人は何も信じずに生きられるのか?    ~宗教云々についての考察~

1.宗教に揺れた2022

 「2022年、何が起きましたか?」と言われたとき、始めの方に出てくるのが、宗教関連の問題である。安倍晋三元首相の銃殺事件を皮切りに、旧統一教会と政治との関連が数多く指摘されるようになった。
 これまでも、こうした宗教と政治の関連性は、インターネットなどで噂されていた。しかし、こうして表立ったのはほとんど初めてに近かったため、これほどまで話題となったのだろう。
 また、この問題が話題に上がると、合わせてオウム真理教の事件について触れる機会も増えた。(「真理党」の存在もあるだろうが)
 私自身はこの事件時、まだ生まれてもいない。そのため、当時の状況を想像することしかできない。しかし、幸福の科学、オウム真理教を始めとする「新新宗教ブーム」以前と以後で、日本社会の中での宗教、特に新興宗教に対する評価は変化したように思われる。つまり、「何か変なことをやっている面白い存在」から、「何をしでかすか分からない怪しい存在」への変化である。
 また、(実際にどうかは別として)日本社会はあまり宗教を信仰するという意識が薄い、とよく言われる。多くの人々が初詣や、クリスマスなどの行事を行う一方で、「自分は無宗教である」と当たり前のように発言する人が多くいる。(欧米では、そのようなことはあまりないらしい)そのような人々にとっては、宗教自体が日常生活で身近ではない。それでは、何か分からない危ないものだと感じるのも無理はない。
 以上のように新興宗教は、日本社会から異常な存在として考えられていることが2022年で改めて感じられることだろう。

2.無宗教は何も信仰していないか

 ではこうした新興宗教は、本当に異常な存在なのだろうか。異常な存在とは、日本社会から疎外されている。「普通の人々」とは普段全く関わることがない。そのように捉えられる。
 こうした疑問を考えるためには、信仰について考える必要がある。信仰は、宗教にとって成立の土台となる重要な要素である。「自分は無宗教である」と「普通の人々」が言う時、信仰対象がないことが根拠となっている。  
 初詣もクリスマスも慣例で行っているのであり、そこに信仰の対象はいない。そのため、宗教行事を行っていても「無宗教」なのである。
 しかし、そうした無宗教の人々にも信仰しているものはある。しかもそれは、1つどころではない。
 その代表的なものとして挙げられるのは、「科学」だろう。近代以降科学は、宗教に取って代わるようにして社会を形づくるようになった。科学は、数多くの文明を作り上げた。日本社会においてもその存在を意識しないどころか、宗教の反対の存在のようにして語られることも多い。
 しかし今の私たちの思考は、明らかに科学をもとにしている。再現可能性があるか、論理性があるかなどは、科学という枠組みが無ければ必要のない要素である。企業活動においても、多くの科学的な要素が組み込まれている。(これはいわゆる自動車の製造に使用される「科学技術」などには限定されない。例えば、経営戦略を考える際にも経営学を参考にすることがある。これは、科学の枠組みから考えだされている)
 以上のような事象は、少なくとも日本社会に住む人々にとって、科学というものを、信仰していることにほかならない。一部の現代思想の中では、「非哲学」を始めとする科学自体の捉え直しがなされている。しかし、「普通の人々」にとっては、科学自体が間違っているかもしれないという意識はあまりないだろう。それは、科学を信仰していることに他ならない。
 信仰の事例としては、「資本主義」も挙げることが出来る。日本社会は、純粋ではないにしても「資本主義」を採用している。そのため、「欲しいもののために仕事を頑張る」ことが当たり前となっている。
 この資本主義も、1つのイデオロギーでしかない。しかし日本社会では、これがあたかも最適解であるかのように考えられている。
 ヴァルター・ベンヤミンの「宗教としての資本主義」や、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の精神」などのように、日本に限らず資本主義は、宗教のように大きな影響力を持っている。つまり、「普通の人々」は、資本主義も信仰していると言える。
 以上「科学」と「資本主義」を事例として、「無宗教」の人々が本当に何も信仰していないのか、という問いについて考えてみた。
 「科学」と「資本主義」それ自体の是非については、今回の主題ではないので問うことはない。しかし、この2つに対して信仰しているのか、それともいないのか、と問われれば間違いなく「信仰している」と言えるだろう。

3.新興宗教問題についての考察

 ここまで、日本社会における新興宗教に対する認識と、「無宗教」と自称する人々が、宗教の重要な要素の1つである信仰をしているかどうかについて考えてきた。
 では、これらを踏まえて新興宗教の問題についてどのように考えれば良いか、専門家でもないが私見を述べたいと思う。
 新興宗教に関する問題の1番課題となっている部分は、「その団体に属している人々が、どういった考えなのかが分からない」という点だと感じる。なぜそこまで信仰しているのかが分からなければ、そこから解決に向かうことはない。
 しかし、今の日本社会では新興宗教の信者であると言えば、「なにやら怪しい人物である」という判断をされてしまう。宗教2世の問題の原因の1つにも、この「怪しさ」がある。
 しかし、信仰することそれ自体は、「普通の人々」でも当たり前のように行っている。そう考えれば、全く分からない状態から少しは自分に近づけて考えることが出来るのではないか。信者と全く同じ考えになれることはない。ただ、そこに少しでも近づければ、本質的な解決への糸口になるのではないだろうか。
 何か分からないとにかく近づかない方がいい存在から、自分と同じ人間であり、自分もそのようになる可能性を秘めている。宗教関連に関わる人々をそのように捉えることで、問題を解決できるのではないかと期待している。


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