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新名智の恋愛短編『心霊スポットできみに逢えたら』

ホラー小説の新作を続々発表、活躍中の新名智さんから恋愛短編を頂きました。廃墟で目覚めた少年、自分が幽霊になったことを知って……。一読して、かつて読んだ乙一さんの初期短編を思い出しました。切なさに満ち溢れた、青春小説、著者の本領発揮といった一編です。


作者プロフィール

新名智(にいなさとし)
長野県出身。2021年、虚魚で第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞、大賞を受賞してデビュー。代表作に『あさとほ』『きみはサイコロを振らない』など。


人間が幽霊になったとき、最初はどんな気分かってことを考えてみるといい。
 普通、人間というやつは自分が生まれた瞬間のことを覚えていない。右も左もわからないまっさらな赤ん坊として生まれてくるから当然だ。それと比べたら幽霊には誕生した瞬間からちゃんと自我ってものがあって、自分が今、別のおかしな何かになってしまったということがわかる仕組みになっている。
 でも、ぼくの場合、そのおかしな何かになったってことを理解するまで多少の時間がかかった。その瞬間のぼくはたしかに、廃墟のかびた臭いも、肌をちくちく刺してくる草の感触も、生ぬるい風のうっとうしさも、すべて問題なく味わうことができた。
 ぼくは体を起こし、周囲を眺めた。その景色にはもちろん見覚えがあった。自分でここへ来たんだから当たり前だ。それからふと思いつき、自分の首のあたりをさすってみた。皮膚がへこんで、くっきりと縄の痕がついている。どうやら首を吊ったところまでは現実らしい。
 それで、ぼくは自殺に失敗したのだと思った。息絶えるより前にロープが切れて地面に落っこちて、それから今まで気を失っていたんだと。
 ぼくがそれをやったのは夜だった。今は明るい日差しが、崩れた壁のありとあらゆる隙間から差し込んでいる。一晩くらい倒れていたのかもしれない。ぼくは自分の置かれた状況を知りたいと思って、まずは自分が死ぬはずだった場所を捜した。
 この廃墟は、ぼくの家から五キロほど離れた山の中にあった。峠を越えてくる猛スピードの車とぶつかりそうになりながら、暗い道路を自転車で登ってきた記憶が蘇る。ここは、最初は景色と食事が売りの観光ホテルだったのだそうだ。それから時代が変わってラブホテルになり、最終的にビジネスホテルか何かになって、ぼくが生まれる前にはもう閉鎖されていた。
 ホテルだった頃にフロントが置かれていたであろう部屋――エントランスホールとでも呼ぶのだろうか――は、天井の大部分が崩れ落ちて吹きさらしになっている。見上げると、錆びた鉄製の梁がむき出しで、その向こうには青空が透けて見えた。梁のひとつに、黒と黄色の、虎柄のロープが結び付けられている。あれはぼくが結んだものだ。そしてロープはやはり途中で切断されていた。
 ぼくは風に揺れるロープの切れ端を眺めつつ、しばし考え込んだ。あそこから落ちて気絶したのだとしたら、なぜぼくの体は少し離れた場所にあったのだろう。だれか親切な人が助け起こして、急な雨でも濡れないよう、移動させておいてくれたのか。
 下を見ると、なるほど、大勢の人が通ったような足跡がある。そういえば、この廃墟には、ときどき肝試しで訪れる人たちがいると聞く。いざというとき邪魔が入らない場所を選んだつもりだったけれど、これは考慮してなかった。
 そして足跡が来ている方向を目で追うと、また別のことに気づいた。入り口のドアが開いている。ぼくがこの建物へ忍び込もうとしたときには、正面のガラス扉は鎖と板とで完全に封鎖されていた。だから裏へ回り込んで事務室の窓を乗り越える必要があったのだけれど、今や扉は開け放たれていて、代わりに黄色のテープが張られている。
 ぼくはそのテープに近づいた。刑事ドラマで、事件現場などに張られているようなやつだ。なぜこんなものがここにあるのだろう。ぼくの自殺未遂が通報されて事件になったのか。いや、だとしたら当事者を置き去りにするわけない。
 とりあえず外に出よう。そう思って、ぼくはテープの下をくぐろうとした。
 だが、くぐれなかった。
 まるで、透明なゴムの膜がそこにあるような感じだった。顔を押し込むと、少しだけ外に出られる。しかしすぐさま強い抵抗が襲ってきて、ぼくは建物の内側へ跳ね返される。
 手を伸ばしても同じことだった。指先に何かが触れたりはしない。それなのに、腕の動きを途中で邪魔されるような感覚があり、それ以上はどんなに力を込めても進まない。ぼくの体は、不思議な力で廃墟の中に押しとどめられてしまう。
 気味が悪くなって、ぼくは後ずさりした。何が起きているのかわからない。あるいは、まだぼくは気絶していて、夢を見ているのかもしれない。今度は勢いをつけてジャンプし、そのまま外へ飛び出そうとした。が、ぼくの体は空中でぼよんと弾かれ、後ろへ飛ばされた。尻もちをついたが、痛みはなかった。
「何やってんの」
 という声が背後から聞こえた。ぼくはどきっとして振り返った。
 部屋の隅にある柱の影から、少女が現れた。着ている制服はたしか隣町の高校のものだ。スカートは過剰なほど短いくせに、首にはマフラーを巻いている。髪の毛はもはや茶髪というより金髪に近い。普段のぼくだったら、絶対に話しかけたりしないタイプだ。もちろん向こうからだって話しかけてくることはない。
 でも、そのときはこんなどうしようもない状態だったから、ぼくはすがるような気持ちで返事をした。
「外に出られなくて」
「知ってる」
 毛先をつまらなそうにもてあそびながら、彼女は言った。ぼくは顔をしかめた。
「知ってるって?」
「ここから出られないことは知ってるよってこと。ここからっていうのはつまり、この建物から」
「なんで、そんな――」
 すると、彼女はぼくの体を上から下まで眺めて、意外そうにふうんと言った。
「じゃ、あんたも同類ではあるんだ」
「同類?」
「ほら、これ」
 そう言って、ぐっと片足を突き出してきた。いや、突き出すような仕草をした。ぼくはその部分をまじまじと見た。その部分というのは、めくれそうな短いスカートのことではなく、そこからにゅっと出ている太もものことでもなく、その先の、何もない部分のこと。
 彼女は笑った。
「幽霊ってさ、本当に足ないんだね。あたしびっくりしちゃった」
 もちろん、ぼくだって初めて知った。

