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ムーミンパパになれるか 会社を辞めて半年

 もうだいぶ前からになるが、「将来はムーミンパパのようにになりたい」と思ってきた。もともと、ムーミンは好きだし、ニョロニョロは大好きだった。でも、ありようとしてムーミンパパに憧れた。何故か。まず、ムーミンパパは出勤、通勤をしない。かといってダラダラと遊んでいるわけでもなく、読書家で、どうも物書きのようにも見える。そのうえ家族や周囲の人から尊敬も得ているらしい。いいなあ、と感じていた。もちろん、私には毎朝通勤電車にもまれて職場を往復している日々がずうっと続いていた。
 今春、会社を辞めた。
 普通にしていれば、あともう少しは続けられた気がするが、ある思いがあって辞めた。今までの会社や仕事が嫌いなのではなかったが、辞めようと考えていた時期からは1年遅れた。辞めたのも、遅れたのも、新型コロナウイルス禍のせいでもある。

見えてきたこと

 毎朝通勤電車に乗ることがなくなり、毎日がカジュアルウエアの暮らしとなった。それまでオフィスの中にいた時間に、あちこちの街を歩くと男女ともスーツを着ていない人がたくさん目に留まる。当りまえのことだけれど、そんなことが新鮮に感じられ、オフィスワーカーの常識というかルールとは違う人がたくさん生きていることが実感として理解できる。こんなことでも、実際に見ないと納得して入ってこない。バーチャルだけでは薄っぺらい理解になる虞は確かにあると感じる。
 変化といえば、住所録が変わった。まずはデータを整理して新調した。以前の住所録は会社を辞めた挨拶状を出すのに使って、最後にした。そして、それまではEXCELの表を相手の所属する会社や官庁、職業タイプでソートして見ていたのだが、新しいデータは原則として「あいうえお順」で見ている。つながりがフラットになった気がするし、事実この方が使いやすくなった。
 毎日の通勤がなくなったことによるマイナスは読書機会が減ったこと。いままでは本を読む時間は圧倒的に電車内だった。通勤電車は周囲に多数の人がいるも、自分は誰とのつながりもなくひとり。都会の不思議な時空なのだ。その静けさの中で本を読んでいたので、自由時間があってもなかなか本を読むことにならない。これは困った。それと運動量が減った。いつも万歩計を持っているのだが、通勤時代は単純に職場を往復するだけでも1日に8,000歩前後になっていた。それが春以降はせいぜい6,000歩くらいになってしまった。やはり、毎日通勤し働いているというのは身体を使っているのだ。

同じ街にも色々な暮らしと人がいる

決めたこと

 平日は毎朝出勤する妻と一緒に朝食をし、つまりそれは寝坊をして惰眠を貪らないということなのだが、その後はたいてい空の時間になる。そこで決めたこと(というほど大袈裟なことではないのだけれど)は、すぐ布団をあげて押入に仕舞うこと。食後はコーヒーをひとりで飲むこと。これは居眠りに向かわないためもある。まあ、ささやかなことだけれど、生活を整えるのにはいい。
 春からこのような生活に入って、天気予報が気になるようになった。それは、洗濯をするか否かを、午前中の早くに決めねばならないから。天気の良いときに洗濯物が乾くのは気持ちがいい。このときばかりは主夫になった気分。
 それから服装に気をつけている。特別にファッショナブルにしたい訳ではないのだけれど、リタイアして暇そうでダラシナイ雰囲気にはなりたくなかったし、何より清潔感というか小綺麗さは大切だ。ゆるーいトレーナ上下は止めようと前から心に誓っていた。それからカジュアルウエア生活が始まって気づいたことは、自分はどちらかというとニットものよりシャツ系が好きだということ。そして色はシャキッとしたもの。中途半端な濁った色からは逃げている(紳士服売場には意外にこれが多い気がする)。
 それからとても大事なのは会社を引きずらないこと。いままでの長い仕事生活で学んだこと、得たことはたくさんあるし、会社には感謝している。でも辞めたら会社員から個人になるのだ。会社員時代に目にした、元職場を引きずっている人の姿が美しくなかった。「元〇〇株式会社」とか「〇〇株式会社社友」などと記載した名刺を受け取るたびに、この人はいまの活動をおこなうのにそれと関係ない昔の組織の権威を利用していたり、そんなに自分に自信がないのかと感じたものだ。挙句の果ては、元会社の取引先に入り込む先兵のように使われている人もいた。昔の仕事は美しい想い出にしたり、何か恩返しするときに使えばいい。
 ところで、余談ながらコロナ禍の2年以上の期間は、それまでたくさんあった仕事上の宴席やパーティがほぼ全部消失したので、平日夜や週末は家庭にいた。コロナ前より妻と顔をあわせる時間が増え、「定年後生活」の予行演習になっていた。これは思わぬ効果。

