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こんな歴史上の人物、実在したの?超人チート皇帝。光武帝劉秀とは?

超人チート皇帝 後漢光武帝劉秀とは?

光武帝(劉秀、字は文叔。後漢王朝の初代皇帝。紀元前5年1月15日生まれ、西暦57年3月29日没。皇帝在位は西暦25-57)

・100万人の王莽軍を3000人で全滅させる。これが有名な昆陽の戦い(西暦23年7月7日)。戦力差最悪勝利の世界記録。

・10万人王莽軍の包囲を夜陰に乗じて13騎で突破、一騎も失わず、戦史上の奇跡とされる。

・激戦を繰り広げた敵、銅馬軍の中に武装を解いて一人で入り、30万人を味方にして連れて帰る。推心置腹の故事成語となった。

・武勇抜群の勇将であり、皇帝となって十数万の大軍を率いてもなお自ら敵中に斬り込み、従軍していた外国の使者が驚愕「人間にはとうてい敵対不可能な武勇」と報告する。

・将軍として直接指揮して打ち破った敵軍の延べ人数は実数で200万~500万人で、世界記録。
・将軍として直接指揮して降伏させた敵軍の総数は実数で100万人以上で、世界記録。

・この時代の最大兵力の王邑、最強の猛将鄧奉、最高の知将董憲、すべて光武帝自ら敵陣に斬り込んで壊滅させた。大事なところはすべて光武帝の見せ場。

・中国史上初めて、大規模な騎馬突撃戦法を採用し、戦場を一変させる。

・大規模な徴兵による短期決戦の時代に、職業兵士による持久戦を展開し、兵法の常識が崩壊。

・兵法書を読んで、机上の空論だとして投げ捨てた。

・部下の二十八人の将軍は天の星座、二十八星宿の生まれ変わりと信じられていた。水滸伝の原作。

・二十八将の多くは故郷、家族、官職などすべてを投げ打って光武帝の元に吸い寄せられるように合流した。

・天下統一後も家臣の粛清を一切せず、生涯仲良し。

・天下統一後は戦争を止め、武の文字の理想(武=戈+止、武器を止めるの意味)を実現した唯一の英雄と称えられる。

・光武帝に従った兵士たちは光武帝を天から送られた将軍だと信じていた。

・身長169cmは出土戸籍木簡から計算した漢の成人男性の平均身長ぴったり。

・目鼻立ちのくっきりとした美男子として知られる。妻は有名な美女陰麗華。

・陰麗華と黄河を挟んで離ればなれになり、七夕物語状態に。後に陰麗華が死去すると織女(ベガ)に巨大な流星が流れた。

・光武帝が生まれると70日間も輝く彗星が牽牛(アルタイル)のそばに現れた。これが間違って西洋では救世主イエスの誕生を知らせるベツレヘムの星となった。

・牛を使って農業し、牛に乗って出陣し、牛で牽く戦車で匈奴を攻め、牛による農耕を全国に広めたため、泰山封禅の儀式には神牛が現れて祝福した。出身地南陽は牛の有名な産地となり、現代中国語で"牛"はクールで強いという形容詞となった。

