半田畔の恋愛小説【短編】『きみのチョコは食べられない』
バレンタインデー!! 半田畔さんから短編小説をこの日に合わせて預かったので掲載します。ゲームアプリを通じて交わされるひそやかな恋……半田さんの繊細な文体でつむがれた傑作!! バレンタインの余韻の中で読むのにふさわしい感情が詰め込まれています!! ぜひぜひ読んでみてください!!
作者プロフィール
半田畔(はんだほとり)
2012年、ジャンプ小説新人賞銀賞を音七畔名義で受賞、『5ミニッツ4エヴァ―』でデビュー。2015年に「風見夜子の死体見聞」が富士見ラノベ文芸大賞・金賞を受賞、同作を刊行、以後半田畔名義で活動。一迅社文庫大賞の審査員特別賞を受賞、『人魚に嘘はつけない』を刊行する。集英社文庫『ひまりの一打』など著作多数。
きみのチョコは食べられない
1
どんな顔をしていたと思う?
所属しているバドミントン部の、団体戦のレギュラーを決める選抜試合を行っていたとき。シャトルを追って飛び込み、左足をひねったとき。怪我を見てもらった医者に、しばらく運動を控えろと言われたとき。試合を休めと顧問の先生に言われたとき。団体戦どころか個人戦の出場すらできないとわかったとき。
唯一の救いは、鏡がそばになかったこと。自分の情けない顔を見ずに済んだこと。きっとわかりやすく、失望や悔しさを表には出していない。だけど目を覗きこめば平然としていないことがバレてしまう。浮かべた笑みに中身が伴っていない。涙は出てこないけど、内側では常に叫び続けている。そういう、痛々しい顔。
二月から始まる県予選大会。僕は逃げるように体育館から去った。ほかの部員のサポートをするよう顧問に勧められたが、足が向かなかった。そこにいられるのは選手の自分ではない。体育着とジャージで運動する集団のなか、制服のまま、コートのわきに立ち、それを眺める自分。着ている制服のなかに潜む、足に巻かれた包帯をみんなが見ている。耐えられない。
いつもより三時間早い帰り道、店先のガラスにふと、自分が映った。普通に立っている。歩くこともできる。声も出せるし、飯も食べられるし、風呂にも入ることができる。だけど唯一、バドミントンだけはできない。そんな自分の体。
見つめていると、出てきた店員に声をかけられた。
「寒いので、なかどうですか?」
体型のふくよかな男性。父親と同じくらいの年齢。白い制服を着ていて、店内に意識をやると、自分が立っていたのがケーキ店の前だと気づいた。
「あ、すみません。そうじゃなくて」
「はい?」
「店じゃなくて、これを見てて」
とっさに近くに張ってあるチラシを指さした。何かのキャンペーンやセールだと思い、適当に聞いてその場を立ち去るつもりだった。季節のケーキですとか、旬のフルーツを使ってどうたらとか、購入でポイントがいつもより二倍だとか、そういうことが書かれているのだと思っていた。それがアルバイト募集の広告だと気づいたのは、店員が説明を始めたときだった。
「二週間くらいのアルバイトなんですけどね。バレンタイン用のチョコを販売してもらう仕事になります。人手が足りなくて」
募集広告にも同じ内容が記されていた。就業期間が、ちょうど大会の時期と重なっていた。自分が出られない試合の日をどう過ごそうか、ここ数日ずっと考えていた。
よかったら、と店員が募集広告のコピーをくれた。家に持ち帰り、机に置いてベッドに寝転んだ。夕食を済ませ、風呂に入り、再び部屋に戻ったところで電話をかけた。
翌日。履歴書を用意し、簡単な面接を受けて採用された。
週に五日、約二週間の間、僕はバレンタインチョコを売ることになった。
僕に仕事内容を伝えたのはあのふくよかな体型の男性だった。名前を上田さんといい、店員ではなく店長だと面接のときに知った。店長の上田さんから勤め先が店ではないことを知らされたのは、出勤当日のことだった。
「ここじゃなくて、ショッピングモールにブースを置かせてもらっててさ。そこでチョコの販売をしてもらいたいんだ」
静かで落ち着いた店内で働けると思っていたら、連れてこられたのは賑やかでひとの行き交うモールの四階だった。店長の言っていた通り、エスカレーターを上がってすぐ横のスペース、一〇畳ほどの一区画分が、出店ブースになっていた。視界のなかを常にひとが横切る。思っていた職場環境と違うが、いまさら断れるような状況でもなかった。
何より、チョコというのは僕にとっては都合がよかった。店長とともに商品の搬入手伝いをしていると、ちょうどそのことを訊かれた。
「葉山くん、面接でも言ってたけど、チョコアレルギーっていうの本当なの?」
「カカオアレルギーですね。食べると湿疹が出ます」
「可哀そうに」
「僕ならつまみ食いをしない、良い店員になれますよ」
食べられないものを仕事にしたのは英断だったと思う。前に寿司が好きだという理由で、回転寿司店のアルバイトを始めた友達がいたが、結局三か月でやめてしまった。家に帰っても酢の匂いがとれず、うんざりしたらしい。労働環境も友達にとっては苛酷だったらしく、寿司を見るたびに辛い記憶を思い出すようになったそうだ。好きだったはずのものに、余計な記憶がこびりつく辛さを僕は知っている。
チョコであればそういう痛みはない。もしもこの二週間ほどの短期アルバイトが嫌なものになったとしても、チョコであれば別にいい。チョコを見てその経験を思い出しても、元々食べられないから、僕に支障はない。
「それなら一緒に働く子でも見張ってて」冗談の口調で店長が言った。そこでまた新しい情報を得ることになった。
「ほかにもスタッフが?」
「うん、もう一人雇った。あれ、確か同じ高校じゃないかな?」
話をしてから五分としないうちに、もう一人のスタッフがやってきた。制服を見て、店長の言う通り、同じ高校の生徒だと気づいた。さらにその顔を見て、同じ高校どころか同じ学年の女子だとすぐにわかった。なぜすぐに顔を見てわかったのかといえば、彼女は同じ学年どころか、同じクラスの吉宮見鈴さんに間違いなかったからだ。
吉宮見鈴さんとはあまり話したことがない。というより一度も話したことがないかもしれない。同じクラスメイトではあるが、それくらい、お互いのテリトリーが異なっている。だけど顔と名前を知っている分、知っているからこそ、余計に少し気まずかった。
