半田畔の短編小説『看てくれのあなた』
半田畔さんの新作の短編小説を公開します。半田さんが今回選んだテーマは『異常行動』……。今年初めに行われた中村航さんと斜線堂有紀さんの、恋愛小説をめぐる対談イベントで出たワードです。『恋愛って後で引いちゃうようなわけわからないこと、しちゃうよね……』という話でした。対談の様子はリンク先にあるのでこちらも是非。先に公開した、同テーマで執筆した中村航さんの短編も合わせて読んで頂きたいです。今回、このテーマから半田さんが描いたのは痛くて切なさの残る青春でした……。
作者プロフィール
半田畔(はんだほとり)
2012年、ジャンプ小説新人賞銀賞を音七畔名義で受賞、『5ミニッツ4エヴァ―』でデビュー。2015年に「風見夜子の死体見聞」が富士見ラノベ文芸大賞・金賞を受賞、同作を刊行、以後半田畔名義で活動。一迅社文庫大賞の審査員特別賞を受賞、『人魚に嘘はつけない』を刊行する。集英社文庫『ひまりの一打』など著作多数。
看てくれのあなた
1
机から教科書を取り出そうとしたとき、人差し指を切った。細く瞬間的な痛みが、指の腹に走り、見てみると縦に長い切り傷ができていた。
人差し指を圧迫するように握ると、摩擦で切れたその傷口から、ぷっくりと血が膨らんであらわれる。派手なビジュアルになってきた。もう少し圧迫して、溜まっていたものを押し出すように、さらに血をあふれさせる。傷口からこぼれる寸前で止めて、スカートに垂れないよう机の上まで移動させたあと、前の席にいるあずさに見せた。
「指切った。ばんそうこう持ってない?」
「ばんそうこう? うわ、本当じゃん」
夢中になっていたスマートフォンから、あずさがようやく顔を上げてくれた。鞄をさぐり、ばんそうこうを箱ごと用意してくれる。使っていいよ、と置くだけで、中から出してはくれない。
「貼ってよ、あずさ」
「チカが自分でやりなよ」
「前は貼ってくれたのに」
「それ、いつのこと?」
「体育祭のリレー走で転んだとき。膝を怪我した」
思い出すのに数秒かけて、それから呆れたようにあずさが笑う。視線は早くもスマートフォンに戻ろうとしている。最近、仲が良いという隣の教室の男子とやり取りをしているのだ。男子の名前は忘れた。
「それ、中学のころの話じゃん。もう高三だよ、あたしたち」
「机のなかの小さな侍に、指を刀で切り裂かれた高三の女子」
「いいから早く貼りなって。机にこぼれるよ」
あずさはスマートフォンに意識を戻してしまう。わたしの傷の手当てよりも、隣の教室の男子の、藍川君とのやり取りに夢中になってしまう。名前を忘れたと言ったのは嘘で、本当は思い出したくなかったから。去年の終わりごろまでは恋愛になんか興味がないと言っていたあずさが、いまは一人の男子といい感じ。「あたし恋愛体質なんですー、って言うやつ、自分で性欲が強いって明かしてるようなもんだよね」と、放課後に寄ったコンビニでからあげ棒をむさぼりながら毒づいていたあずさと、いまの彼女はまるで別人。
登校の時間、授業の合間の休み時間、昼休み、下校の時、休日、時間があればすぐにでも隣り合って、くだらないことで笑い合う。あずさとのそういう日々が、わたしは好きだ。中学二年のころから数えて、四年間。地球上の誰よりも話す数が多くなった友達。
「あずさ、今週どこか遊びいこうよ」
「どこかって、どこ?」
「この前はわたしが行きたいとこ行ったから、今度はあずさの好きなところ」
「どこがいいかなぁ」
考える気力のなさそうな声。もしいま、あずさのきれいな地毛の茶髪に、血のついたこの人差し指で触れたら、少しは目を見て話してくれるだろうか。きっとそうしてくれるけど、思うだけでやらない。見てはほしいけど、嫌われたくはない。
「そもそもあたし空いてたかな、今週」
「わたしもあずさも推薦で進学先決まってるんだから、暇じゃん。クラスのほかのやつより、時間がたくさんあるんだよ。遊び放題」
「それ、あまり大きな声で言わない方がいいよ。残り四か月、平穏無事に教室で過ごしたいなら、進路が決まっていても顔に出しちゃいけないよ。ていう鞄そうこう、早く貼りなよ」
あずさが一瞬、スマートフォンを置いて、ばんそうこうの箱に手を伸ばしかける。そこでスマートフォンが通知の音を鳴らしたせいで、また戻してしまう。人差し指を見ると、皮膚の表面を伝う血が、少し乾き始めていた。もう少し絞り出せば、傷口からまだ鮮度の良い血がでてきそうだったけど、そろそろ授業が始まる時間だった。
ばんそうこうの箱をつかみ、適当に一枚手に取る。ふと、上手な貼り方、と書かれた、箱の裏にある短い一文に目が止まる。《テープを軽くひっぱるようにして貼ると、防水効果が高まります》とあった。あずさが貼ってくれたら、すぐに治る気がするのにな、と思う。あずさの健康な人差し指は、藍川君への返事を打つのに忙しい。
授業の途中で小雨が降り出した。放課後になるころには、さらに少しだけ強くなっていた。昇降口で、あずさの委員会の仕事が終わるのを待つ。傘を持ってきていないので、あずさの傘に入れてもらうつもりだった。彼女の傘が傘立てのどこにあるのかは、すでにわかっている。ハリネズミのシールが持ち手に貼られた紺色の傘があずさのだ。
地面を叩く雨粒の数が、少しでも減らないように祈りながら、あずさを待つ。雨の勢いは祈った通り続いてくれたが、肝心の願いは叶わなかった。あずさは藍川君と一緒に昇降口にやってきた。
「あれ、チカ。なんでまだ学校に?」
あずさの声がいつもより少し高い。誰かに気に入られようとするときの、ひとの声。頬に乗っている肌もいつもより明るい気がするし、瞳もなぜか大きく見える。
「雨が降ってて。あずさの傘に入れてもらおうと思って」
あずさたちが近づいてくるたびに自分の声がしぼんでいく。藍川君の髪もあずさと同じ茶髪だが、染めているものだとすぐにわかる。あずさのような、自然に生える茶髪の優雅さの隣にいれば、人工的な染髪ごときは、どうしたって浮く。
