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(本)知ろうとすること〜風評被害と平積み雑誌の上から2冊目を購入してしまう心理と

東日本大震災から12年以上が経過しました。
家族や知り合いを津波・地震で亡くしてしまった方、自分の財産が被害を受けたから、また、直接に被災した方々。
復旧・復興は進んでいますが、そう言った方々の心に残った爪痕はまだ消えていないケースが大半かと思います。
自分も含め、多くの人はあの出来事を忘れ去ることはないでしょうし、簡単に「辛いから忘れる」というのも何か違う気がします。

当時を振り返ってみますと、地震の揺れと津波による直接的な被害からの復旧・復興をより早く!としていた時期がちょっと落ち着いたタイミングで、福島県産
の農作物・海産物への風評被害もそれなりの数がメディアで取り上げていたように思います。

本書を読んでいて、頭をぶん殴られるような一節に出会いました。

本屋で週刊誌を買うときに、1番上にあるものじゃなくて、ついその下の2冊目の点取っちゃうじゃないですか。1番上が破れたり、折れたりしているならしょうがないけど、明らかにきれいな本が上にある時も、僕は2冊目をとってしまう。どうしてそういうことをするかなぁ、って自分でも思うけど、やっぱり2冊目を選んじゃう。これ、誰でも経験あると思うんですよ。
〜中略〜
だから、その非科学的のこともみんなの中に普通にある。でももしかしたらその2冊目の週刊誌を取ると言うような行動こそが、知らず知らずに風評被害にみたいなことにつながっているのかもしれない。

自分は、きちんと科学的データに基づいて判断している。福島県産の農作物・海産物ともに問題ないというデータが得られている。福島県産のものを避ける人たちが、きっと科学的な素養がないのだろう。メディアに踊らされてしまっている、偏った人たちなのだろう。
漠然とですが、そんな意識がありました。
自分は理系の大学院まで出て、科学的な判断をしている。そんな驕りもあったのかもしれません。

でも、この糸井重里さんの例。盲点でした。
自分でも、一番上の本を取ったところで問題ないことはわかってる。でも、なんとなく二番目を手に取ってしまう。後付けであれば、
「一番上のものは多くの人が立ち読みしていてヨレヨレ」
「なんとなく、汚そう」
「ホコリ被ったりしてそう」
とそれっぽい理由は挙げられるのかもしれませんが、多分、なんとなく、無意識的にやってしまっている部分が多いような気もします。

それを抽象化して、福島の事例に当てはめた場合。
別に福島県産が悪くないのはわかっている(一番上の雑誌)、でもなんとなく福島県産のものを避けてしまう(二番目の雑誌を手にとる)というのは同じ構造なのだ、と。
もし、そのなんとなくが福島県産を避けている理由であった場合、解決策は「正しいデータを提供する」ことではないのかもしれません。
データに問題ないことはわかっている。でも、なんとなく避けてしまう。

時間の経過とともに、福島県産のものを意識的に避けるという人は感覚的には減ってきているようななんとなくの雰囲気はありますし、データを見ても減少傾向だそう。

でも、あるべき姿は場所に関係なく、ですよね。

少なくとも、今の自分には解決策を明示できるだけの知識も経験もありません。
わかっているけど、なんとなく。
その壁を打開する素晴らしい策が出てくることを祈りつつ、国民としても、データを見て自分で判断するというリテラシーがあがり、適切な判断ができるようになる。
目指すべき地点は、情報の出し手、受け取り手両方が変わることかもしれませんね。

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