・お忍びで宮殿を抜け出して発覚すること記録上四回。そのたび謝り相手を褒めるが、懲りずに繰り返す。

・漢王朝建国228年目に、28歳で挙兵し、28人の勇士と後漢を建国した。28が大好き。 

・家臣からの皇帝即位要求を2年間で8回も拒絶。9回目にやっと即位する。

・若い頃、当時の大臣劉歆が偽造した皇帝即位の予言書を見て、「これって僕のことじゃん!」とボケてみせて一座は大爆笑に。

・ジョークが大好きで家臣をからかって面白がっていたが、妻の陰麗華に「あんたのジョークは面白くない」と怒られてしまいショボーン。 

・正月に、お題をめぐって解釈を競い、勝者が相手の座席を奪って積み上げて座る、知恵を競うゲームを開催した。日本の笑点より1900年以上早い。

・徹底した平等主義者で、13歳の少年の意見を政治に採用し、70歳の老人を王朝の最高位につけ、奴婢出身の人間を皇太子の教育係とした。

・将軍が功績を立てたり、宰相の優れた働きぶりを見るとしばしばその妻や母を賞賛し、賞与を与えた。二千年前に既に女性のシャドウ・ワークを理解していた。

・気さくな人柄であり、通りすがりの老人に暴君呼ばわりされ、小役人にケチと言われ、家臣になるように頼んだ人物に断られたり無視されても、すべて笑ってOKとしていた。

・倹約家で、宮廷の調度品などは敵国公孫述を滅ぼして奪ったものをリサイクル。

・役人の数を十分の一に減らし、徴兵制度を廃止し、塩、鉄の専売を中止し、民業を妨げるものをすべてなくした。

・災害時に政府から医師を民間に派遣する制度を制定。

・自活して生活できないものに一年分の穀物を支給する生活保障制度を制定。

・皇帝即位のとき1514種の神様を祀ったが、これがそのまま道教の祭祀の方式になった。

・仏教公式伝来の10年以上前に、苦、縁起、三昧、菩薩などの仏教思想を体得していた。

・最初の皇后郭聖通が異常行動を見せたため廃后するも、その死まで面倒を見続けた。この話は詳しく読むと泣けるレベル。

・25歳まで首都の大学で学んだ学識者であり、戦場でも書籍を手放さず、皇帝として即位後も夜遅くまで本を読み、ついに本の読み過ぎで倒れてしまうほどの読書狂。

・口にする言葉はすべて名言となり、故事成語を大量に残す。楽此不疲、得隴望蜀、有志竟成、疾風勁草、置之度外、差強人意、敝帚自珍、北道主人、厳陣以待、庸中佼佼、鼓旗相當、披荊斬棘、日復一日、舉足輕重、落落難合、失之东隅收之桑榆など。

・職業経験が豊富で、農民、商人、侠客、学生、役人、将軍、皇帝とあらゆる役職をこなしすべて成功する。

・若い頃は遊侠の徒と付き合いがあり、悪徳役人などを知り尽くし、侠客として逃亡者を助けたりしていたが、郷里や親族の前では慎重にふるまって隠していた。そのため親族もみな気づかず、皇帝になって里帰りしても、「あんたみたいな真面目で人見知りする子がどうして皇帝になったのかしら」と不思議がられていた。

・元元為首(庶民を最優先)を政治指針としたが、これは現代で言えば「人民のための政治」。
・皇帝即位以降、領土拡大のたびに奴婢(奴隷の一種)の解放令を発行する。

・西暦35年3月6日、法の下の万人の平等を宣言し、奴婢の不平等刑法を廃止し、違反するものを徹底処罰した。フランス人権宣言、アメリカ独立宣言に先行するものとされる。

・大規模な土地調査を行い、反抗するものを弾圧して強行、半年に及ぶ内乱を平定し、数年ごとの土地調査を制度化して公平な税制を実現した。日本の太閤検地より1500年以上前の出来事。

・豪族を抑圧し、親族を政治に参加させず、少額の賄賂でも、大臣の首が飛ぶほど厳格な政治をひいた。

・建国の英雄であり、後半期は治世にも成功、さらに後継者問題も発生せず、歴史上唯一、創業と守成と継承に成功した英雄とされる。

・二代目明帝、三代目章帝ともにただ光武帝の決まりを守っただけで堯舜禹に比される名君とされた。後漢は二百年間、法律も制度も光武帝の決めたままほとんど変化しなかった。

・後漢王朝は光武帝の死後百年目に最盛期を迎え、実人口が七千万近くに到達し、千年後に北宋が誕生するまで世界で最も繁栄した王朝となった。

・北宋建国の趙匡胤は能力や即位の経緯が光武帝に似ており、さらに光武帝を研究し徹底して模倣する人物だった。

・京都学派の歴史区分では、後漢から中世、北宋から近世。故に、中国を古代から中世に変えたのは光武帝であり、中世から近世に変えたのも光武帝である。

・三国志の英雄は全員、光武帝の真似をすれば天下を取れると信じていた。

・魏武帝曹操、唐太宗李世民、北宋太祖趙匡胤、清康煕帝愛新覚羅玄燁など、有名な名君はみな光武帝の真似をした。

・毛沢東は光武帝を絶賛し、人を使う能力、学識の深さ、戦争の強さ、すべてナンバー1の皇帝であるとした。 

・中国史上初めて日本の使者が来たので金印を贈る。日本の国宝の漢委奴国王印。

・泰山封禅の儀式で天に事業の完成を報告し、そのぴったり一年後に死去する。

・死に際して国民に残された遺言は「私は人々の役に立てなかった。私に対して喪に服すため仕事を休んだり、弔辞を送ったりしてはいけない」というものだった。

劉秀は死の間際に、息子(後の明帝)にこう告げました。

『名もなき庶民の為に尽くせ。暮らしに困窮している全ての人民を救え。それが天子、皇帝たる者の役割だ』


彼は以降、皇帝の手本となり、名君の鏡となります。

聖天子、または聖人君子。

秦の始皇帝や新の王莽は人民を苦しめ、暴政を敷きましたが、反乱に遭い、いずれの王朝も15年ほどで呆気なく瓦解しました。

後の歴史家曰く。

秦や新は閏王朝であり、天に認められない偽物の国家であり、それを徳のある劉邦や劉秀が討伐し、悪を駆除したのだと。

易姓革命の中国において、前漢の高祖や、この後漢の聖祖光武帝はまさしく、漢民族の英雄にして、中華の誇りなのでしょう。

それは、唐や宋、清という理想的な長命王朝へと受け継がれていきます。

劉秀は、容姿端麗、頭脳明晰、文武両道、そして、人望人徳ある名君でした。

理想と現実をミックスさせ、優れた政治手腕を見せた皇帝。

この様なリーダーはなかなか稀ですよね。



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