「傘なら購買にまだ売ってたような気がするけど」あずさが言った。お金を出すのはもったいないから、と返そうとしたところで、藍川君が傘立てから自分の傘を取り出して、言ってきた。
「おれのとこにあずさが入って、あずさのを貸してあげたら?」
冗談じゃなかった。隣り合うためのダシに使われるのだけはごめんだ。こいつはどうせ、わざとらしく自分の右肩を濡らして、あずさの体のほうに傘を傾けるのだ。車道は常に右側を歩いて、車の水しぶきもなるべく自分で受けようとする。それを後ろから眺めて、わたしに帰れと言う。
あずさがハリネズミのシールがついた傘を取り、わたしに渡そうとするのがわかった。二人の間をぬけて、校舎に戻る。
「やっぱり購買いってくる。一〇〇円だし。安いし」
「そっか。じゃあ、また明日」
「うん。明日」
二人が別々の傘を広げて帰っていくのを眺める。姿が完全に消えたのを確認したあと、さらに余分に五分だけ待って、傘は買わず、そのまま昇降口を出た。たとえ一円でも出したくなかった。途中でさらに雨が強くなったが、コンビニには寄らず、まっすぐ家を目指した。
濡れた髪が頬に張りつく。払いのけてもまた張りついてくるのでうっとうしい。あずさに長いほうが好きだと言われて伸ばしている髪だった。
自宅マンションの近くにある畑は雨で完全に浸水していた。玄関につくころには、制服は肩から裾までずぶ濡れだった。髪を束にして絞ると、しずくがぽたぽたと垂れた。
そんなにしてどうしたの! と、わたしを叱る母親を想像する。顔はぼやけて見えない。玄関に置かれているのはわたしの靴だけ。雨に濡れた、会社員の父の革靴もない。どんな会社に勤めているかも想像できない。二歳のときに両親は事故で亡くなった。
ずぶ濡れのまま廊下を歩いても、誰も叱らないし心配しない。そのままソファに寝転がっても怒られない。制服をいつまでも着替えないでいても、誰も気にしない。
わたしを怒ったり心配したり褒めたりしてくれていた祖父母は、通う高校が家から遠いからと、進学と同時にわたしに一人暮らしをさせてくれた。おかげで学校から徒歩二〇分の距離になった。引っ越した後に試しに調べてみると、祖父母の家から学校までは、電車とバスで二時間かかる道のりだった。
中学までは祖父母の家から通うことができていた。バスで一時間ほど、のんびり揺られて、車内でアルミホイルに包んでもらったおにぎりを食べながら登校していた。
あずさが転校してきたのは中学二年のころ。都心から越してきた子だと、クラス中が浮き足だった。地毛だとあとでわかるその茶髪も、染めたものに違いないと評判になり、さすが都会の子はおしゃれで進んでいると、周囲があずさをはやしたてた。
将来、自分たちが上京するかもしれない街の話を聞きたがる子もいれば、都会育ちを鼻にかけていると、あずさを敬遠する子もいた。あずさ自身は離れた街のことを今更話したがっていなかったし、都会育ちであることに優越感を抱いているような様子もなかった。むしろ抱いているのは逆の感情かもしれないと思った。それに最初に気づいたのがわたしだった。だからわたしはあずさにとっての一番になった。
クラスで最も彼女を理解し、近づけたのはわたしだった。あずさはこちらの生活に馴染むまで、わたしのそばを少しも離れようとしなかった。
同じ高校に進学して、一人暮らしを始めたわたしの部屋にも、あずさは二日に一回のペースで遊びにきた。週末は泊まっていくこともあった。外で話せないような下ネタでたくさん笑って、同じ化粧道具を買いに行こうと作戦を立てる日々だった。
過去を思い返すたび、体が重くなっていくような気がした。シャワーを浴びたかったが服を脱ぐのも面倒だった。それでも、あずさがいつきてもいいように、マンションの玄関の鍵だけはあけておく。リビングと玄関の間の廊下を往復するという大冒険を終えて、力尽き、そのままソファで眠った。スマートフォンがメッセージを受信して、一度起きて確認した。あずさかと思ったが、祖母だった。『米と野菜を送りました。明日届くと思います』。返事は打たずまた眠った。
翌日の朝には、しっかり風邪を引いていた。
焼けつく喉の痛みで目が覚めて、水を流し込んでも痛みが引かず、洗面台横の引き出しをあさってようやく見つけた体温計で測ると、三七度九分あった。数字を見たとたん、それまでは平気だったのに、なぜかどんどん三七度九分の気持ちになってきて、体中がだるくなった。
ベッドに向かうたび、足の関節が痛んだ。壁にもたれかかろうと、腕を上げるのも一苦労になってきた。やってしまった。完全に自業自得。何年ぶりに風邪を引いたのだろう。思い出す気力もいまはない。
風邪薬が見つからず、鎮痛剤でしのいでいるうち、気づけば昼前になっていた。メッセージが一件届いていて、祖母からだったら無視しようかと思ったが、あずさの名前が表示されていて、力をふりしぼった。ちかちかと、いつもより暴力的な明るさに感じるスマートフォンの画面を確認する。
『寝坊? 授業始まるよ』
『風邪引いた。学校休むので先生に伝えて』
返事を打つが、それきりあずさからの応答はなかった。ふと、人差し指に貼っていたばんそうこうがなくなっていることに気づく。どこかで剥がれてしまったらしい。塞がっていない傷を見て、なぜか無性にさびしくて、少し泣きそうになった。
握っているスマートフォンが手から滑り落ちて、床で鳴った鈍い音で意識が戻る。気づくと一時間が経っていた。峠は越えたのか、体がさっきよりも少しだけ軽くなっていた。
インターフォンが鳴る。新聞や宗教の勧誘かと思い、無視をする。もしくは祖母が言っていた荷物が届いたのか。もう一度インターフォンが鳴る。ベッドに体を埋めていたい欲求と、再配達の連絡をする手間が殴り合いの格闘をし、僅差で後者が判定勝ちをした。