しなかったこと

 それから半ば予想したことだったけれど、しなかったこともある。会社勤めが終わったら空いた時間を使って水彩画の教室に通いたい、旅行英語が衰えないように英語教室にも行きたい。そんなことを考えていた。でも、これは実現していない。ほら、高校で期末試験が終わったらあれしたいこれしたいと思っても、試験後には意外なほど実現しなかったのと同じ。忙しくても大事なことは実行するし、時間ができたらと思う程度のことはどのみちできないのだ。だから、会社仕事で忙しかった時でもやっていた、旅をすること、文章を書くこと、好きな香港に関する活動などは変わらず続けている。
 しなかったことのもうひとつは再就職だ。もう誰かが決めた仕組みの中で生きるのはしたくなかった。

することはたくさんあった

 実は、春までは仕事がそれなりに詰まっていてたし、悩ましいことはいくらでもあったので、その後のことを考える余裕はあまりなかった。でも辞めることだけは決まっていた。だから4月1日からの具体的な計画もビジョンもなかった。ただ幸いなことに、コロナ禍の期間にずうっと書き続けていた文章がまとまり、たまたま今春が最後のまとめの時期になった。それを本として出版する時期が迫ってきていたのだ。会社仕事をしながらも旅の本を書き続けていて、それは自分にとっては9冊目になる本だ。そのため出版社や校正者、校閲者、デザイナーとのやりとりや調整が山盛にするほどあったので、空白になるはずの辞任後の日々がそんな作業で埋まった。
 そして2か月が経ち、本が出版になった。それまでと違って、初めて香港ものでない、旅のエッセイだ。世界中日本中の旅や地理、歴史、ことば、地図や時刻表などの旅の具、飛行機や船、旅人などに関する本を取り上げて、本から旅への想いを描いてゆく、かといえば旅の空にあってかつて読んだ本の一節を思い出す。本に本が入れ子になったような構成にした。そして、これも初めてなのだが、写真や図版のない文章だけの本にした。タイトルは『旅のことばを読む』となった。

たくさんの本から旅への想いを描いたり、旅の空にあって本の一節を思い出す

 出版時期が近づくと、次は販売促進だ。小さな出版社から出すこともあるし、自分の気持ちもあって著者も販促を行う。SNSの記事をアップしたり、本の紹介資料をeメールや紙で郵送したり、書店へ送付したりとたくさん作業があった。ときには書店に出向いて自己紹介をしながら自著を置いてくれるよう依頼をもする。何回かに1回、置いてくださる書店さんに出会う。これは嬉しい。幸い出版社が驚くほど、初回の注文が入ったようでひと安堵した。本が出ると同時に場所を借りて出版記念フェアを開いた。すると、友人知人やかつて同じ職場で一緒だった人が会場に来てくれた。それぞれ忙しい時間を割いて来場し、そのうえ本を買ってくださった。これはとてもとても嬉しかった。POPを作ったり、WEBページを書いたりして1冊でも多く売れるように、考えたことはみな実行した。こうして会社を離れたあとの3か月は慌ただしく過ぎていった。

新しいこと

 さあ、本も出てしまったし初期の販促はやり尽くしてしまったし、暇になるかなあと思っていたら、縁あってWEBサイトへの連載記事を書く仕事が飛び込んできた。何か新しいことに出会うと、まずは「いいですね、それ」と考えるようにしてきたこともあり、事実よい話だったのでお受けした。7月から開始という絶妙なスケジュールだ。6月の出版後から休む間もなく、書く仕事が再び始まったのだ。縁って不思議なものだ。
 この仕事は海外旅行のノウハウやスキルを書いてゆくものだ。ジョルダンニュースというサイト内の観光記事の一環。タイトルは『10倍堪能!海外旅行の超スキル』と決まった。記事は隔週で出す約束。2週間インターバルなら余裕と考えやすいのだが、それは間違い。1本アップロードが済んでホッとしている間もなく、次のアイデアを考えて数日後に書き上げて推敲を重ねる。1週間くらい前には原稿と写真を提出し、WEBサイト側の校閲が入る。校閲で原稿が往き来しあっという間に2週間が経ってしまうのだ。これは以前、読売新聞に香港のコラムを書いていたときに感じていたことなので、受けた以上はきちんと期日を守ろうと決意して始めた。幸い7月8日の初回以来このペースを守っている。第1回から10回目までのタイトルは次のようになっている。
 「コロナ禍空白で鈍った勘
 「初めての街で市内周遊
 「トランジットは小さな空港で
 「日本のパスポートは世界一
 「俗世から逃れるのが旅だが、電気は使う
 「ピンポイントで現地ツアーを
 「帰国前日にすること
 「1回1冊、旅ノートの勧め
 「保険はホケン
 「気になる両替レート
 この連載は第10回目の「気になる両替レート」をクリックしてもらえると、第10回目の記事があり、その最後に各回へのリンクが張ってある。もちろん、これ以降も隔週で書き続けている。