業務を始めて二時間、僕たちは一度も会話を交わしていなかった。横に立つと、彼女の身長は意外に高いことがわかった。気を抜いて猫背になれば、見た目は彼女のほうが背が高く見えるかもしれない。耳が大きく、わかりやすい形をしている。というより、耳のサイズに対して顔が少し小さいのかもしれない。僕の視線に気づいたのか、途中で髪をおろして耳を隠してしまった。ひとの横顔を、それも耳というピンポイントな部分をじろじろと見る嫌らしいクラスメイトになりかけていた。普段ほとんど話さないという関係が、なんだかさらに変態性を増している気がする。これ以上気まずくならないうちに、話題を振ることにした。
「吉宮さんはどうしてこのバイトを?」
彼女は答えてくれなかった。
「僕はカカオアレルギーで、食べられないチョコなら仕事にしても問題ないかなって」
答えてくれなかった。
「吉宮さんはチョコは食べる? お客さんの試食用にいくつか商品開けていいって言ってたから、開けてみる? 少しくらい食べてもバレないと思うけど」
答えなかった。
誰かに殺してほしかった。話すたびに十秒前に遡りたくてたまらなかった。そうやって自分の首を絞め続け、とうとう喋る気力も果てた。
なんでもいいからこの気まずさを打開するきっかけが欲しかった。接客ができればそちらに意識が集中できるので、ぜひとも客が来てほしいと思ったが、なぜか一人も寄り付かない。
モール内で流れる曲名もテーマもわからないジャズを聞きながら流れるこの時間をなんとかしてほしかった。近くの雑貨店や、その店員が忙しそうに働いているのを見ていると、自分たちだけが隔絶され、浮いているような気持ちになった。唯一、通路を挟んだ真横に立つアパレル店の男性店員が退屈そうに店内を徘徊しているのを見て、親近感がわいた。
目の前の通路を、モール客が行き交うのを眺める。レジカウンターで立ち続けているうち、怪我をした左足が、一瞬だけピリっと痛んだ。
僕が吉宮さんの声を初めて聞いたのは、休憩時間に入ってからだった。
様子を見に来ていた店長との交代で、僕たちは簡易的につくられたバックヤードのスペースで三〇分ほどの休憩を取ることになった。休憩スペースは仕切りで覆われていて、客側からは見えないようになっている。腰かけたパイプ椅子の横には、商品であるチョコレート菓子が封入された箱が山となってつまれている。ノルマという直接的な言葉を店長からは聞いていないけど、ここに持ち込んでいるということは、できればこれだけ売りたいという意思の表れだろう。
ちなみにチョコが売れない理由はすぐにわかった。僕らの接客態度にも改善すべき点はたくさんあったが、一番の問題はショーウィンドウの照明を点け忘れていたことだった。照明があるのとないのとでは、チョコの見映えが段違いとなることを学んだ。ただでさえ明るい店内で、暗いショーウィンドウ内を見る客など確かにいない。
店長がブース内に立つと、ものの一〇分で生チョコが三箱売れた。試食用に開けた一箱もあっという間に空になった。店長は決して僕らを怒らなかった。怒られないということは、つまり期待もされていないということだ。部活から逃げるという不純な理由で始めたアルバイトだけど、与えられた役目はせめて果たしたかった。
僕の向かいでは、吉宮さんがぱくぱくと持参した弁当をたいらげ、スマートフォンをいじり始めていた。横向きにしていて、何かのソーシャルゲームをやろうとしているのがわかった。まともな接客ができなかったことへの反省の様子はない。上がりも下がりもしない彼女への評価の針が、初めて不信感を抱くほうに振れそうだった。コミュニケーションをとったり、干渉したりするのはよそうと決めた、その瞬間。
「っ!」
彼女のスマートフォンからメロディが流れた。音量設定を間違えていたらしく、あわてて右手の人差し指でボタンを操作し、音量を下げていく。僕もたまにやるミスだ。移動中の電車で片手間に動画を見ようとして、音量を下げずに再生したとき、恥ずかしい思いをした。
本来ならそっと、意識しないフリをするのが正解なのかもしれない。だけど彼女の出した音に聞き覚えがあって、思い出すと同時、こりずにまた声をかけていた。
「それ、『イマジン』?」
スマートフォンの画面から吉宮さんが顔をあげてくる。単語に反応したということは、僕の記憶は正しかったようだ。『イマジン』と呼ばれるソーシャルゲームの、タイトル画面に流れるBGM。
「葉山くんもやるんですか?」
それが吉宮さんの第一声だった。ゲームに関する話題。その入口の言葉。喋ったことも意外だったけど、彼女が一緒に働く僕の苗字をちゃんと覚えていることにも、驚いた。
初めて正面から目を合わせる。通った鼻筋に、見開かれた瞳。その下の、薄いクマをつけた目元。そして耳。髪で隠していても、顔の大きさに対して、やはり存在感がある。
「部活の友達に薦められて。ちょっと前から」
「古参じゃないんですね」
古参? 言葉の意味がつかめず迷っていると、吉宮さんが同じゲームを起動するよう、僕のスマートフォンを指さしてくる。
『イマジン』を起動してすぐ、操作キャラクターがあらわれる。同い年くらいの少年、金髪で外国の名前。操作キャラクターを変えられるらしいが、まだ変えたことはない。
町の鍛冶屋の前でセーブをしていた。作業着を着た鍛冶屋の店主が、腕を組んだり、おろしたりと、プログラム通りの動きを繰り返している。武器をつくろうとして、手持ちの資金が足りず悩んでいたところだったと思いだす。ずいぶん久しぶりにログインした。課金をすれば強いアイテムがそろうが、僕は無料でできる範囲でプレイしている。
山や海、町にそびえる城、道の途中の崖。目に着いた場所ならどこでも行ける。だけどそれに必要な装備やアイテムは、自分で工夫してそろえないといけない。ハマるひとはこの自由度と、適度な不自由さに魅了されるらしい。僕はというと、正直、頓挫しかけていた。なるほど、広がる風景はきれいなのだろうけど、どこまでいってもそれはデータで、暇つぶしのゲームだからと、ストップがかかる。風が吹けばキャラクターの髪はなびくけど、自分の頬に当たるわけではない。暑い場所に行っても汗はかかないし、寒い場所に行っても体は震えない。
ぐい、とテーブルに身を乗り上げて吉宮さんが画面を見てくる。その積極性をバイト中も見せたらいいのにと思う。