玄関を目指して廊下を進む。歩くたびに遠のいているような気分がする。ぼやけた視界のなかで、がちゃりと動くドアノブだけが鮮明に見えた。そういえば鍵をかけていなかった。ドアノブに手を伸ばす配達員などいない。まずい、宗教勧誘のほうだったか。
ドアが開く。昨日からの雨はとっくに上がっていたようで、激しい陽光が侵入してくる。同時に関節の痛みとだるさが戻り、立っていられなくなる。気力で声をあげる。
「お、お断り、します」
「いや。せっかく来たんだから、厚意は受け取ってよ」
姿を見るよりも先に、耳の奥が弛緩した。無条件で気を許せる相手の声だった。そこで一度、意識を失った。
目を覚ますとベッドに戻っていた。近くのローテーブルにおかゆが置かれていて、あずさはそれにラップをかけようとしているところだった。
「起きた? ちょっと冷めたけど、食べる?」
「……食べる」
おかゆの入った皿を持って寄ってくる。ベッド脇に座って、皿をよこしてきたところで、小さく口を開けて待機する。意図を察したあずさが溜息をついて、スプーンで一口分をすくい、食べさせてくれた。口の端から数粒こぼれて、服を汚す。着ているものがパジャマに変わっていた。昨日ソファで寝落ちしたときは制服のままだった。自力で着替えたのか、それともあずさが着替えさせてくれたのか。
「さっきチカのお祖母ちゃんから荷物届いてたよ。なかにあったお米と野菜、勝手に使わせてもらった。で、味はどう?」
「まあまあ」
「嘘でもいいから美味しがれよ」
続けて風邪薬を持ってくる。水で流しこむ。喉の痛みが少しマシになっていた。だけどもう少し、大丈夫ではないフリをしようと思った。
「あずさ、学校は?」
「サボった」
わたしのために? と訊こうとしたところで、二口目を押し込まれた。
「ちょうど面倒な体育だったから、生理で体調悪いですって嘘ついた。男子の先生には効果的な言い訳だよね。まあ、向こうも嘘だって気付いてるかも。でも指摘はしてこない。指摘したら負けなのを知っている。大人のおままごと」
長い言葉を理解するには、まだ頭が覚醒しきっていなかった。大人のおままごと、という単語だけ聞きとることができた。とにかくあずさが来てくれた。授業をサボって来てくれた。あずさの肩に、それから頬に、できれば髪に触れたいと思うけど、動けない。結託したみたいに絡み合う、癖っ毛のなかに手を差し入れたい。呻いていると、代わりにあずさがわたしの髪に触れてきた。
「汗、だいぶ吸ってるね。きれいな黒髪が台無し」
いま、同じことを考えていたよ。わたしもあずさの髪のことを考えていたよ。言おうとしたけど、思っていることとは別の言葉が口をついてでた。
「きれいなんて言ってくれたこと、あったっけ」
「チカの黒髪はずっとうらやましいって思ってるよ。伸ばしても癖がつかないし」
「ほかにきれいなところは?」
数えて三秒、間が空いて、あずさが答えた。
「食べ方がきれい」
「なにそれ」
「なんでもない」
残さず食べたかったおかゆだけど、途中で手が止まった。あずさが気付いてラップをかけてくれた。あずさの首筋に一滴の汗が見えた。わたしの熱のせいかもしれない。
「今日はいつまでいる?」
「治るまでそばにいるよ」
「ごめんね」
「コンビニのからあげ棒でいいよ」
笑うと、頭を撫でてくれた。手のぬくもりを感じるたびに、睡魔が襲ってくる。もっと撫でてほしい。もっと感じていたい。
「ゆっくり休んで。そばにいるから。早く治して、遊びにいこう」
なぜだかわからないけど涙が出た。風邪で弱るって本当かもしれない。あずさが困ったような顔をして、迷ったあと、結局ティッシュ箱を持ってきた。写真に残したいくらい大量の鼻水が出た。
ここ最近抱いていた、あずさとの距離の遠さが嘘みたいになくなっていた。あずさはスマートフォンを見ていない。藍川君と話していない。わたしの部屋で、風邪を引いたわたしを介抱し、わたしの頭を撫でてくれている。
とうとう眠りに落ちる寸前、人差し指に、ばんそうこうが新しく貼られていることに気づいた。自分でやったのではないとすぐに分かる丁寧な貼られ方だった。眠っている間に逃げていかないよう、人差し指を、そっと拳のなかに包んだ。
ベッドのわきであずさが読書をはじめる。ページのめくれる音を聞きながら、世界で一番満たされた部屋でわたしは目を閉じる。
2
購買で焼きそばパンを買おうとして、「まだ病み上がりなんだから胃にやさしいものを食べろ」とあずさに怒られた。代わりに選んでもらった冷やしぶっかけうどんを食べた。あずさは電子レンジで一分ほど温めてからそれを差し出してくれた。適度に温かくてやわらかいうどんになって、こんな食べ方があるのかと感心した。
「味はどう?」
「おいしい」
「おかゆをつくったときも、それくらいの笑顔を見せろよ」
正直に言うとうどんはいまいちだったが、わたしのために選んでくれたというその行為こそが大切なので、味に価値は求めていなかった。
風邪を引いて以降、わたしとあずさの距離は元に戻りかけていた。ここ最近のちぐはぐな空気はもうただよっていない。恥を捨ててわかりやすく表現するなら、わたしにかまってくれなくなっていたあずさが、いまはわたしだけを見てくれている気がする。
昼食中のあずさとの会話でそんな推測が確信に変わる。
「チカは食べ方きれいだよね」
「それ、前も言われた気がしたけど、なに」
「藍川君。いたでしょ」
わたしに彼を思い出させるために、あずさは間を置いてくれた。そんなことしてくれなくても瞬間的に彼のことは浮かぶ。いたでしょ、とあずさは言った。いたでしょ。いたでしょ。いまはもういないことを即座に理解する。過ぎ去ったものを見るような目つきで、わたしの斜め右下あたりの虚空をとらえながら、彼女がつぶやく。
