映画にしたのです。

妄想の源泉

この映画の舞台は限定され、かなり特殊である
「戦中の日本でありながら、豪華な実家の屋敷住まい。食うに困らず学校にも行かず、山に林に池といった自然に囲まれている。周囲は地獄に向かって転げ落ちていく中、楽園のような場所で宮崎駿少年は過ごしていた」
冒頭に東京の派手なシーンと、中盤以降は異世界に行くが、実際の舞台はこの実家の恵まれた環境だけである。
現実の宮崎氏も学校にも行かず実家で本を読み、自然の中で遊びまくり、矢を自作したはず。

この映画を作ろうかと思っていた現在の宮崎監督は、椅子の上であぐらを組んで考えたでしょう
「俺を俺たらしめたのは、いつなのだろうか?」
「俺を宮崎駿にしたのは、なんなのか?」
過去へ過去へと遡っていき、ついに見つけた
「あの時か、」

学校にも行かず、本を読み、森に入り、地面を踏みしめ、木の陰に怯え、池の魚を取り、鳥を観察し、サギの姿を見た。
少年時代、あの場所で。
自然に囲まれ本を読み、自然に怯え本を読み、自然に挑んで本を読む。
そして妄想が始まった。
生活に心配はない。本を読みあさり、知識を得る。体は野山を駆け回る。
物語を読む。森の中に塔の姿を夢想する。物語が生まれてくる
主役は自分だ。
塔に入り、母を救う。
知識を入れれば入れるほど、妄想がはかどる。
父の仕事の兵器の姿を見ると、妄想はさらにはかどった。
塔は確実な姿を獲得し、内部に宇宙が広がった。鳥と少女が姿を表した
少年はそこに何度も訪れた。
あの時間あの場所で、妄想の源泉が開いた。
知識と実感が混ざり合い妄想が湧き立つ。
妄想が自分を産んだ。
妄想が宮崎駿を作り出した。
ならば、作る映画は決まっている。あの瞬間を描くのだ。
現実の扉を越えて、妄想の塔を登った、あの時の映画化だ。

セルフオマージュというビジョン

ここまで読んで「それってお前の解釈じゃね?」と思われたと思います。
まあそうなんでスけどね。
しかし映画で描かれている大時代的ストーリーが、まさに宮崎少年の妄想的ストーリーそのままであるということが、この解釈をオススメする理由でもあります。
さらにもう一つ、
セルフオマーーーーージュ
「宮崎駿はセルフオマージュなんてしないの」
心の中のM監督原理主義者がそう囁きませんか?
老い先短い老監督がセルフオマージュで小さい笑いと和やかな気分を獲得するためだけに尺を使うでしょうか?
そこに意味があると思いませんか?

塔の内部の小宇宙を巡る少年宮崎駿は、様々な場面に遭遇する。

それは、観客から見ればいつか見た光景、セルオマージュというものだ。
「老いたり宮崎駿、妄想の泉も枯渇したか」
と劇場でしたり顔のひとつふたつもしたい所ですが、それは未来人たる我々の視点だからセルフパロディーに見えるのです。
劇中の過去の宮崎少年から見たら、その意味は180度変わります。セルフパロディーは反転し
「未来のビジョン」
になります。
未来幻視であるビジョンを見た小宮崎。その心にはいくつもの妄想の原石が生まれます。
それは彼が将来に渡って描き出す世界の核となります。
少年時代の妄想は、一生ついてまわるのです。それを実現する、妄想を吐き出す事が作家の人生です。
小宮崎は現在の宮崎駿と作品の中で繋がり、ビジョンを共有するのです。
セルフオマージュに見えたものは、少年時代に見た未来の作品の幻視だったのです。

想像のタイムマシン、大宮崎と小宮崎

未来を幻視した小宮崎は塔の最上階で
「死に瀕した宮崎駿」である大宮崎と出会います
大宮崎は現在の宮崎駿のさらに未来の姿です。
彼は「すべてを作り終えた宮崎駿」妄想をすべて吐き出した老人。
対する小宮崎は「妄想を獲得したが、何も作っていない少年宮崎」
過去と未来の宮崎駿が、現在の宮崎駿の手によって相対する。
大宮崎はすべてを悟っていた。

「最善を尽くしたが完璧ではなかった。
他のすべての人よりも、自分はうまくできた。(変わってやると大言壮語をはいたインコ大王は無様であった)
だが、それもすべて消える。作品は必ず消える」

これは現在の宮崎駿監督の考えそのものであると思えます。
人生の結論を大宮崎駿の姿で表しているはず。
この作品は宮崎駿の誕生からその最後の姿まで描いている。
自伝作品をアニメで作るという、アニメ作家ならではの自在な表現です。

大宮崎は小宮崎に頼みます「失敗重ねの人生だったけど、いくつか正しいものを見つけたんだ、それだけを使ってもう一度、作品を作ってくれないか」
にべもなく断られます。正しいことをするためだけの人生ではないと少年も知っているからです。
そして一般大衆が
「なんでラピュタみたいなの作らないのー!」
と飛び込んできて、彼の世界は終わるのです。

妄想の巨人

塔から現実に帰還した小宮崎。
彼はその冒険の記憶を忘れます。
映画はそこで突然に終わる。東京に帰る、その一言だけを告げて終わってしまいます。エピローグもスタッフロールの楽しいイラストもなし。
誰もが思った、何の映画だよ?

少年は映画の最初と最後でどう変わった?
見た目は何も変わっていない。
じゃあ変わってないの?
そうじゃない。すでに別人だ
彼の内面、脳の奥は恐ろしいことになっている
妄想だ。妄想の源泉が開きっぱなしだ
汲めど尽くせぬ妄想が生まれている。
彼の脳内で「塔の中の小宇宙」が広がり続けている。
だがそれは誰にもわからない事だ
脳内は見えない。
「東京に帰った」
帰ってくるのだ、あの男が
妄想の巨人となった、宮崎駿が
彼はなんだ?
宮崎駿だ。
その妄想だけで世界を制覇する男だ。
妄想は吐き出さねばならない。
アニメーションだ
全てに形を与え、世界に解き放て!
吐き出しても吐き出しても尽きない。
妄想が止まらない。
戦車だ!戦闘機だ!少女だ!異世界だ!冒険もののけ魔術カオナシ羽の振動
胸の奥のビジョンの原石が輝き続ける、妄想は生まれ続ける
監督には世界が違って見えただろう
「なぜみんな妄想しない!」

椅子の上であぐらを組んで座る老人は考えていた
「俺が俺であるのはなぜなのか?」
「俺が俺にしかなれなかったのはなぜなのか?」
彼は過去にさかのぼり考える。
自分の自伝に相応しき、時と場所はどこなのか?
彼はそれを見つけ、映画にすることにした。



薔薇のつぼみ

「君たちはどう生きるか」というタイトルの意味は
監督本人が「俺を作った一冊です」とオススメしてるだけです。
ついでに問いかけっぽくて、受けそうだから選んだと思われます。


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