「初めてまだ一か月くらいですね」
「どうしてわかるの?」
「わかります」
ちらりと、吉宮さんの画面を覗く。右上に表示されたランクを見て、僕と彼女の経験には埋めようのない差があることを知った。一桁以上も違う。操作するキャラクターも僕が使うような少年ではなく、大人の男性を使っている。背負っている大剣にとてつもない迫力がある。
ぎし、とテーブルが鳴る。自分が勢いで乗っかっていたことに気づいた吉宮さんが、恥じらうように、あわてて元の席に戻っていく。とにかくこれでわかった。彼女と打ち解けようとするなら、ゲームの話題が良いらしい。この約二週間のアルバイト生活を気まずく過ごさずに済むヒントを、ようやく手に入れた。
さらに思いつく。フレンドコードを教えてもらおう。お互いに登録しあえば、オンライン上でも一緒に遊べる。経験者の彼女に色々とサポートしてもらえることがあるかもしれない。僕も手伝えることがあれば彼女の力になる。これをきっかけに『イマジン』に復帰してもいいかもしれない。ゲームでの交流が、結果として現実のアルバイトの雰囲気を変えるのだ。
「吉宮さん、フレンドコード教えてよ」
「え、普通に嫌ですけど」
吉宮さんは難しかった。
翌日の日曜日。慣れたのか、二人とも動きに無駄がなくなってきていた。試食用のチョコを三箱ほど開けて、トレイにだす。ショーウィンドウ内の照明も忘れずにつける。吉宮さんは相変わらずレジのところから移動しようとしなかったが、その分、会計はとてもスムーズだった。もしかしたら別の所でアルバイトをした経験があるのかもしれない。
休憩時間には『イマジン』を起動して遊ぶ。吉宮さんは僕に遠慮せず、音を出すようになった。ちらりと、わかりやすく覗くフリをすると、言ってきた。
「学校とか、家族とか、現実で関わってるひとと離れられるからゲームをしてるんです。だからフレンドコードは教えません」
「僕をフレンドにすると、きみのゲームに現実を引き入れてしまうことになるのか」
「だいたい、このアルバイトだって学校のひとと関わる予定はなかったのに」
それから吉宮さんは、ぶつぶつと独り言を漏らす。でも、とか、そうだよね、とか、何か自分に言い聞かせているのがわかった。
休憩時間が終わると吉宮さんに変化があらわれた。自分で試食のトレイを持って、ブース内を回り始めたのだ。通路を歩くお客さんにも声をかけていた。人格が変わったみたいに、行動的になっていた。
吉宮さんは予想外だった。
週明けの月曜日、吉宮さんと初めて教室で会う日。もちろんこれまでも、僕も彼女もこの同じ教室にいた。だけどお互いの世界のなかには存在していなかった。初めて意識のなかに彼女がいる状態で、僕は教室に入った。
吉宮さんは廊下側の前から二番の席に座っていた。ゲーム好きの仲間と一緒に話しているようなイメージがあったが、彼女は一人で本を読んでいた。話しかけにくるほかの生徒の影もない。
吉宮さんが席を立ち、廊下に出ていく。鞄を置いて、雑談している生徒たちの間を抜け、僕も用があるフリをして廊下に出る。
「おはよう」
すれ違いさま、偶然出会った風を装って挨拶する。吉宮さんは会釈だけして、そのまま通り過ぎて行った。想像していた形と違い、恥ずかしい気持ちになった。
大人しく教室に戻ろうとしたところで、誰かに背中をつままれた。振り返ると、予想よりもずっと近い位置に吉宮さんが立っていた。思わず飛び退く。
「わたしには話しかけないほうがいいです」
「……それってどういう意味?」
「とにかく、話しかけないでください。葉山くんのためです」
吉宮さんは立ち去り、トイレに消えていった。その言葉の意味を、僕は友人から知ることになった。
席に戻ると友人が貸していたノートを返しにきた。木崎といい、勉強はいまいちだが交友関係は常に抜群な男だった。卒業アルバムのランキングで「将来、早く結婚しそうなひと」の三位くらいを取りそうな男。それからバレンタインのチョコを一つ以上は確実にもらえそうな男。女子や男子、隔てなく交流がある彼なら、何か知っているかもしれないと思った。
「吉宮さんって知ってる?」
「同じクラスの? もちろん」
「どういうひとかわかる?」
「なんだその質問」
自分で話しかければいいじゃないか、と、返されそうな気がしたが、木崎はそこで少し黙った。実際にそう返そうとして、躊躇したのがわかった。彼の態度で、彼女にはひとを遠ざける何かがあるのだと悟った。
「噂がひとつある」
「噂? どんな?」
木崎は隣の生徒の椅子を引っ張り出し、僕の近くに座る。不快にならないぎりぎりの距離まで近寄ってきて、小さく言ってきた。
「援交してるらしい」
2
吉宮さんとシフトが重なったのは、それから二日後のことだった。週五日のシフトなので、お互いがいない日もある。二人体制でこのブースは回されることになっている。僕や彼女の空いた一人分の穴は、店長やほかの店員さんが埋めにきてくれる。
吉宮さんは僕の横で試食用のチョコレート商品をカットしている。いまのところ、勤務中はほとんど喋らない。だから僕の態度も吉宮さんには見抜かれていないはずだった。同じゲームをやっているよしみで交流が生まれたかと思ったけど、今日は彼女の耳の大きさを覗き見する余裕もない。
援助交際。たったひとつの単語が頭をめぐる。どうしてそんな噂が立ったのだろう。どこかでそういう現場を目撃した生徒でもいたのか。彼女がそういうことをする姿はちょっと想像できない。いや、案外わからない。平気でするのかもしれない。見た目が派手な子よりも、大人しい子のほうが、学校の外の時間では豹変するのかもしれない。わずか数日関わっただけだけど、僕の予想通りに吉宮さんが動いた試しがない。
そして自分にそういう噂が立てられていることを、彼女自身も知っている。だから話しかけるな、と僕に忠告をした。巻き込まれるぞ。餌食にされるぞ。孤立するぞ。遠ざけられるぞ。お前の居場所はなくなるぞ。
「課金です」
「え?」
「課金のためです」
こちらを見ることなく、チョコをカットしながら、彼女が言ってくる。なんのことかわからなかった。僕に話しかけてきたのかどうかも怪しかった。もしくは心が読まれたのか。課金。課金ということは、あのソーシャルゲームの課金だろうか。まさかそれが援助交際の理由?