 *

 ぼくたちは互いに自己紹介をした。親につけられた名前というのは、死後もついてまわる。だから、うかつな名前はつけないほうがいいと思った。今後、その機会があればの話だけど。
「あたし、優木樹菜(ゆうきじゅな)」
「日方海斗(ひがたかいと)」
「かいと?」樹菜は笑った。「かっこいい名前じゃん」
 素直に褒められている感じはしなかったので、ぼくは笑わなかった。ぼくの母親だって、十六年後の息子がこんな冴えない外見に育つとわかっていたら、アイドルみたいな名前はつけなかったはずだ。
 樹菜はやはり隣町の高校に通う生徒だった。学年は彼女のほうが上だったけれど、敬語を使う気にはなれない。向こうもそんなことは気にしない性格と見える。さて名前と年齢と学校がわかったら、次に紹介する個人情報はなんだと思う?
「あんたはなんで死んだの」
 そう、死因だ。常識だろ。
「やっぱり首吊り?」
 樹菜は、頭上に垂れ下がるロープの切れ端を指差した。ぼくはうなずく。それから顎を上げて、首のまわりを取り囲んでいる紐の痕跡を見せた。彼女は顔をしかめた。
「うわあ、グロい」
 そう言って、樹菜は自分の首に巻いたマフラーをぎゅっと絞る。多分、あっちの首にも同じようなのがあるんだと思った。それでいい。ぼくだって好んで見たくはない。こんなことなら、ぼくもマフラーをしてくればよかった。家を出るとき、多少は肌寒かったけど、どうせ死ぬからいらないと思ったのだ。自殺するときは服装も気をつけるべきだ。じゃないと死んでから後悔する。
 死因までわかってしまうと、もうぼくたちの間に話題はなかった。だいたい、見るからに接点がなさそうなふたりだ。ぼくの通う高校に、彼女みたいな女子生徒はいなかった。染めた髪も、濃い化粧も、ぎらぎらしたネイルも、ぼくにとっては宇宙人を見るのと変わらない。それが今や幽霊だなんて、要素が多すぎる。
 彼女のほうにしても、ぼくみたいな人間のことは、道端の石くらいにしか思ってなかったんじゃないか、という気がする。それがたまたま同じ境遇になったから、多少は関心を持ったというだけのことだろう。現に今はもうその関心も失いつつあるのか、黙って毛先をいじり、空を見上げている。
 ぼくのほうも、何も言わずにエントランスホールから出た。崩れた廊下をちょっと進んで曲がると、ぼくが侵入するのに使った事務室の窓がある。そこに近づき、よじ登ってみる。結果は同じだった。奇妙な弾力というか、斥力みたいなものがあって、ぼくの体は建物の内部へ向かって押し戻される。
 廃墟の中をさまよいながら、同様の行為を繰り返した。一時間ほどかけて、わかったことはふたつだけだった。ぼくはこの建物から出られないということと、ぼくの体はどうやら疲れも空腹も感じなくなっているらしいということ。このふたつの観察結果は、組み合わせるとまずい推論につながる。
 要するに、この状況は永遠に――文字通り――続くのではないかということ。
 これはいけない。恐怖と不安は、それを意識した瞬間から爆発的に膨れ上がる。ぼくはそれを知っていたから、代わりに目をぎゅっとつぶり、頭の中身を故意に麻痺させ、ばかげた想像の産物を忘れようと努めた。
 大丈夫、大丈夫。永遠なんかない。あっても苦しむことはない。この意識が途絶えることなく続いて、何万年も、何億年も、何兆年も、真っ暗な場所をひとりで漂うなんて、そんなことなんて、あるわけ。
 駄目だった。ぼくは叫んだ。めちゃくちゃに叫んで、髪の毛をかきむしり、めちゃくちゃに走って、元の場所まで戻ってきた。
 いきなりそんなふうにして現れたぼくを見て、樹菜は目を丸くした。
「どうしたの。おばけでも出た?」
 などと、おもしろくもない冗談を言って、ひとりで笑っている。ぼくはそれを無視し、彼女から離れた場所の壁にもたれかかった。思うまま叫んだことと、幽霊とはいえ自分以外の存在がいることで、少しは気持ちが落ち着いた。
 ぼくが建物を調べて回っている間、樹菜はずっとひとりでここにいたのだろうか。退屈そうではあったけど、うんざりしているというふうには見えなかった。彼女は塗装がすっかり剥げた古いカウンターに腰掛け、壁の隙間から外を眺めている。いつの間にか太陽は傾き、オレンジ色のやわらかな光が彼女の体を半分ほど通り抜けていく。
 何かを言うべきなのかもしれなかったけど、何を言ったらいいのかわからない。生きている間、ぼくは自分から女の子に話しかけたことなんてなかった。まして幽霊の女の子となるとなおさらだ。
 気まずい沈黙。そうこうしているうちに、太陽の光はどんどん細くなっていき、やがて消えた。夜が来た。

