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人生を楽しむために〜ナナメの夕暮れ/若林 正恭

おりに触れて読み返す本がある。
それが古典だったり、重厚な本だったらカッコよいが、自分は本書もそのうちの一つ。淡々とウィットにとんだ文章が並ぶが、時々、考えさせられる一文にぶん殴られる。そんな作品。

誰かに〝みっともない〟と思われることが、怖くて仕方がないのである。
そうなると、自分が好きなことも、他人の目が気になっておもいっきり楽しむことができなくなってしまう。
それが行き着く先は「あれ?生きてて全然楽しくない」である。
他人への否定的な視線は、時間差で必ず自分に返ってきて、人生の楽しみを奪う。

エッセイの中の一文。

ふと、自分の子供の頃を思い返してみる。
子供の頃は親に怒られるまでゲームに熱中していた。やりすぎて、ゲーム機本体を隠されたりしたことも。
もう少し大きくなって、背表紙が切れるまで三国志を読み込んだ。
損得勘定なんてなく、ただただ、楽しい・面白いという感情に突き動かされてた感じ。

それが成長するにつれ、そして社会人になって、「他人にどう見られるか」という視点で物事を判断する事が増えた。
多少自覚しているが、自分は他人の目をモロに気にするタイプ。
振り返ってみると、ある時から、”自分の感情の赴くままに”行動・発言することがだいぶ少なくなった。

世間一般の不安を煽る空気に踊らされる部分もあってか、娯楽と勉強の二択になると、何となく後者を選んでしまう。
他人に真面目だと思われている像を崩したくない。もしかしたら、そんなやましい思いも数%あるかもしれない。

そのうち、娯楽に時間を費やすことがあたかも悪であるかのように感じてしまうようになる。
となると、世間を同様な価値観で眺めるようになってくる。ハロウィンで馬鹿騒ぎしている若者をなんとなく蔑んで見てしまったり、ゲームなりYouTubeで時間を浪費してる人たちのことも、くだらない事で浪費して…と、どこか下に見てしまう。
そんな悪しき習慣が身についてしまうと、それは自分にもブーメランのように跳ね返る。
何をするにも、「他人にどう見られるか」が脳裏をよぎり、何事にも没頭できなくなっていく。
勢い、脳の数パーセントを常に第三者視点に割いてしまい、何かに取り組んでも、雑念がわきやすくなる。さらに、自責の念が強い人だと、そんな集中できない自分を責めてしまう。
なんで集中出来ないんだ、なんで没頭できないんだ、と。

この負のスパイラルを断ち切るのに若林さんが提唱するのは、他人の見る目を強制すること。
他人が騒いでたり没頭したりする事を、フラットに見、なにが楽しくてそんなにのめり込めるのだろうか?と好奇心のメガネで見てみる。もしかしたら、毎回とは行かないまでも、数回に一回は何か気づきがあるかもしれないし、それよりも「他人を色眼鏡で見ない」という習慣は、いずれ自分自身も変なフィルターを通じてみないことにもつながる。

もしかしたら、ハロウィンで馬鹿騒ぎする側にいってしまうかもしれない。
昔の自分だったら、間違いなくそんな人物を蔑んでみて終わるだろう。
でも、今はそんな気持ちにちょっとした「羨ましさ」を覚えたりするのである。
(決して、逮捕されたりするくらい騒ぐことを推奨しているのではないことに注意)

他人の目線を気にしている人に「そんなに気にしなくていいよ。自分の意見が大事。」とそれっぽいことを言ったって何も変わらないだろう。
でも「馬鹿騒ぎしてる人を見た時に、少し立ち止まって”何が楽しいのだろう”というところに想いを巡らせてみませんか?」というアドバイスであれば、少しは有効な気がする。
こんなことを書きながら、自分も年齢を重ねてきたなぁ、説教くさくなったなぁと思う今日この頃。

稚拙な文章、最後までお読みいただいてありがとうございました。

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