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藤原道長の「年収」はいくら?頂点を極めた豪遊平安貴族の給料事情

平安時代における最高権力者である藤原道長。

彼は多くの人々から尊敬され、その政治力は非常に強大であったことは事実です。

しかし、彼の年収について、あまり知られていないことも事実です。
今回の記事では、平安時代における藤原道長がどのように権力を握り、国政を支配したのかについて、詳細に解説します。

さらに、彼の年収についての情報を収集し、その額について検証します。

彼がどれだけの富を持っていたのか、そしてその富の源泉には何があったのか、興味深い事実があなたを待っています。

「この世をば わが世と思ふ 望月の 欠けたることも なしと 思へば」

藤原 道長(ふじわら の みちなが、康保3年〈966年〉- 万寿4年12月4日〈1028年1月3日〉)は、平安時代中期の公卿であります。

道長は、藤原北家の生まれであり、摂政、関白、太政大臣、そして藤原兼家の四男、もしくは五男でした。



さらに、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の外祖父でもあります。

一時期は、有力なお兄さんである道隆と道兼に比べ、目立たない存在でした。

しかし、関白となった道隆が糖尿病と伝染病によって相次いで亡くなった後、政争に勝利し、左大臣として影響力を持つようになります。

また、彰子を入内させ、後の中宮としたことで、権力を確立し、三条天皇の退位に関わるなど、政治に大きく関与していくようになります。

さらに道長は、後継体制を確立するため、嫡子の頼通に摂政を譲渡。

そして、威子を中宮とし、後朱雀天皇に入侍させるなど、一家立三后と称えられる歴史的業績を残していくのです。

後年には、法成寺の壮大な建設にも取り組み、その功績は認められています。

藤原道長には、『光源氏(源氏物語の主人公)のモデル説』『紫式部の愛人説』がある。

税金のかからない荘園収入で年収数100億


平安時代の日本において、道長は父親が創設した藤原氏の最高位で、実質的な政治家でした。

『小野篁の手紙』でも有名になった彼は、10年以上に渡って摂関政治を支配し、その間に従一位に叙されました。

彼の官職としての給与は、現在の日本円で3億7455万円から5億円と推定され、荘園からの収入も加算されれば、その年収は数百億円にもなったとされています。

60億円の土地でクジャクを放し飼い

現在の土御門殿

彼が所有した邸宅は広大で、人々は「土御門殿」と呼んでいました。

この邸宅は2880平米もの広大な敷地を占め、現在の価値で約60億円もする土地代がかかっていたといわれています。

建物自体も非常に立派で、その建設には約100億円もかかったとされています。

土御門殿(つちみかどどの)は、平安時代平安京左京1条4坊16町(後に同15町にも拡張)(土御門大路京極大路西)に建てられた寝殿造の邸宅。邸宅の名は上東門に至る土御門大路に面していることに由来し、土御門院京極殿(院)上東門殿(院)等とも呼ばれた。現在の京都市上京区京都御苑(京都大宮御所北側部分)にあたる。藤原道長の主要な邸宅で、道長の姉である東三条院詮子や、娘の藤原彰子の御所となり、特に彰子は出家後、この邸宅にちなんで上東門院を院号とした。また東には法成寺が建立された。

その大邸宅は、一度失火して消失するものの、なんの苦もなく再建されました。とにかく、お金が有り余っていたということなのでしょうか。

道長は趣味の一つとして中国(北宋朝)から届いたクジャクを飼育しており、広大な敷地には鳥を放して楽しんでいたそうです。



朝廷関係者や日本中の有力者を集めて、得意の絶頂だったとか。

また、大金持ちであった道長は「この世はわが世」と言い放っていたといわれています。

「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」

というふうに解されている。

彼の生活は、いかに豊かで余裕があり、多くの人々からの羨望を集めていたことがうかがえます。

参考文献 「偉人の年収」 堀江宏樹 イースト新書


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