 *

 夜は幽霊の主戦場と聞いているが、具体的には何をすればいいのだろう。疲れないし空腹にもならないということは、眠る必要もないはずだ。このまま朝までじっと待っているしかないのだろうか。ぼくは顔を上げ、樹菜のほうを向いた。真っ暗闇でも彼女の姿だけがぼうっと浮かんで見えていた。
 樹菜はおそらく、幽霊としてはぼくより先輩だろう。時間をつぶすコツなりなんなり聞いてみよう。そう思って立ち上がる。彼女のほうへ二、三歩ほど進んだところで、外から強い光が入ってくるのを感じた。
 はっとして光のほうへ顔を向けた。黄色いテープが張られた入り口の向こう側に、何人かの人影があった。全員が手に懐中電灯らしきものを持って、こちらを照らしている。
 こんな時間にこんな場所へ、しかも大勢でやってくるのは、警察官か犯罪者かどっちかだろうと思った。が、様子を見ていると、どうも違うらしい。彼らはハイキングに来たみたいな、のんびりした口調でお互いに話し合っている。ときどき笑い声も聞こえた。もうしばらくすると、彼らはテープをくぐって建物の中に入ってきた。
 ぼくは反射的にカウンターの裏側へ身を隠した。隣では樹菜も同じようにしていた。もうお互いに幽霊なんだから、隠れる必要はないはずなのだけど。
「ねえ、やめようよ。危ないよ」
 女性の声がした。別の若い男の声が返事をする。
「大丈夫だって」
「やだよお、怖い」
 そんなやりとりが聞こえてきて、ぼくにも察しがついた。たぶん、こいつらはここへ肝試しに来たんだ。この廃墟に、そういう連中がよく出没するというのは噂で聞いていた。でも本当に出くわすとは思わなかった。
 話し声からすると、男女それぞれふたりずつの、合計四人だ。廃墟探索には慣れていないようで、ときどき床の瓦礫につまずき、そのたびに女ふたりの短い悲鳴が響く。一方、男たちのほうは余裕があるのか、懐中電灯を上下左右に振って、内部を見回している。
「中はだいぶ崩れてるな。家具もあまり残っていないし」
「業者が入って、途中までは解体されたんだってさ。なぜか工事が中断されて、それで――」
「うおおっ!」
 男のひとりが、急に叫んだ。その声に驚いたのか、女のほうはさらに大きな悲鳴を上げた。
「もー、やめてよー」
 怯えつつも、どこか甘えたような声色で抗議しながら、女は男の体をバシバシと叩く。男は軽く謝り、でも見てみろよ、と言って天井のあたりを懐中電灯で照らした。
 はっと息を呑む音。それから、さっきと同じくらいの大きさの悲鳴。
「ねえ、あれ、もしかして」
「待って、嘘、そういうこと?」女のひとりが、今度こそ本当に泣きそうな声で言った。「あれで首を吊ったってこと?」
 どうやら彼らは、ぼくが天井に吊るしたロープの切れ端を見て騒いでいるらしかった。
「嫌だ、気持ち悪い」
「やっぱ本物は生々しいな」
「ねえ、これ見てていいのかな。呪われたりしない?」
 聞いているうち、妙に腹が立ってきた。昔のぼくだって、決して信心深い人間じゃなかったし、「死者への冒涜」みたいな言葉は、なんならちょっと胡散くさいとさえ思っていた。それが、いざ自分のことになったら怒り出す。現金なものだ。
 ぼくはカウンターの裏から這い出し、そっと彼らの背後に近づいた。そんなに肝試しがしたいならさせてやろう。ホラー映画に出てくる怨霊のような手口は、いったいどうやるのか知らないが、脅かすくらいはできるだろう。
 そのとき、女のどちらかが口を開いた。
「でも、若いふたりの心中って、なんかいいよね」
 心中?