「このバイトを始めた理由。初日、葉山くんが質問したでしょう」
「……ああ、そうか」
どんな顔をしている? 自分に問いかける。平静を装えているだろうか。滞りなく、適度に仲間とコミュニケーションを取りながら業務を果たしている菓子店の店員に見えるだろうか。たぶん見えない。きっと見えない。だからこそ、今日は吉宮さんから僕に話しかけてきたのだろう。
「『イマジン』に課金するため? そのためにアルバイトを?」
僕が訊くと、そうです、と短く答えが返ってきた。トレイに並んだチョコを、吉宮さんが持ってブース内を歩き始める。商品を眺めていた数組の客が近づいてきて、あっという間にトレイが空になる。試食をした客のうち、二人がレジにやってきて会計を済ませていった。僕と吉宮さんの小さな連携。
戻ってきて、客が落ち着くと、また会話を再開した。
「特に好きなゲームなんです。推しにつぎこんできたのに、あっさりサ終しちゃうゲームもあるけど、『イマジン』くらいの規模ならたぶんその心配もないですし。ストーリーのクオリティも安定してて、キャラの言動に矛盾もないし、だから安心して推せるし、キャラ単体もそうですけど、あの世界観自体にも惚れていて。そうやって好きなものにお金をつぎこんでいるときが一番幸せなんです」
ところどころの単語の意味はわからなかったが、彼女が本音で語っていることだけは理解できた。何にお金を使うかは自由で、だからこそ、そのひとの本質が出る。吉宮さんの場合はソーシャルゲームに使う。
なら僕の場合は? バドミントン? 少し前まではそうだった。ラケットのメンテナンスやシャトルの調達。いまはこうして遠ざかっている。僕だけが食べられないチョコを買っていく客を、眺め続けている。
「部活で怪我してさ。バドミントンの。本当は大会前のほかのメンバーのサポートをしないといけないんだけど、こうしてサボってる。働いてるっていう口実が欲しかった」
「怪我は大丈夫なんですか?」
「立っている分には問題ないよ」
本当はたまに、ピリ、と痛みが走るときがある。だけどわざわざ、口にして吐き出すほどの苦しさでもない。誰かに伝えるだけ、みじめになるのがわかっているから、飲みこんで我慢する。
「カカオアレルギーっていうのは嘘ですか?」
「いや本当。だから余計に都合がよかった。働いて何か嫌な経験をしても、チョコなら、まあいいかって。思い出しても害はない」
「賢いですね」
「性格が悪いとひとには言われる」
「わたしはそうは思いません」
吉宮さんはまっすぐだった。
答え方が気持ちよくて、思わず、こちらも口が軽くなる。
「自分が活躍できない大会を見学するなんて嫌だ。自分が出るはずだったコートにほかのメンバーが立っているのを見るなんて、耐えられない。だからここにいる」
「やっぱり性格、悪いですね」
吉宮さんが小さく笑った。初めて見た、表情の明確な変化だった。僕の不純な動機を、彼女は笑ってくれた。
店長が交代にやってきてくれるまで、まだ時間があった。休憩時間のときに訊いてもよかったけど、いまの雰囲気のなかでないと踏み込めない気がした。
「噂は嘘なの?」
「経験したことがあるのは、工場でのピッキングと商品の箱詰め、ダイレクトメールの包装くらいです」
援助交際と似ているところがあるとすれば、その日限りのお仕事ってことくらいですね。彼女はそう言った。それが答えだった。彼女は続けて、自分の噂が立つことになった原因も教えてくれた。
「ゲームの画面を友達に見せたんです。ランクがすごいねとか、装備がすごいねとか、色々褒められて調子よくなって課金してることを話しました。その額を聞いてみんなが引いた顔をしたのを覚えてます」
「なるほど」
吉宮さんの場合、その額がほかのひとと比べると凄かった。どうやってそれだけつぎこめるのかわからなくて、高校生でも大金が手に入る方法という安易な発想から、不名誉な噂が流れた。
「噂をなんとかしようとは?」
「叫びたいですよ本当は。お前らがカラオケ行って遊園地行って誰かの家でセックスしてる間もわたしは日雇いバイトで稼いだんだって。欲しい服やコンビニの買い食いやデートにかけるお金をすべてゲームにつぎこんでるんだって。でもいいんです。そんな暇があるなら稼ぎます。チョコを売り続けます」
彼女は商品を開けて、試食用にチョコをカットしていく。店長に許可された三箱をとっくに超えていた。僕は指摘しなかった。
「どうして日雇いとは別にこの仕事を?」
「日雇いで稼いだお金は学費のために貯金することにしました。だから課金する分は、別のバイトで稼ごうと。ここ稼いだお金は、すべて課金のために使うって決めてます。二週間は、わたしにとっては初めての長さです。挑戦です。頑張ります」
吉宮さんは強かった。
アルバイトを始めて五日が過ぎようとしていた。相変わらず、僕と吉宮さんは学校では話さない。お互いに干渉しないことが暗黙のルールとなっていた。
教室の彼女は一人で読書をしていることが多かった。ソーシャルゲームで遊ばないのかとバイト中に訊いたら、前に遊び過ぎて教師に没収されかけたことがあったそうだ。彼女は昼休みになると必ずどこかに消える。どこで昼を過ごしているのかとバイト中に聞いたら、裏庭にあるベンチだそうだ。そこだとソーシャルゲームをしても見つからないし、隣に建っている図書館の無料ワイファイが拾えるのだと、嬉しそうに明かしてくれた。