「雨の日に一緒に帰ったんだけど、そのときファミレスに寄ったのよ。もっと話したかったし、いいかなって。そこでね、彼が骨なしフライドチキンを頼んだの。その食べ方が最悪だった。くちゅくちゅって音が出るし、口をつけるたびに衣が落ちてテーブルに散っていくし、唇がてかてかになって気持ち悪かったし、食べている途中もしゃべってきて、その口からチキンの残骸が飛ぶし」
それで一気に冷めた。あれはだめ、もうだめ、と、彼女のなかでは終わった。ようするにそういう話だった。あずさは語りながら、わたしがうどんをすするのを見てくる。そんな話をされたばかりなので、すすった麺が途中でちぎれて、容器のなかにぼちゃんと落ちないか、少し緊張した。
あずさにすりよる男子はもういない。はずだ。でも油断はできない。今度、クラスの友達とカラオケに行くという。藍川君のときほど、平和が脅かされることはないだろうけど、それでもざわつくものはある。ただでさえ、いまは距離が元に戻ったばかり。治りかけている傷にはなるべく触れたくない。悪化させたくない。化膿させたくない。
あずさが巻いてくれた、人差し指のばんそうこうを眺める。二本となりの薬指に、太いささくれがひとつ、そそり立っているのを見つける。
「あずさ、ささくれできた」
「ささくれ? あ、ほんとだ。すごい。太い」
「抜いて」
「なにそれ、自分でやりなよ」
「怖くてできない」
「……もう、しょうがないなぁ」
教室に戻って、鞄のなかの化粧ポーチからピンセットを取り出し、あずさがささくれを取ってくれた。わたしとあずさの視界には、あずさが巻いてくれたばんそうこうがしっかりとおさまっていた。
放課後もあずさと一緒に帰った。途中のコンビニであずさはからあげ棒を買った。からあげはぜんぶで四つ刺さっていて、一つ目からあずさは美味しそうにほおばる。その唇がわずかに油で濡れる。口の端についた衣を、ウェットティッシュでぬぐってやった。ありがとう、と食べながら返事があった。
「わたしにもひとつちょうだい」
「病み上がりだからだめ」
「ずるい、ひとりじめしたいだけでしょ」
「あ、こらチカ」
ぱく、とひとつ盗んで食う。きれいとは程遠い食べ方。それでもあずさは笑ってくれた。やっぱり笑ってくれると思っていた。
家まで遊びにこないか誘ってみたが、バイトがあるから、と断られた。あずさは高校卒業後、上京して保育士の専門学校に通うことになっている。そのための資金をためるためのバイトだ。
「じゃあね、チカ」
「うん。また明日」
あずさが遠ざかり、道の角を折れて消えていくのを見送った。途中、一度だけ振り返り、手を振ってくれた。一人になって、とたん、底に沈んでいた不安が顔をのぞかせる。何かしなければあずさが離れていく気がする。中学のときから続いているこの関係が、保っていた距離が、笑い合う日々が、手からぜんぶこぼれ落ちてしまう気がする。傷があり、ささくれだらけのこの指で、つかんでおかなければならないものがある。
帰宅して、ソファに鞄を放り、それからまっすぐベランダを目指す。カーテンと窓を開けて、ベランダの床に放置しておいたお皿を手に取る。なかにはあずさがつくってくれた二日前のおかゆが入っている。かけていたラップに少し穴が開いていた。鳩か何かが、つついて開けようとしたのかもしれない。
ラップをはがして中身を確認する。おかゆの表面に、黒い綿ぼこりのようなものが、ぽつぽつと積もっていた。狙い通りちゃんとカビていた。
冷えて固まり、スプーンですくうと、そこだけ穴が開いた。口に含んでよく噛んで飲みこんだ。途中で電子レンジにかけて温めた。食べ進める。
完食したあと、冷蔵庫から、買っておいた鶏のむね肉をだす。三二四円。食費の節約もかねてスーパーで一番安いのを選んだ。パックを裂き、手でつかんでまな板まで持っていく。乱暴に置いたせいで、まな板に載せたとき、ごとん、と鈍い音が鳴った。
包丁で一口サイズに切っていく。刃が肉の表面をすべって、何度か失敗する。ここで指を切ったらあずさはまた手当てをしてくれるかな、と考える。でもいまは鶏肉に集中。
試しに切った一口サイズの肉を、そのまま口に運ぶ。覚悟はしていたけど、想像よりもずっと食べにくかった。溶かしている途中のゴムみたいな食感だった。本能が食べるなと叫んでいた。歯をあてるな。咀嚼するな。舌に触れるな。飲みこむな。
高校の合格祝いに祖父母に焼き肉店へ連れていってもらったとき、祖母が鶏肉は特によく焼きなさい、と教えてくれた。鶏は特にあぶないからと、お腹を壊してしまうからと。
ごきゅ、と喉を通る音がして、一口目が食道に運ばれていく。ぜんぶを食べきれる自信はないが、許してくれと懇願したくなるほど苦しいわけでもなかった。とりあえず、やれるところまでやってみようと決めた。次はもう少し小さく切ってみよう。
鶏の生肉のおかげか、もしくはおかゆの黒い綿ぼこりのおかげか、翌日には、しっかりとお腹を壊した。
「あーあ、また吐いた。食中毒じゃない、これ。鶏肉食べたんだっけ? ちゃんとよく焼けてなかったんだよ」
お腹は痛いし熱もあった。吐き気がおさまらない。あずさに介抱されながら、二時間に一回はトイレで吐いた。吐き終えて力尽きると、あずさが代わりに流してくれた。
休日。クラスメイトとのカラオケの途中で抜け出してきてくれたあずさは、口からメロンソーダの匂いをさせながらわたしを看病してくれている。ドリンクバーでたくさん飲んだのだろう。
「おかゆつくったらまた食べる? って、いまは何も胃に入れない方がいいのか」
「うどん食べたい」
「もう、わがままだなぁ」
「辛い。さびしい。そばにいて」
「わかったわかった、もうしゃべんないで。吐いたばっかで口が臭い」
「ごめん……」
あずさがベランダにでて、どこかに電話をかけはじめる。まさか病院に? と焦り、聞き耳を立てると、バイト先のようだった。具合が悪いので今日は休みます、と嘘の電話をしてくれていた。あずさの目を盗んで洗面台まで這っていき、マウスウォッシュをした。途中でバレて、呆れられて、「そんなのいいから寝てろ!」と怒られた。
