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生きながらえる術

鷲田清一氏の「生きながらえる術」を読んだ。
いつもながら図書館の書架を手探りで時間かけて歩きまわる中での本との出会い。

鷲田清一氏の本は哲学的な考察においては難解な部分を感じるが、マドモアゼル愛先生と同様、これからの時代は上下関係からではなく、水瓶座的に横のつながりの中で生まれていくものを大切にされている。
と同時に積極的に現場に足を運び、そこで感じられた生の感覚をもとに考察されているのでとても説得力がある。

本書はかたちのレビューという鷲田氏の美的なこだわりの視点を通して日本のものづくり、技術の伝承に関して考察されている。
その後には、<生存>の技術、<始まり>に還える芸術、<探求>という仕事と3つの章に分かれていくが、私が既に出会ってnoteでも紹介させていただいた方がずらりと並んでいる。



先ずは精神科医の中井久夫氏の言葉の引用
2年前の次男の発病を通して、中井久夫氏の著書を読んだが、とても精神科医とは思えない柔軟な発想、患者への温かいまなざしに私も惹かれた。

日本では「無名の人が偉いのだ」。そこに「勤勉」と並び根づいているのは「工夫」で、それこそ「既存のものをあまり目立って変えないようにし、外見は些細に見える変更の積み重ねによって重大な障碍を迂回し、精力の浪費なくして、中程度の目的を達すること」だと

鷲田清一氏 生きながらえる術より引用


レヴィ=ストロースのブリコラージュについての考察
私も最近、ブリコラージュに関して投稿したばかりで、辻仁成氏の料理の考え方とも重なる。
ありあわせのものでという発想は、質素にというイメージというよりも、そのときそのときの季節、場所、体調に合わせてつくりという柔軟性、直観的な独創性を強く感じる。
私の日常の料理もまさにブリコラージュ的で、レシピは見ず、調味料も目分量で、自分の舌と目で仕上げる。
家内は本当に美味しくつくるにはやはりレシピ通りに作らないとやや冷ややかに見られてはいるが

《ブリコラージュ》とは、「ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る」こと。いってみればレシピに従って材料を買い揃え、調理するのではなく、とりあえず冷蔵庫にある材料でなんとか工夫してお惣菜を作るようなもの。

鷲田清一氏 生きながらえる術より引用



河合隼雄氏の「カウンセリングの実際」を通しての考察

河合隼雄氏の本はかなり読み込んだ。神話や物語に普遍的な要素が含まれており、ひとりひとりの人生またその人だけの物語として受け止めていけるよう働きかけてこられた。
河合隼雄氏の本を読んで、私も夢日記をはじめた。

カウンセリングの一つの本質はこの、《時間をあげる》というところにあるのではないかと、わたしは読みながらおもった。ここでは自分の関心で動いてはならないのだ、と。エンドレス。「潮時」や「塩梅」、「ある程度」、臨機応変、偶然のはからい・・・といった、まさにマニュアル化に抗うものをこそ、この本のなかで河合さんは伝えようとしたのだとおもう。

鷲田清一氏 生きながらえる術より引用


竹内敏晴『「出会う」ことと「生きる」こと』
私も30代で野口体操を通して身体と他者との関係性のレッスンに通っていた時期があった。自分の身体の重心がしっかりと大地に降りていく感覚を意識していくことで、身体の余分な軋轢が解かれていく感じ。

竹内氏にはお会いしたことはないが、若いころ、失語に苦しみ、その苦しさの中でようやく言葉が劈かれたという経験をもたれており、私のもまた若い時期に話すことに苦しんだので、竹内氏の言われておられるニュアンスはとても響いてくる。

声が出ないのはその人のからだが、存在が、閉じているからだと考え、治す/治さないは度外視して、声を出すことそのものが心地よいというところまでまずはからだを劈かいていこうとした。(中略)
竹内さんがレッスンのなかで眼を凝らしてさぐるのは、だから、からだがどう歪んでいるか、偏っているか、固まっているかということだ。竹内さんはそのために、まずは、言葉が生まれるいわばゼロ地点まで遡ってゆく。

鷲田清一氏 生きながらえる術より引用





書架まはるぐるりぐるりとみどりの夜

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