「そんなにいいもんじゃないよ。ニュース見ろよ」
「見てるよ。結果はともかく、男の子のほうは女の子のことを愛してたわけじゃない?」
「だから愛してないんだって。愛してたら、こんなことしない」
「他人から見たらそう思うのかもしれないけど」
 ちょっと待ってくれ。なんの話だ。心中って、男女ふたりって、それはいったいだれとだれのことだ。
 ぼくはカウンターのほうを振り返った。樹菜の頭がちょこんと突き出て、こちらに視線を注いでいるのがわかった。ここで心中があったなんてことは、彼女も初耳なのだ。ぼくだって知らない。そもそも、ぼく以前にこの廃墟で死んだ人間なんて。
 いや、だとしたら樹菜はどうなんだ。彼女はいつ死んで、いつ幽霊になったんだ。
「名前、なんだっけ。男の子のほう」
「優木――」
「それは女の子のほうでしょ。優木樹菜さん。じゃなくて」
「ああ、日方海斗だ。思い出した。おれの後輩が同じ高校に通ってるんだよ」男は笑った。「どうしようもないやつだったってよ。根暗で、薄気味悪いやつだったって」
 他のやつらも、それを聞いて笑った。さっきまでは怯えていた女たちも、軽く吹き出した。
「高校も別だったのに、どうして一緒に死のうと思ったんだろうね?」
「はみ出し者同士、気があったのかも」
「相手はだれでもよかったんじゃないか。ひとりで死ぬのが怖かったんだろ」
「ネットで知り合ったのかな。自殺コミュニティとか。テレビで見たことある」
 ぼくの頭の中は混乱していた。何がなんだかわからない。しかし、聞いているうちに少しずつ状況が飲み込めてきた。彼らは、ぼくと樹菜がここで一緒に自殺を図ったと思っているのだ。というか、そういう報道がどこかでされていて、こいつらはそれを信じ込んでいるらしい。
 その後も、連中はぼくたちについて、好き勝手なことを喋り続けた。聞いているうちに、困惑よりも怒りのほうが大きくなっていく。彼らはぼくたちのことを何も知らない。それなのに、わかったようなふりをして、勝手に決めつけている。男のひとりが、垂れ下がったロープの切れ端を、バレーのスパイクみたいに強く弾いた。先端が大きく揺れて戻ってくると、女たちはキャーキャー叫んで逃げた。
 ついに我慢できなくなったぼくは、そいつらに向かって突進した。背後で樹菜が何か言ったけれど、ぼくの耳には届かなかった。ぼくは一番近くにいた男のひとりに飛びかかり、そして――通り抜けた。
 ぼくは地面に腹ばいになっていた。振り返ると、肝試し中の四人は、ぼくにはまるで気づいていないみたいで、さっきまでと同じようにふざけあっている。
 もう一度、起き上がって、今度は正面から掴みかかろうとした。ところが、ぼくの手はただ相手の体をすり抜けるだけだった。あちらの表情や態度にも変化はない。ぼくのことが見えていないのはもちろん、近づいて触れられているということも、まったくわかっていないようだった。
「無駄だよ」
 ぼくは横を見た。いつの間にか、樹菜がカウンターの後ろから出て、そこに立っていた。
「この人たちには聞こえてないし、見えてない。あたしたちがいるってわからないんだよ」
 四人組を指差しながら、樹菜が言った。ぼくも納得するしかなかった。四人は、輪の中に突っ立っているぼくたちを無視したまま、平然と雑談を続けていた。やっぱり幽霊なんて出ないね、とか、心霊スポットなんて嘘じゃん、とか。
 肝試しに満足した彼らが立ち去ったあとも、ぼくたちは何も言わず、同じ場所にじっと佇んでいた。そうすることしかできなかった。