あずさは一日中そばにいてくれた。夜にもう一度わたしが吐くと、泊まっていってくれた。翌日にはいくらかマシになって、一日半ぶりの食事を取った。あずさがつくってくれた温かいうどんで、購買で食べたものよりも格段に美味しかった。
看病とは献身で、献身とは愛だった。
今回でわたしはそれを確信した。看病ほど、誰かの愛を確かめられる方法はない。わたしとあずさをつなぎとめてくれる、最良の手段だ。どんな傷でも負える。いくらでも体を壊してみせる。異常だと誰かは言うかもしれない。だけどみんな、いつだって何かを守るために、自分の体を犠牲にしているはずだ。わたしにとってのその方法が、看病だというだけ。
「ほらこっち向いて、寝ぐせ直してあげる」
あずさが持っていたブラシを振って、こい、とジェスチャーする。大人しく従って、膝立ちになっているあずさの前に、座っておさまる。テーブルに鏡を立てて、丁寧に寝ぐせを直していく。
「自分でできるよ」と、試しにごねてみる。
「じゃあ、はい、どうぞ」
「……やっぱりやって」
「言うと思った」
鏡越しにあずさが笑うのが見える。途中で膝立ちに疲れたのか、あずさはあぐらをかきはじめた。あぐらのなかに座ってみたが、怒られなかった。背中にあずさの熱を感じて、くすぐったかった。寝ぐせはとっくに直っていたけど、あずさは手を止めなかった。
「いつからこんな感じになったっけ、あたしたち」あずさがつぶやいた。
「こんな感じって?」
「チカが甘えて、あたしが応じる」
「前は逆だったのにね」
「そうだっけ?」
「そうだよ。あずさが転校してきたとき、クラスに馴染むまでずっとわたしのそばにいた。トイレだってついてきてた」
「世渡りに必死だったんだよ、あたしも。チカのそばにいれば平和だったから」
髪をすく手はまだ止まらない。ブラシの先端が耳にあたって、くすぐったくなる。もう少し続けていてほしい。
「クラスに馴染んでからもしばらく離れなかった」
「チカのそばは、時間がゆっくり流れてる気がする。それが心地いいのかも。嘘はつかずに済むし、素のままをさらけだせるし」
「つまりどういうこと?」
「一番落ち着くってこと」
それなら、ずっとそばにいればいいのに。そういう努力をあずさもしてくれたらいいのに。わたしの努力とあずさの努力が合わさったら、きっと最強なのに。いや、わたしの知らないところで、あずさもたくさんの努力をしてくれているのかもしれない。いまだってわたしを看病してくれている。寝ぐせを直してくれている。時間と体、両方を使ってくれている。
「いろいろありがとう」頭の中で組み立てるよりも先に、言葉がでた。
「いいよ」
あずさがブラシを置く。わたしたちはそのまま動かない。
「保育士の勉強にもなるし」
「勉強? なんで?」
「わがままな子供の面倒を見る練習」
「ひどい」
せっかくとかした髪を、あずさがわしゃわしゃとかき交ぜて遊ぶ。わたしも暴れて、応戦する。ひとしきりじゃれあったあと、あずさの置いた鞄のなかに、参考書が入っているのを見つける。保育士のための勉強。専門学校に入る前から、もう予習を始めているらしい。東京へ向かう新幹線のチケットすら、もうすでに用意してあるのかもしれない。
次は何をしよう。
あずさが遊びにくる三時間前には起きて、食事を一切取らず、エアコンの暖房を限界温度の三二度まで設定してつけた。テレビにつないだパソコンからエクササイズの動画を流し、その通りに踊り続けた。
一〇分も経たないうちに床に汗がこぼれおちていく。ひどく喉が渇くが、水道のじゃ口はひねらない。冷蔵庫のなかにある冷やした麦茶を手に取りたい衝動にかられるが、ぐっとこらえる。
エアコンが聞いたことのない稼働音を鳴らし、室温をぐんぐん上げていく。三二度も設定できるとは思っていなかった。
長袖のシャツがびっしょりと濡れて張り付く。頬に、首に、汗を吸いこんだ髪がまとわりつく。エクササイズの画面が途中で広告動画に切り替わる。休憩するつもりはなかったが、体が動かなくなっていた。息が切れ、そのまま視界が回りだした。
「いや、ちょ、暑! これどういうこと! 何してんの」
到着するなり、あずさはリビングで倒れているわたしを抱きかかえて、つけていたエアコンを切りながら、何事かと問いただしてくる。
「ホットエクササイズ。流行ってるらしいからやってみようと思って。痩せるって聞いたから」
「馬鹿でしょ! やりすぎだよ。そもそも痩せる必要もないでしょチカは。これ、絶対熱中症になってるよ」
「み、水飲みたい」
台所を指さす左指が、小さく痙攣していた。少しやりすぎたかもしれない。今日の看病は熱中症。馬鹿、馬鹿、馬鹿、とつぶやきながら、あずさが台所に移動する。コップからこぼれるくらいの量の水を持って戻ってくる。口に流し込まれ、急な水分に喉が驚き、激しくむせる。
わたしがソファで休んでいる間、あずさは床の汗もタオルで拭いてくれた。すべて片付いたあと、彼女が訊いてきた。
「で、どれくらいなの?」
「え?」
「具体的に、ホットエクササイズってどれくらい痩せるの?」
昼食を終えたあとは、暖房をまたつけて、二人でホットヨガをした。はたから見たらシュールな光景で、ちょっとおかしかった。ヨガの動画の途中でまた、広告動画が差し込まれた。塾か何かのCMで、受験勉強にいそしむ高校生たちの姿が流れていた。
次は何をしよう。
3
三年生にあがったとき、あずさと同じクラスになれた喜びもつかのま、クラスが将来の話題で一色になったことがあった。地元で進学、就職、上京。さまざまな選択肢が話題のなかで飛び交っていた。わたしとあずさはその話をしなかった。お互いに、道が違うことを悟っていたし、それをわざわざ口に出したくなかったからだ。