推敲は何回もおこなう

 ところで、隔週の厳しさのところで推敲と書いたが、これは何回もおこなう。最初は書きたいことをどんどん書いてしまう。そうすると「書き手自己満足、読み手不在」な原稿ができあがる。それを今度は自分が読者になって読むと、分からない・分かりにくい、論理のジャンプ・途切れ、論理矛盾、本題から逸れた余計なことがら、文字のミスなどが見えてくる。だいたい、最初の推敲で文字の分量は2~3割減る。その後は徹底的に分かりやすさを求めて推敲する。それでも、校閲者から盲点を突かれたような指摘が入る。毎度それに感心しながら修正して完成原稿に向かう。
 自著『旅のことばを読む』の仕上げのときに、プロフィールを書くために旅行回数を数えてみた。海外渡航は122回だった。自分ではなんとなくそんなものかなと感じたくらいだったが、この122回は意外なほどインパクトがあった。プロフィールや本の紹介資料に記載されたし、対面で書店さんや流通の方に本の紹介をしているときにアピールポイントになった。122回のうち、香港が三分の二くらい、また仕事での出張は25回だった。会社勤めしながらよく旅をしたものだと思う。そして、そのほぼすべてがパッケージツアーでなく、個人旅行だった。そのため、小さなドキドキやミスはたくさん。旅のスキルを磨かざるを得ず、結果としてこの連載にとても役に立っている。いまは自分を磨きながら約束のペースを守って書き続けようと考えている。
 こうして幸運なことに会社を辞めた年に、新著を出すこととWEBで連載を持つことになった。少し前から「旅行作家」と名乗るようにしてきたのだが、少しその内実ができたみたいで嬉しい。考えようによっては、ムーミンパパ状態にちょっと近づいたのかもしれない。まあ、周囲から尊敬されているという点はまだまだではあるけれど。

本と本屋

 実は2020年9月に小さな種を蒔いた。東京の下北沢にある棚貸し書店にひと枠の棚を借りたのだ。幅約45センチ、1段だけだから置ける本の数は僅かだ。そこはBookshop Travellerというところで、運営者の和氣正幸さんは日本中の小さくも素敵な本屋さんを訪問し紹介している人だった。たまたまこの書店を知って休日にお店を訪ね、簡単な「面接」を受けて出店が決まった。世界を知る、旅の本を集める、多くの街を訪ねる、という気持ちを込めて「街々書林」と名付けた。これはとても良い出会いだった。書店を広く深く知っている方のところに小さいとはいえ店を持てたのだ。夕方や週末に訪れて色々なお話を伺ったり、ときには店番をしている。

