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心が揺さぶられるもの



俳句や文章、写真、絵、音楽等に触れた時に自分の内側で火が灯ったように心が揺さぶられる場合とそうでない場合がある。
もちろん、人それぞれに好みというものがあり、またそのときの自分の内側に作品と響き合う要素があるか等の点にも左右されるかと思う。

私は長年、写真嫌い、カメラ嫌いだった。
吟行で写真担当となると味わうことより写真を撮らなければという責任が強くなり、花や風景を味わうことができなくなる。
五感で感じることと写真撮影を同時にできない不器用さや過剰に責任を感じてしまう月乙女が出ていたと思う。

昨年からブログをはじめてその内容と俳句と合わせて写真を載せるようになってから少しづつ写真にも興味が深まった。
ポートレート機能のないi-phoneの古いバージョンにマクロレンズをつけたりして、ほぼ毎日、日記風にInstagramに写真と俳句をアップしている。
写真をアップして限られた時間で俳句を添えるということはとても緊張感があり、自分では意図しない俳句ができたりもする。

私の写真のスタイルも牡牛座的、山羊座的な身近な暮らしのスナップ写真で暮らしの一部を切る抜き、そこに新たな発見や豊かさを味わったりと、とても俳句と共通する。

最近、「新スナップ写真の方法」丹野清志氏の本のあとがきに触れてとても共感した。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0894444
小さなことに気付くかどうか。それを発見とも言いますが、写真を撮るという行為で気付くことから表現が生まれます。個性があらわれます。気付いたことをていねいに写しとっていくこと、それが写真です。

この言葉は俳句とも見事に一致する。俳句もいかにも美しくまとまりすぎたものや説明的なものは、予定調和的で面白味がなく、類想感がうまれがちで、そこから生まれるものは少ない。
真正面からただ撮るよりも少し外したり、角度をつけたりすることで動きが生まれ、読み手が入る余白もできたりする。

また、高級カメラでなくともコンパクトデジタルカメラという制約された中で自分の足で動きながら構図を切り取り、シャッターを押す。そして良い写真の定義、定番から外れることで他人からの評価ではなく自分自身が納得する一枚を撮るという行為は、まさに月星座に影響されず、太陽で被写体と向き合うということにつながると感じた。

俳句も写真もそうであるが、その世界での重鎮の審査者の目にかなう作品であることが要求され、その要求を満たすような作品をついつい追い求める在り方では月星座が働きやすく他者の評価にウエイトがあり、自分自身らしさを表現するというところからは離れていく。

自分の内側で感じたことをただありのままに気取らずに表現することで、その作品の中には普遍的な要素が生まれていくのではと感じる。
普遍的な要素は太陽星座そのものの輝きともいえるのではないだろうか。
他者からどう見られようとただ内側からの衝動で表現していく姿は、真実であり、そこには美しさと全体性を含んでいるように思う。

ちょうどこのブログを書いている際の夜のマドモアゼル愛先生の動画は、以前にも何度か伺った森田療法の話。その中で、内向的、外向的という部分がとても腹に落ちるものがあり、俳句や写真にも重なるものがあった。

子どもの場合は、絶えず目の前のことに意識が向く(外向的)が大人になり神経症で悩む人においては自分しか意識が向かない(内向的)となり、天気の変化や目の前の食事を感じることから離れていく。
俳句においては正岡子規をはじめ、多くの俳人が闘病生活の中、俳句を通して自分の外に意識を向け、内向的に偏ることなく精神の安定をはかってきたように思う。それは私自身、50代過ぎの仕事での負担が大きく、家族とも離れて暮らしていた時期は、本当に俳句によって正気を保てたと思う。
今は、仕事の責任や量が大きく減り、その分、自分のために時間を使えるようになったが、この外向的に意識を働かすということは神経症になりやすい方においてはとても大切な視点だと改めて感じさせられた。

https://www.youtube.com/watch?v=4bhhddxXeEk



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玉葱や哀しきほどに透きとほり



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