 *

 自分が何月何日に死んだと思うか、とぼくたちはお互いに尋ねあった。もっとも、結果については聞くまでもなく予想できたし、そしてそれは当たっていた。
「ぼくたちは、どうやら同じ日にここで死んだ」
「うん」
「ってことは、きっと遺体も同じタイミングで発見されたんだ。――優木さんは、遺書とかは?」
 彼女は首を横に振った。ぼくのほうは一応、自分の部屋の机の上に、両親に宛てた書き置きを残してきた。ただ、その文面は、思い出せる限りだとこんな感じだった。
 ――先に死にます。迷惑をかけてごめんなさい。
 なぜ死ぬかということは書けなかった。こんなことになるとわかっていたら、詳しく書けばよかっただろうか。いいや、ぼくはその考えを打ち消した。たとえ遺書があったとしても、どうせみんなは好きなように切り取って噂を作ったに決まっている。
 同じ日に、同じ場所で、というのが問題なのだ。
「優木さんがいたなんて、ぼくはちっとも気づかなかった。暗かったから――」
「こっちのときは明るかったよ。つまり、先にあたしがいて、あんたが後から来た」
 自分の死体に気づかなかったほうが悪い、という口調で彼女は言った。ぼくは何も言い返せなかった。自分のことに夢中で、先客がいるかもしれないなんてことは、思いつきもしなかった。
「おかげで、あたしたちは一緒に自殺したってことになっちゃってるわけね。恋人同士の心中だかなんだか、そういう」
「だって、そんなの、おかしいじゃないか。ぼくたちにはなんの接点もないのに」
「本当に接点がないと思う?」
「えっ?」
「あんた、F高に通ってるって言ったでしょ」
 樹菜は、ぼくの通う高校の名前を告げた。そういえば最初に会ったとき、お互いの学校名を伝えていた。そうだと答えたら、彼女は大きなため息をひとつ吐いて、気だるそうに打ち明けた。
「あたし、友達に教えてたの。F高に彼氏がいるって。でも名前は内緒だって」
「本当に?」ぼくは疑った。「なら、その彼氏って人が本当のことを言うはずじゃ」
 けれど樹菜は、ふふんと鼻で笑った。
「向こうは、あんたになすりつけて安心してると思う。そういう男だから」
 吐き捨てるように言った。ぼくはなんて答えたらいいのかわからなかった。
「で、あんたのほうはどう?」
「ぼく?」
「勘ぐられる理由に心当たり、ある?」
 ありえない、と思う。ぼくが隣町の高校の女の子と付き合ってるなんて考える人間は、学校にもどこにもいないはずだった。憶測でもそんなことを口にしたら、クラスメイトは大笑いするはずだ。いや、だからむしろ、そういうことなのか。
「おもしろがってる、のかも」
 樹菜は眉間にしわを寄せた。
「何をおもしろがるって?」
「ぼくが他校の女の子と知り合って、一緒に自殺しただなんて、おもしろい冗談だと思ってるのかも――それか、あいつらにはそっちのほうが都合いいのかもしれない。本当の理由を隠せるから」
 そこまで聞くと彼女は、そういうことか、と言った。
「あんた、いじめられてたんだ、そいつらに。それでこんなところまで来て、首を吊ったってわけね」
 それは事実だったけど、ぼくはうなずきたくなかった。見ず知らずの女の子に、簡単に打ち明けられるくらいだったら、自殺なんて選ばない。だからぼくは視線を落とし、彼女の爪先があるべきあたりをじっと見つめた。
 高校に入った当初から、ぼくはクラスで浮いていた。だれとも打ち解けず、ひとりで本ばかり読んでいた。ぼくはそれでかまわなかったのに、担任の加山にとっては、そうじゃなかったようだった。ある日の授業中、順番に生徒を指名していた加山は、どういうわけか、ぼくを飛ばして次の生徒を当てた。たまたまだと思っていたら、次の授業でも同じことが起きた。だれかがそのことを指摘すると、加山はびっくりしたような目でぼくを見ながら、おどけた調子で答えた。
 ――ああ、みんなにも見えてたのか。一言も喋らないから、幽霊なのかと思った。
 クラスメイトはどっと笑った。その日から、ぼくの扱いは決まってしまった。幽霊、空気、背景。どんなにいじられても、ぼくがへらへら笑うだけで、逆らったり水を差したりしないことがわかると、それらはもっとエスカレートした。
 原因を作った加山は何もしなかった。彼は生徒を守るより、自分をよく見せるほうが大切だというタイプだ。女の子を乗せるために買ったという派手な車で、いつも出勤してきていた。他の教師たちも、役に立たないという点では大差ない。欲望に正直な分、加山のほうがましだったかもしれない。
 もちろん両親にも相談できなかった。苦しさよりも、恥ずかしさのほうが大きかったからだ。みじめで弱い、そんな自分を見せたくなかった。
 そしてそれは今もそうだった。唇を噛んだきり黙っているぼくのことを、樹菜はただ見つめていた。
「まあ、あんたの事情はいいわ」樹菜は、ない足を組み直した。「でも誤解されたままなのは、嫌だね」
 それについては、ぼくも同感だった。なんとかして本当の動機を知らせたい。だけど、ぼくたちに何ができるだろう。声は聞こえず、触ることもできない。何より、この建物から出ることすら。
 だからまずは調べるところから始めた。