二月一四日が近づくにつれ、客の数も増えていった。バレンタインデー当日はどれだけの客が来るのだろう。いや、当日よりも前日あたりが多いのかもしれない。接客をしながら、まだこうやってわきで何かを考えていられる程度には余裕があった。
客のなかにはカップルで買っていくものもいた。どちらが商品の袋を持つかという、じゃれあいみたいな喧嘩をしながらそのカップルが去っていく。
「チョコを買っていくやつら、全員何かの落とし穴にでも落ちればいいのに」
「バレンタインは嫌いですか」
「クリスマスの次くらいには。そろってみんな、幸せにならないといけない雰囲気になるのが苦手だ。チョコの数は幸せのゲージですか」
「自分用に買っていく客もいたみたいですよ」
「吉宮さんはバレンタインは好き?」
「嫌いではありません。バレンタインイベントはもらえる報酬が増えるので」
ブレない吉宮さんだった。
「それにバレンタインが憎くても、チョコに罪はありません。チョコ死に給うことなかれ、です」
「なにそれ?」
「与謝野晶子の反戦の詩をもじりました。知りませんか、与謝野晶子」
名前は聞いたことがあった。文学やそういう系統にも明るいのだろうか。吉宮さんはいつもよりも大きな笑顔になっている。どうやら自分で言った、『チョコ死に給うことなかれ』のジョークがツボに入ったらしい。面白さがよくわからない。
「一年生のころは文芸部だったので」
「へえ、文芸部。吉宮さん部活入ってたのか。確かにイメージ通りだ」
「部員を殴って以来、追い出されて幽霊部員になりましたが」
「ぜんぜんイメージ通りじゃなかった」
試食用のチョコをカットするため、小型の包丁を握る彼女の手を見る。小さな拳。とてもひとを殴った手には見えない。
「殴ったというより、突き飛ばした感じですね。当時は別のキャラクターゲームにはまってて、推しのキャラの悪口を言った子がいたんです。それで喧嘩になりました」
「噂に尾ひれがつきやすいんだね、吉宮さんは」
「援助交際の噂を広めたのも、きっと喧嘩したその子だと思います。まあもうどうでもいいんですけど。気にしてませんし」
客がやってくる。吉宮さんが接客対応をする。気づけば列ができようとしていた。あわてて後ろに並ぶ男女(またカップルだった)を呼び、僕もレジ対応をする。しばらく列が途絶えなかった。夕方の六時を過ぎて、さらに客足が増える。本店が忙しいのか、店長もまだ応援に来てくれない。
ひとの波が落ち着くころには、八時になっていた。いつもの休憩時間をとっくに過ぎていた。一試合分をこなしたみたいに、息があがりかけていた。
「チョコ死に給うことなかれ」
自分を静めるように言い聞かせる。
横で吉宮さんが、また噴き出した。
日曜日。先週のいまごろとは打って変わり、客の数がさらに増えた。一日中忙しく、店内の毒にも薬にもならないジャズBGMに文句を言う余裕すらもなかった。
今日は出場するはずだったバドミントンの試合の日でもあった。部員の一人として、出場するメンバーのサポートのために同伴し、体育館にいてもおかしくない時間だった。何かの呪いみたいに、今日に限って、怪我した足がよく痛んだ。昼の休憩時に念のために持ってきた鎮痛剤を飲んだが、うまく効いてくれなかった。
夕方ごろになって吉宮さんが僕の異変に気づいてくれた。
「休んでいていいです。いまは客もそれほど来ていないので。どうぞ休憩室へ」
「でも」
「ここで無理して残りの一週間、葉山くんが出勤できなくなるのは困ります」
吉宮さんは頼もしかった。あなたがいなくなるのは困ります。そういうささいなメッセージが、なぜだか無性に嬉しくて、少し泣きそうになった。
休憩をはさむとだいぶ楽になり、戻るとブース内に客はいなかった。吉宮さんはチョコをつまみ食いしていた。僕に見つかり、あわてて顔を隠す。もごもごと口を動かしているのが、後ろからでもわかった。僕は吉宮さんが好きになった。
次に立てなくなったのは、吉宮さんのほうだった。前触れもなく、それは突然起こった。起こったというより、向こうから訪れた。
水曜日。放課後にショッピングモールの出店ブースに集まり、午前中のシフトだった主婦の二人と交代する。吉宮さんはたいてい僕よりも早く到着している。同じ時間に、同じ場所から移動しているはずなのに毎回不思議だ。ちなみに一緒に向かうことはない。誘ってみようか迷っているうち、バイトの期間は残り五日になっていた。
学校にいる間は目すら合わさない。バイト中は親友みたいによく話す。じゃあ、その中間の出勤中の時間は? もしも気まずい思いをしたらと思うと、踏み出せなかった。バイト中にまでその雰囲気を引きずってしまうかもしれない。
あと五日。これが終わればどうなるだろう。彼女と話す唯一の場所と時間。なくなれば、残るのはお互いに無関心をつらぬく学校のなかでの時間だけ。そこを変えるのは難しい気がする。僕だから特別に、と学校での態度を変えてくれるかは自信がない。僕と同じような強さで、彼女がここでの時間に居心地の良さを感じているかはわからない。それにもともと彼女は、学校のひとたちと関わりたくなくて、このバイトを選んでいる。
吉宮さんが急にレジの下に隠れだしたのも、まさにそれが理由だった。
初めは体調が悪くなったのかと思った。しゃがんで同じ目線の高さになり、声をかけても、彼女は僕を見ようとしなかった。そうしているうちに、彼女の顔色が白く、血色を失っていくのがわかった。
「いる」
「え? なに、誰が」
「クラスの子たち」
レジの陰から立ち、そっと見まわす。ブース内の入口付近で、うちの制服を着た女子生徒が四人、商品を手に取り、眺めていた。彼女の言う通り、クラスメイトの女子で間違いなかった。