旅の「ひと箱書店」街々書林

 ところで、突然本屋が出てきてしまったが、ぼんやりとだが書店主になりたいという想いが以前からあった。書店で背表紙を眺めていると、自分の知らない世界があるのだと思い知る。いい歳の大人になっても、何回でもそう思う。そういえば高校生のころ、市の図書館でペルシャ語や社会主義の本を見て、大人になったらこんなことが理解できるのだろうか、と夢想していた。それから長い月日が経ち、気がつくと旅が好きな大人になっていた。ペルシャ語はできず、現実の社会主義には裏切られた気分もある。でも旅をし続けていた。あるとき、たまたまなのだが青山一丁目で旅の本屋に出会った。それほど大きくなく、ぎゅう詰めになった棚はなく、したがって本はゆったり並んでいた。そして何よりも驚いたのは、どこかに行きたいとき、どこかを調べたいとき、その少ない本の中に自分の希望にぴったりの本、役に立つ本が見つかるのだ。今では「選書の良い書店」、というような表現と概念を知っているが、そのころはただただ驚き感心していた。しばらくしてその書店が閉店した。入居していた建物の建替えのようだった。
 その空白は痛かった。どこかに行きたいと思ったとき、良い本を探すのが大変になった。巨大書店には本はたくさんある。でも、探し出すのは大変なのだ。あの本屋のすごさが、なくなってから強く感じられた。
 無いなら自分で作ればいい。
 ふわっと、そんな想いが心をよぎるようになった。そんな思いもあってBookshop Travellerに出店した小さな棚の「本屋」で何ができるか、お客さまの反応はどうか、実際の商いはどうなっているのか、そんなことを試している。棚貸しだからスペースの費用はかかる。本を仕入れると売れようが売れまいが仕入代金が出てゆく。こんな小さな棚でも黒字にするのはとても大変だった。いまは、少し積極的に新刊書を仕入れたり、イベントに出店したりして、通年でギリギリ収支トントンになるかどうかというところ。棚を借りている人のなかには、自著を売るためだったり、PR効果を主にしたりで、収支を気にしない人も多い。それはそれでいいのだが、自分は本屋トライアルなので、収支も追求している。ただ、やってみて分かったのは、色々な想いがありつつ、本や本屋が好きな人たちと交流が生まれ、それぞれの意見や経験を聞くことができる。これはやってみて分かったこと。そしてもっと大切なことは、いまの若い人にも素晴らしい人がたくさんいること、を知ったことだ。
 中学校くらいまではクラスは地域の集まりで色々な生徒とごっちゃ煮で生きてきて、高校以降は学力などで似た人が集まる集団で暮らし始め、会社員になるとこれまたある程度同質な集団となる。ここで、人を見る目が曇るというか惑わされるのだ。なんとなく安心な同質感とでもいうのだろうか。しかし、世の中は中学生までのごっちゃ煮が実態。会社を離れて「ぽつんとひとり」ではなく、新しい出会いがあると、同質でない人々と交流が生まれる。そんなななかで、「今どきの若いモンは」などという老人思考にならずに済みそうな、そんな体験をしている。
 とはいえ、毎日の暮らしにルーティンはなくなった。会社仕事から離れて半年が経ち、「何も用が無い」時間が増えた。これはいけない。

ムーミンパパは家にいるだけではなかった

 最初の半年はすることがたくさんあった。それでも、自由になる時間がぐっと増えたので旅をかなりした。長野善光寺、奈良、上高地、美作津山・鳥取、網走・大雪山、奈良・南紀、鬼怒川・会津只見線、とずいぶんあちこち旅をした。ただ、半年も過ぎてくると、空きの日や時間が増えたように感じられる。相変わらず、観光関係、旅行作家や香港関係の団体の用事は多い。細かく煩瑣な調整や準備も要る。でも、これらは週に5日出勤していた現役時代でもこなしていたのだ。空白の時間を楽しんでいるのか、それとも空費しているのか、ちょっと悩ましい。憧れだったムーミンパパの暮らしは自分には向いていないのかもしれない。そういえば、リゾートに行って何もせずゆっくりしたり、読書したりという旅は全く不得意だった。
 数年前に1冊のノートを買った。最初のページに「これからの30年」と書いた。人生100年時代らしいけれど、もしかすると90年近く生きるかもしれない。そうすると、まだ30年近くある。最初の30年は子供から大人になって夢中で時間が過ぎた。次の30年は仕事がある程度安心してできて、それなりに地位も得た。そうすると次の最後の30年をどうしようか、という想いからそんな言葉を書いてノートを始めた。月日はダラダラ使ってしまうと、簡単に過ぎる。まあそれはそれでいいという考えもあるだろうけれど、自分はちょっと違うな、と感じている。せっかく生きているのだから少しはアクティブというか積極的な生活時間を作ってもいたい。同時に、誰か余所の人が作った仕組みや組織に入るのは、もういい、したくない。いい歳なのだから、楽しく自分の好きなことをしてもいいと思う。試行中の小さなひと箱書店から、1軒の本屋を作ってもいいかなあと感じている。こうして考えたり試みたりして一歩ずつ前進しているのかもしれない。もしかすると気持ちの良い「遊び場」を作ることにつながるかもしれない。
 ムーミンパパは家にいる、それだけだと辛いなあと感じ始めていた。ただ、ムーミンパパはときどき周囲の人たちの心配を顧みず冒険に出ていた、そのことを想い出した。小舟で海に漕ぎ出し、ニョロニョロたちの生態を垣間見て感動していたではないか。むしろムーミンパパのそういう面もいいなあ、と思うようになった。やはりあちこち動き回り、話したり、驚いたり、感心したりしているのがいいかもしれない。

自由に使える時間が増え、旅がしやすくなった


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