夏ごろになって、あずさの進学先が先に決まった。予想していたとおり、保育士になるための専門学校への進学だった。
「東京にある学校」と、あずさは言った。
「そっか」
「チカは?」
「地元の大学。指定校推薦で。たぶん通ると思う」
「上京はしないんだ」
「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんのこと、なんだかんだで放っておけないし。何かあったときにかけつけられる場所にいたい」
「そっか」
将来の話題は、その一回きりだった。
思えばその頃から、わたしたちの距離は少し、ズレていった気がする。抗いようのない大きな力が、わたしとあずさを引きはがそうとしていた。
「それ、どうしたの?」
体育の授業前、更衣室で着替えていると、横のあずさがわたしの腕を指して言ってきた。左腕には小さなガーゼが貼られている。また怪我をしたのかと訊かれたが、そうではないと答えた。
「献血。駅前のロータリーに車が停まってたから、行ってきた」
「いつ?」
「朝、登校する前」
「なんでそんなこと」
「お礼でもらえるドーナツが美味しそうだったから」
わたしの登校ルートに駅前のロータリーはない。そのことを指摘されるかもしれないと思ったが、そうはならなかった。ふうん、と理解できたようなできていないような、小さな返事があって、あずさは着替えに戻った。
献血をやっている場所を市役所のホームページからわざわざ検索して見つけ出し、いつもよりも早く自宅を出て、遠回りで向かった。献血用のトラックに乗って、「若いのにめずらしいね、ありがとうね」と看護師さんに感謝されて、少しだけ罪悪感を抱いた。血が抜かれているところをしっかり見て、目的を達成し、そのまま登校した。一時間目から体育の授業があるのは、今日しかなかった。
「献血したあとで、運動なんてして大丈夫なの?」
聞き耳を立てていたらしい、ほかのクラスメイトが言ってくる。
「今日、しかも長距離走だよ?」
「大丈夫。ドーナツ食べたから」
親指を立ててサムズアップし、キャラじゃなかったかな、とそのあと恥ずかしくなった。クラスメイトも心配してくれたが、無理にわたしを止めてくることはなかった。
グラウンドを七周半。一周四〇〇メートルで、合計三キロ。それが今日の体育の授業、長距離走の内容だった。最初に男子、次に女子が走った。スタートしてすぐ、案の定、一周を過ぎたあたりから平衡感覚に異変を感じた。わたしの横を何人ものクラスメイトが追い抜いていく。顔白いよ? 大丈夫? と声をかけてくれる子もいた。貧血はうまくいった。あとは適度なタイミングで抜け出して、あずさに保健室へ連れて行ってもらい――
「あず、さ」
五周を過ぎて、すがるように、気づけば声がでていた。誰の耳にも届いていないようだった。集団は半周以上も先にいた。視界がぼやけて黒いつぶに見えた。おかゆに付着していたあのカビによく似ていた。
そのとき、横を誰かが通り過ぎていく。
あずさだった。一周以上先を走って、わたしに追い付いていた。
あずさ、と彼女の名前をもう一度呼ぼうとした。目が合って、思わず口をつぐんだ。あずさはわたしを見ていた。わたしの様子を把握していた。わたしの異常を察知していた。ふらつく体を抱きとめてくれることもなく、そのまま走り去って行った。
背中が遠ざかり、そのまま意識が薄れた。
気づくころには保健室のベッドにいた。ここまであずさとクラスメイトの一人に支えられ、運ばれてきたのをなんとなく覚えている。クラスメイトは先に授業に戻り、あずさが一人だけ残ってくれた。
「まったくもう、無茶するから」
「……あずさ」
「献血後に激しい運動が禁止されてることくらい、常識だよ」
「……走れると思って」
「チカは本当にしょうがないなぁ」
あずさは笑って、寝ているわたしの頭を撫でてくる。視線を交わしたさっきの出来事など、何もなかったみたいに、いつもの呆れた顔を浮かべている。わたしが起き上がろうとすると、寝ているようにと、ベッドに戻してくる。
彼女は知っていた。知っていて、わざとわたしを追い抜いた。わたしが倒れるのを待っていた。ようは、そういうことだった。
わたしだけじゃなかった。する側とされる側、立場は違うけど、「看病」にとりつかれたのは、わたし一人だけじゃなかった。
いつかのあずさの言葉が頭をよぎる。風邪を引いたときに聞いた、会話の断片。
『まあ、向こうも嘘だって気付いてるかも。でも指摘はしてこない。指摘したら負けなのを知っている。大人のおままごと』
いいよ。
やろう。
二人で、大人のおままごと。
子供じみた芝居を。
離れたくないから。きっとこうすることでしか、距離を保っていられないから。
「迷惑掛けてごめんね、あずさ」
「いいよ。チカ」
次は何をしよう。
決定的な崩壊が訪れたのは、一二月に入ってすぐのことだった。
祖父から連絡が入り、祖母が風邪を引いたという報せを受けた。持病を持っている祖父の代わりに、必要なものを買いそろえて、久々に祖父母の家に向かった。
マスクをした祖父に出迎えられ、家にあがる。祖母は奥の居間に敷かれた布団で寝ていた。マスクは持ってきていたが、しなかった。
やってきたわたしに気づき、祖母が目を開ける。ゆっくり笑って、それから差し出してきた手を握る。
「おばあちゃん。風邪平気?」
「大丈夫、熱があるだけ。おじいちゃんが大げさに騒いじゃったの。ごめんね、チカ。学校は?」
「今日は休み。風薬、もう飲んだ? お水持ってこようか」
「温かいお茶がいい」
「わがままだなぁ」
台所に向かうと、祖父がすでにお茶を淹れていた。祖母のもとに戻り、体を起こしてやる。お茶と一緒に薬を流し込むのを見る。テレビをつけてほしいというので、その通りにした。それから少し他愛のない話をした。けれどまだ体調は悪そうで、祖母は半分ほどお茶を残し、また眠ってしまった。テレビを消して台所に戻る。祖父はどこかに消えていた。