クラスのなかで、彼女の噂を知っている生徒は少なくない。援助交際。不名誉な噂。男子はともかく、女子の間ではほとんどに知れ渡っているはずだと、前に教えてくれた。
吉宮さんが隠れているうち、女子グループが去っていくのが見えた。嵐が通り過ぎたことを告げるが、彼女は立とうとしなかった。
「また戻ってくるかもしれない」
「それなら、見せつけてやればいいじゃないか。ちゃんと働いてるって」
「だめ。それはできない」
彼女は続ける。僕は自分の想像力の不足を、恥じることになった。
「次にどんな噂を流されるか、わからない。そんなの嫌。もう、嫌」
思わぬ方向に事態が進む。収拾がつかなくなる。その恐ろしさを彼女はすでに味わっている。きっと最初のころは噂を否定していたのだろう。だけどそれより早く、広まってしまった。彼女はあきらめて、隠れることにした。
「休憩室に行こう」
肩に手を置き、立つよう促す。目線があちこちに泳ぎ、口が半開きのまま閉じない。立つときにぐらついたので、彼女をささえた。「すみません」と、小さく笑うが、笑みがひきつっていた。身長に反して、彼女の体はひどく軽く感じた。
休憩スペースに連れて行き、僕は一人でレジに戻った。接客中、彼女が休んでいる後ろのスペースから、『イマジン』のタイトル画面で流れるBGMがかすかに聞こえた。音はすぐに途切れて、聞こえなくなった。
二時間ほどが経ち、落ち着いたところで様子を見に行った。
吉宮さんはいなくなっていた。
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「吉宮さん、もう来ない感じかな。土日残ってるんだけどなぁ」
金曜日。ヘルプに入ってくれた店長とともに、レジに立つ。吉宮さんはあれからバイトに来なくなった。休んで今日で二日目だ。
昨日は学校に来ていたが、今日は登校すらしてこなかった。教室にいたときに話せばよかったのかもしれない。きっと自分で立ち直り、午後にはここで一緒に働くことになると予想していた自分が、とても愚かだった。
僕は彼女を誤解していた。理解している気がしたけど、とんでもなかった。わかっているつもりなんて、おこがましかった。
吉宮さんは難しくなかった。自分を助けてくれるゲームのために頑張れる、一生懸命なひとだった。
吉宮さんは予想外じゃなかった。初めての長い期間のバイトをやりきろうとする、ひたむきなひとだった。
吉宮さんはまっすぐじゃなかった。自分の不安や恐怖を、力強い言葉で隠すのが、上手なひとだった。
吉宮さんは強くなかった。
噂を広められれば、普通に傷つく、一人の女の子だった。
わかりやすく、失望や悔しさを表には出していない。だけど目を覗きこめば平然としていないことがバレてしまう。浮かべた笑みに中身が伴っていない。涙は出てこないけど、内側では常に叫び続けている。そういう、顔。僕もかつて、怪我をしたときに浮かべていたはずの顔。
この約二週間、きっと僕は誰よりも近く彼女のそばにいたのに、わかってあげられていなかった。
休憩スペースで店長は頭をかかえていた。手元には履歴書があった。『吉宮見鈴』。彼女の名前と、感情をつかませない、無表情の写真。
「履歴書に書かれた電話番号にかけても出ないし。どうにかして連絡取れないかなぁ。いまさらヘルプもいないし」
「僕、なんとかしてみます。バイトが終わったら彼女と会ってみます」
「え? できる? そうしてくれたらありがたいな。あ、でも連絡先とかは?」
「交換してません。住所も知りません。でも大丈夫です」
彼女について、たくさんのことを誤解していた。だけどまったく、何もわかっていなかったわけじゃない。
僕はスマートフォンを取り出す。
「居場所なら、知っています」
目の前に草原が広がる。風になびく草花の動きがとてもリアルだ。地平線の向こうに山がそびえている。雲がうずまき、雷が光っているところもある。野生のユニコーンが目の前を走り去る。筋肉質な脚で、力強く大地を蹴る音が鳴る。飼いならして走ることもできるし、討伐して角を高価で売ることもできる。いまは足が欲しかったので、追いかけてつかまえる。
『イマジン』は七つのエリアにフィールドが分かれている。一つのエリアをくまなく回るだけでも半日はかかる。全部回るころには夜が明けるどころか、バイト最終日のバレンタインデーすら過ぎているかもしれない。
彼女はどこだ。フレンド登録をしていれば現在地の共有ができるが、最初に会ったときにフレンドコードは教えてもらえず、断られている。手がかりがない。現実よりも広大なこの世界で、僕のたった一人の女の子を見つけなければいけない。
画面から視線を外し、部屋の時計を見る。午後九時半。ログインしていてもおかしくない時間。きっといる。絶対にいる。
荒涼とした砂漠を突き進んだ。彼女はいなかった。
うっそうと生い茂る森で獣に襲われた。彼女はいなかった。
いくつもの城下町をめぐった。彼女はいなかった。
嵐のなかの大海原を渡った。彼女はいなかった。
僕のランクはほかのプレイヤーと比べても低いほうだろう。獲得できている武器も脆く、頼りない。使うたびに摩耗して砕ける。何度も死んで、コンティニューし、探し続けた。
たどりついたのは雪山だった。頂上が雲に隠れて見えない。まだ一度も訪れたことのないエリアだった。生半可な装備ではたどりつけないと有名な山。彼女とのバイト中の雑談で思い出す。素材集めやアイテムを拾うのに、よく訪れていると言っていた気がする。
モンスターがあらわれても戦わず、逃げ続けてのぼりつづけた。運悪く見つかればとたんにゲームオーバーになった。正しい遊び方じゃないな、と、思わず笑う。だけどいまは勝つことが目的じゃない。勝たなくてもいい。それがこのゲームのいいところでもある。
途中で回復アイテムを拾いながら、ぎりぎりの体力でのぼりつづけた。キャラクターが息を切らすと、自分まで苦しくなったような気がした。寒さで凍えていれば、思わず肩をさすった。
吹雪の勢いが強くなりかけたとき、山の中腹に、一人のプレイヤーが立っているのを見つけた。
青い髪の少女で、吉宮さんが使っていた、体格の大きな男性のキャラクターとは違う。だが操作キャラクターは任意で変えられる。何より、背負っている大剣に見覚えがあった。幾度もすれ違ってきたほかのプレイヤーたちが、一人も持っていなかった剣。彼女との共通点を見いだせる、唯一の特徴。
近付くと、プレイヤーの上にユーザーネームが表示された。『SUZU』とある。スズ。名前の見鈴から取ったのかもしれない。僕のユーザーネームは『葉っぱ』にしてある。葉山から取ったもので、一見しても、僕だと気づいてはくれないかもしれない。
さらに近付くと、向こうも僕に気づいた。装備も服装もランクも場違いな、素人プレイヤー。怪しまれて当然だ。僕だと知ってもらうには、なんと話しかけたらいいだろう。きみを探しにきたよ。そう伝えるための、一番の言葉は?
チャット画面を開き、しばらく考える。青い髪の少女は僕が話しかけるのを、警戒しながら待っていた。時間がさらに経ち、SUZUさんが剣をかまえだした。本格的に怪しまれている。いつ切りつけられてもおかしくない。
吹雪が止むと同時、言葉を打った。
『チョコ死に給うことなかれ』
時間が止まったみたいに、静かだった。雲が晴れて、眼前に広がる他のフィールドが目に飛び込んでくる。歩いてきた大地、森、海、城下町、すべて見えた。絶景だった。風が髪をなびかせる。ずっとこの場所にいたかった。何もかもが、僕も含めて、この世界の一部だった。
見とれていると、チャット画面に返事があった。
『SUZU:葉山くん?』
返事を打つ。焦るな。
『葉っぱ:やっと見つけた』
待つ。画面の向こうの彼女が、とても長く、考えているのがわかる。どうしてここに来たのか。何をしに来たのか。
『SUZU:よく来れましたね』
『葉っぱ:たくさん死んだよ』
ああ、会話をしている。彼女がそこにいる。たった二日会っていないだけなのに、ひどく懐かしさを抱く。
『SUZU:無謀ですよ』
『葉っぱ:無課金勢の意地だ』
体力が残りわずかだった。彼女が気づき、回復アイテムを分けてくれた。息を切らしていた僕のキャラクターが、少しに楽になったように、凛とした姿勢になった。
『SUZU:バイト、休んですみませんでした』
『葉っぱ:明日と明後日、残り二日。それでおしまい』
事実だけを伝える。来られる? とは訊かない。本当は用意しておいた言葉がたくさんあった。どんな伝え方で説得しようか、探しながらずっと考えていた。だけど打てなかった。追いつめたくない。苦しませたくない。逃げて何が悪いのか。苦しむことの何が罪なのか。
『SUZU:どうして来てくれたの?』
きみの悔しさを知っているから。初めての二週間のバイトを頑張ると決めた、きみの言葉を聞いていたから。
順調だと思っていたあれこれが、あっけなく崩れ去る怖さを、僕は知っている。バドミントンの大会まであと少しだった。準備は完璧だった。レギュラー選抜の試合でも勝つ自信があった。そのために練習を重ねてきた。だけどだめだった。届かなかった。あと少しのところで、台無しにした。
そういう苦しさを、彼女には、味わってほしくなかった。
『葉っぱ:僕がいると知ってほしかった。あのレジに』
途中で気恥ずかしくなって、あのレジに、とあわててつけたした。返事はなかった。しばらく待ったが、やはり返ってこなかった。僕の言葉は、もう必要なさそうだった。チャット画面に、やがてメッセージが表示される。彼女の行動に、僕も同じように続いた。
『SUZUさんがログアウトしました』
『葉っぱさんがログアウトしました』
明日もチョコを売ろう。
二月一三日。吉宮さんは僕よりも早く出勤していた。ショーウィンドウの照明はすでに点いていて、試食用のチョコもカット済みだった。おはよう、と言うと、おはようございます、と丁寧に返ってきた。この日、バイト中に彼女と交わした会話はこれだけだった。バレンタインの前日ということもあり、怒涛の忙しさだった。
二人だけではとうとう回らなくなり、店長にヘルプを求めて電話をした。すぐに店員さんが二人かけつけてくれた。
「本店よりきてるよ、これ」店員さんが途中で呻いていた。
午後になっても客の勢いが途絶えなかった。いかにぎりぎりにチョコを用意するひとたちが多いかを実感した。
僕と吉宮さんは別々に休憩を取ることになった。先に吉宮さんが休憩し、入れ替わりで僕も裏の休憩スペースに向かう。怪我をしたほうの足がピリピリと痛んでいた。少し眠ると、嘘のように痛みが消えていた。禊が済んだのかな、と勝手に解釈した。
休憩から戻ると、吉宮さんがレジに立っていた。カウンター越しに立っていた客を見て、手伝おうと向かいかけた足が止まった。
クラスメイトの女子たちだった。何か話しているのがわかる。女子の一人が吉宮さんに質問し、彼女がよどみなくそれに答えていた。ブース内に陳列した商品を並べ直すフリをして、ほんの少し近づき、やり取りを拾う。