誰もいないことをもう一度確認し、祖母がさっきから使っていた湯呑に口をつけて、残ったお茶をすべて飲み干した。
泊まった翌日には祖母はすっかり回復していた。念のために夕方まで残り、夜には自宅に帰った。冷蔵庫のなかに余っていた適当な食材で夕食をつくり、風呂に入り、歯を磨き、ベッドに入る。
眠りにつくころには、咳が出始めていた。
インターフォンが鳴り、急いで着替えを済ませる。急かすようにもう一度、鳴る。すぐでる、と返事しようとするが、声がかすれてでない。ここ数日、わざと寝坊していると、あずさが迎えに来てくれるようになった。
玄関のドアを開けるまでに、二回ほど廊下でふらつき、足が止まった。体温を測るまでもなく熱がでていることがわかった。
「おまたせ」
ひどくしゃがれて、老いたような声がでた。今回の風邪は、特に喉にくる。
あずさもすぐに異変に気づいたようだった。目を合わせようとするが、いまいち焦点が合わない。けど、きっとわたしを見てくれている。
「チカ……」
続く言葉を待つ。すぐに部屋に引き返させようとするだろうか。一緒に学校を休んで、今日は一日つきっきりで看病をしてくれるだろうか。昼間はあの味の薄いおかゆを食べて、夜には少し回復して、あずさが寒い中、コンビニで買ってきてくれたプリンを食べる。そんな光景を思い浮かべる。
「ほら、行くよ。遅刻する」
「……うん。わかった」
まだ足りないみたいだった。大丈夫。学校に向かうくらいの気力はある。確かに以前引いた風邪よりも症状は軽い。もっと追い込まれて、もっと憔悴して、もっとボロボロになって、そんなわたしをあずさは看病したいのだ。うん、わたしもされたい。わかってるよ。ちゃんとわかってる。
「あと少しでクリスマスだね。どうする?」あずさが訊いてくる。吐いた息が白くなり、空にのぼっていく。
「どうしようか」
「どこか旅行に行きたいかも。上京用の資金がちょっと余裕あるから」
「温かいところに行きたい」
「沖縄は? なんか知り合いが沖縄でスカイダイビングしたって言ってた。やりたい」
くしゃみがでる。あずさが使っていたマフラーをわたしの首に巻いてくれる。ありがとう、と言葉が白い息となってのぼる。湯気みたいで、温泉も行きたいな、と思う。
他愛のない話を繰り返し、学校につく。会話の内容をほとんど覚えていない。気力だけで返事していた。あずさにそっけないと感じさせてしまったかもしれない。違う。違うの。ちょっと喉が痛いだけ。歩くと膝が痛いだけ。熱で何もかもがぼやけて、目を閉じれば一瞬で倒れる自信がある。ただそれだけ。
階段を上り、教室のある三階を目指す。あずさが三段分ほど先に行く。少しずつ、四段、五段、と差が開く。
「聞いたチカ? 数学の安井先生、結婚だって。体育教師の岩本と。先生同士の結婚ってほんとにあるんだね。あたししばらく恋愛はいいや。ここで無理して好きなひとつくることないし。藍川君ともあれきり連絡取ってないし。会えば挨拶くらいはするけど基本的にはもう無視」
「わたしも恋愛、よくわからない」
「クリスマスの旅行、上京の練習で東京に行ってもいいかも。必要なものも買いそろえたいし。観光するところもいっぱいありそう」
「いいね、楽しそう」
教室についたらギブアップしよう。そのまま保健室に運んでもらおう。あずさは授業の休み時間に来てくれる。嫌いな授業はサボるかもしれない。決して快適ではないパイプ椅子に座り、横で本を読んでいてくれる。
それから。それから、どうしよう。次は何をしよう。風邪のあとはどうしよう。またカビた食べ物でも口に入れようか。それとも――
「チカ!」
叫ばれて、はっとなる。視界にいたあずさが下に消える。彼女が倒れたのかと思ったがそうではなく、わたしが天井を向いたのだった。上がろうとした階段の、その一歩が途中で止まり、重力の大きな手に肩をつかまれ、そのまま後ろ向きにひっくり返っていく。
あずさが手を伸ばす。つかもうとしたけど、間に合わなかった。次の瞬間には、両足が階段から離れていた。このまま踊り場まで落ちていくだろう。やってくる衝撃におびえながら、もう目をつぶってもいいのだと安堵した。
4
天井が白かった。かけられたシーツも寝ているベッドも、仕切りのカーテンも、ぜんぶ白かった。異常なくらい白かった。天国に来たのかなと思った。ベッドに設置された手すりだけが唯一、灰色だった。左腕に鈍い痛みがあって、見ると太いチューブがさしこまれていた。ベッド横の点滴台へとチューブが伸びている。保健室ではなくここは病院だった。
看護師がやってきて、次に主治医が診察をした。肘と背中を打撲しているが、その他は問題ないということだった。「念のために検査をしましょう」と言い置いて、主治医が去って行った。カーテンが開けられて、さっそく検査かなと身構えると、やってきたのはあずさだった。目が合い、それからうつむいてしまった。
「ちょっとスカイダイビングの予行演習を」
冗談を言ってもあずさは顔をあげてくれなかった。深呼吸を一度はさんで、彼女が顔をあげる。弱い笑みを浮かべて、そなえつけの椅子に腰かける。
「生きてた。よかった」
「そんなおおげさな」
「でも、怖かった」
「大丈夫だって。骨は折れてないし、ヒビだって入ってない。風邪もなんか治ったみたい。見た目は派手だけど、この点滴も大したことないんだよ。すぐ抜ける。今日中には退院して、それから……」
右手をぎゅっとつかまれ、それで言葉を止める。あずさは泣いていた。ぬぐってもぬぐっても、どんどん涙があふれていた。そのうち声をあげて、ごめんね、ごめんね、と何度も謝られた。彼女が泣くたび、わたしも苦しくなった。涙がこぼれるたび、何かが失われていくようだった。
「ごめん、ごめん、ごめん……。あたし、調子に乗り過ぎた。チカが何してるか、わかってたのに。止めるどころか、一緒になって……」
何か言葉を返そうとして迷った。どう返すべきか、自分はどう答えたいのか、少しもわからなかった。そのうちに、あずさがこう続けた。
「もうやめよう。こういうの、もう、やめよう」
決定的な一言だった。
それを聞かないために、わたしは頑張るべきだった。その一言に捕まらないよう、必死に逃げ続けているべきだった。それでも終わってしまった。ここが限界だった。
涙は出なかった。嫌だ、まだ続ける。ずっとこうしているのだと、わめく自分も想像したけど、そんなことにはならず、不思議なくらい冷静だった。
階段から落ちるとき、伸ばしたあずさの手をつかめなかった。本当に間に合わなかったのかもしれないし、もしかしたら、わざとつかまなかったのかもしれない。続けたかったのかもしれないし、終わらせて楽になりたかったのかもしれない。どちらかひとつということはなく、きっと両方だろう。
「この前の風邪は、わざとじゃないんだよ」
あずさと、それから自分の両方を解放するために、そう言った。あずさが泣きやむまで、静かに返事を待った。見つめていた天井から、あずさの言葉が降ってきた。
「わかってる」
「泣かないでよ」
「泣いてないよ」
風邪を引いて看病されていたとき、お昼に流れていたテレビで、名前も知らないタレント夫婦がインタビューを受けていた。「夫婦円満の秘訣は?」という質問にこう答えていた。「同じ方向を一緒に見ていることだと思います」。生きていれば千回は聞くような言葉だった。みんなたいていそう答える。同じ方向を見ている。同じ方向を向いて一緒に歩いている。それが長くそばにいられる秘訣です、と。
でも、距離の測りかたは誰も教えてくれない。一緒に同じ方向を向いていて、じゃあそれはどれくらいの近さでそばにいるのか、誰も答えてくれない。人生のでこぼこ道を並走していて、距離が近過ぎればおたがいの肘がぶつかり、相手を怪我させるだろう。逆に遠過ぎればおたがいを見失い、気づけば違う道を進んでしまう。そうならないための、そばにいるための適切な距離を、誰も教えてくれない。
そしてわたしたちは、きっとその距離が近過ぎた。近づき過ぎて、おたがいを傷つけ、怪我させてしまった。
「少し離れてみようか」
どちらが言ったかはわからない。わたしの声のようにも思えたし、あずさの声のような気もした。離れよう。再びまた、適切な距離に戻れる確証はないけど。そのまま離れて、二度と近づくことがなくなるかもしれないけど。それでも一度、離れよう。それがわたしたちに必要なことだった。
検査の時間です、と看護師が病室に入ってくる。きっかけを見つけたように、あずさが椅子から立ち上がった。あずさに気づいた看護師が、「お見舞いにきてくれたのね。やさしい友達がいるのね」と、笑う。
病室からあずさが去って行き、足音が完全に消えたところで、わたしはようやく泣いた。
5
クリスマスは旅行には行かず、結局、あずさの家でゲームをして過ごした。ケーキとチキンを食べて夜には帰った。チキンはしっかり焼けていた。
大みそかは祖父母の家に帰り、初詣は行かずに正月を過ごした。あとになって、あずさが正月の間、風邪で寝込んでいたことを知った。あずさは自力で風邪を治した。
あれからわたしは一度も怪我という怪我をしていない。二月に、凍った道路で一度すべって転んだくらいだった。
卒業式の三日前、一度だけあずさがわたしの家に泊まった。たくさんのスナック菓子と、たくさんの雑談にまみれて一夜を明かした。
三月の終わり、あずさが東京に向かう日になった。駅まで見送るついでに、彼女の荷物を少し持ってあげた。駅に向かう間、あずさは重そうにキャリーケースを転がし続けた。ごろごろ、と車輪が転がる乱暴な音にまぎれて、あずさが言った。
「東京に遊びにきたら、タダで泊めてあげる」
「ありがとう」
「おたがいに新生活が落ち着いたら、会いたいね」
「そうだね。長期休みには戻ってくる?」
「その予定」
叶わない約束を、いくつも交わしてしまった気分になる。ちくりと罪悪感が刺さる。きっとあずさも、同じ気持ちだろう。ひとつくらいは叶うだろうか。でも、時間とともにどれもが順番に腐り、きっと風化していく。
こうして離れた先、わたしたちの軌道が再び重なる確率はどれくらいか。何と比べて簡単で、何と比べて難しいことなのか、比較の対象を見つけようとしたけど、探そうとするうち、駅についてしまった。
ロータリーをぬけて改札を目指す。かつてそこに停まっていた、献血用トラックを思い出す。最近はめったに訪れず、いまはハトの群れが枯れ葉をつついているだけだった。
改札口までにしようと思っていたのに、気づけば足が勝手に改札を通っていた。財布のなかのICカードは、幸か不幸か、入場料金分は入っていたらしい。
階段を上っていると電車がやってきた。急げばぎりぎり間に合いそうな気がしたが、あずさは走らなかった。出発を引きのばそうとするみたいに、次の電車を待つ。ただ単純にキャリーケースが重かっただけかもしれない。
最近観始めたゲーム実況の動画配信者が面白いことを無駄に語っているうち、電車がやってきた。降りてくるひとがいなくなり、あずさは乗り込んでいく。振り返ったところで、わたしは言った。
「じゃあね」
「うん。元気で」
「そっちも」
発車のベルが鳴る。ドアが閉まる瞬間、彼女が最後に言ってきた。わたしは思わず噴き出してしまった。
「風邪ひくなよ」
電車が完全に見えなくなったあと、階段を降り、改札を抜ける。ロータリーの前で信号待ちをしている最中、留めていたコートのボタンが、ひとつだけ外れていることに気づく。信号が変わる前に、しっかりと留めなおす。
ボタンを直したあと、人差し指をふとながめた。指の腹にできていたあの傷はとっくにふさがり、きれいな皮膚がそこにあった。
信号が青になる。前より少し頑丈になった指の腹をさすりながら、わたしはあなたから離れる。
( 了 )