「へえ、じゃあこっちのほうが味の種類があるの?」
「はい。値段と個数は変わりますが、ビター、スイート、ホワイト、ストロベリー、ピスタチオと、種類が豊富です」
「さっき試食したのがめっちゃ美味しかったんだけど」
「生チョコのほうですね。こちらにあります。六個入りと八個入り、一二個入りがあります。一番買われているのは八個入りですね」
「包装紙とかで包んでもらえる?」
「はい、もちろん」
一人ひとり、丁寧に対応していた。彼女たちも、吉宮さんの存在に注目するより、目の前のチョコに夢中な様子だった。それぞれ一つずつ買っていき、クラスメイトたちがブースから出ていく。去り際、グループの一人の声が聞こえた。「なんかちゃんとバイトしてたね」。あっさりとした言葉だった。
レジのほうを振り返る。吉宮さんは立ち続けていた。クラスメイトたちの接客なんて初めからなかったみたいに、早くも次にやってきたカップルの接客をしていた。
わきを通り過ぎようとしたとき、僕にだけ見える角度と位置で、彼女がピースサインをよこしてきた。やってやりましたよ、勝ちましたよ、逃げませんでしたよ。雄弁に、ピースサインが語っていた。感情を隠しきれず、口の端がつりあがり、小さな笑みも浮かべていた。僕は思わず噴き出して、それからふいに、とてもバドミントンがやりたくなった。部屋のクローゼットにしまってあるラケットを取りに行き、シャトルを握り、体育館にかけだしたくなった。部員にみんなに謝ろう。顧問の先生に頭を下げよう、そしてもう一度、部活に参加させてもらえるように頼もう。
その夜、初めて吉宮さんと一緒に帰った。他愛のない話をした。途中で見かけた自販機で、温かいミルクティーを買って飲んだ。
住宅街の明かりのせいで星がよく見えなかった。でも悪くない。雪山から見下ろしたあの景色には劣るけど、何よりもリアルで、本物だった。
二月一四日。バレンタインデー。最後の出勤の日も、あわただしい一日だった。前日がピークだろうと思っていた僕の予想は甘く、当日も社会人の女性客を中心に賑わっていた。休憩中の僕たちのテーブルに、ラストスパートだ、と店長が商品を開けて出してくれた。カカオアレルギーの僕は食べられなかったが、吉宮さんが美味しそうに食べているのを見て満足できた。彼女からのチョコなら、一日くらいの湿疹は気にせず食べられるだろうと思った。期待していなかったといえば嘘になる。当日、そわそわする男子の気持ちが、人生で初めてわかった。向こうも意識しているだろうか。いつもより話していない気がするし、いつも通りのような気もする。
休憩時間が過ぎ、そのまま吉宮さんは先に出ていった。残念ながらチョコはもらえなかった。期待がしぼんでいき、奇妙な脱力感に襲われた。手ぶらのまま放課後になり、昇降口を後にする男子の気持ちもこれでわかった。どんな顔をしているだろう。きっと恥ずかしい顔だ。鏡がなくて本当によかった。
閉店時間になり、ブース内の撤収作業が行われた。商品はほとんど売り切れていた。あまったチョコを箱に納め、搬入用の車に乗せていく。
作業が終わり、帰ろうとしたそのとき、誰かに服の裾を、くいと引っ張られた。振りむくと、吉宮さんが予想以上の近さで立っていた。前にもこんなことがあった。
「これ」
と、短く言って小さなメモを差し出し、吉宮さんは去って行った。彼女の姿が、夜の住宅街に消えてあっという間に見えなくなった。
メモを開くと、数字の列が書かれていた。フレンドコードだった。
早足で家を目指す。我慢できず、途中で歩きながらスマートフォンを取り出す。『イマジン』を起動し、フレンドコードを入力すると、『SUZU』を見つける。登録した直後、メッセージが届いていることに気づいた。
開くと、アイテムが贈られてきていた。本文はなく、たったひとつ、それだけが添付されている。シーズン限定の特別アイテムだった。しばらく画面を閉じずに眺めていたのは、僕だけの秘密である。
『バレンタインチョコ:HPを全回復』
4
ラケットをカバーにしまい、肩にかける。気が急いて学生鞄のほうを忘れかけて、玄関を出たところで一度戻った。
朝練中の体育館では、先に来た部員たちがコートをつくり、すでにラリーをしていた。何人かの部員が声をかけてくれた。大会の成績を聞いて、それから頭を下げた。顧問の先生は僕に謝らせる隙を与えず、すぐに練習着に着替えるよう指示を出してきた。ただの練習なのに、コートに立ったとき、少し泣きそうになった。
朝練が終わり、更衣室で着替えてから、教室に向かう。途中で寄ったトイレで乱れた髪型を直して、汗臭くないかを何度も確認した。
教室にいる生徒の数がまばらだった。廊下側、前から二番目の席はすでに埋まっている。教室でスマートフォンはいじれないから、読書で時間をつぶしている彼女。
声をかけようと決めていた。一緒に話せる場所がもっと欲しい。チョコレートでつながった僕たちの関係が、これからも続いてくれたら嬉しい。チョコ死に給うことなかれ。同じように、彼女も思ってくれているだろうか。
近づくと、吉宮さんが本を読む手を止める。足音を聞きつけたように、大きな耳が、ぴくりと動くのが見えた。
うっとうしがられたり、しないだろうか。面倒くさがられたり、しないだろうか。無視されたり、しないだろうか。色々な反応を想像してみる。そして僕の想像を、きっと彼女は越えてくる。
「おはよう、吉宮さん」
どんな顔をしていたと思う?
( 了 )