 *

 廃墟は、ひっきりなしに人が訪れていた。二、三日に一度は肝試しのグループが来て、中には鉢合わせするケースもあった。男女の心中というホットな話題があったからだろう。本格的なカメラを携えた、ジャーナリストらしき人もいた。そういう人になんとか真相を伝えられないかと思ったけど、うまくはいかなかった。
 新しい来訪者が現れるたび、ぼくは実験を重ねた。直に触ったり、話しかけたりできないことはすぐにわかった。間接的な方法はどうかと思って、まずは地面の石ころを持ち上げられないか試したが、これも駄目だった。石に触れることはできたが、それはまるで地面に接着されているかのように、ぴくりとも動かない。現実世界の物体に干渉するのは不可能ということだ。
 それならばと思って壁抜けに挑戦したが、これもできなかった。漫画に出てくるおばけは、壁を貫通して出没することもあるけれど、あれはフィクションと判明した。生身の体を持たない存在にとっても壁は壁であり、叩いたらコツンという振動を感じた。勢いよく飛び込まなくてよかった、と思った。
 ただ、いいニュースもないわけではない。人間の中には、ごくまれに霊感というやつを持っている者がいるらしいのだ。あるとき、肝試し中の若者たちのグループに向かって後ろから怒鳴ったら、ひとりだけこっちを振り向いたことがあった。その後はなんの反応も見せなかったのだが、同じことをいろいろなグループにやってみたら、やはり何人かは振り返った。
 ぼくが壁や床を叩く音、いわゆるラップ音の場合だと、反応を返してくる頻度はさらに上がった。これに気づいたとき、ぼくは飛び上がりたくなるほど嬉しかった。ぼくたちは、世界から永遠に切り離されたんじゃない。そのことがわかったから。
「これをうまく使えば、こっちの言葉を伝えられると思うんだ」
 でも、樹菜のほうは冷淡だった。
「どうやんのよ。聞こえるのはノックの音だけなんでしょ」
「モールス信号ってあるだろ。ああいうのを使えば」
「何?」
「だから、モールス信号だよ。トンとかツーとか」
 ぼくは彼女に説明した。叩く音、引っかく音という二種類の音を符号に変換すれば、それを利用して長い文章を表現することができるんじゃないか、というアイデアだ。彼女は、へえ、と短く答えて、それから言った。
「あんたはできるの、そのモールスなんとか」
 さあ、そこが唯一にして最大の問題だ。ぼくはモールス信号という概念は知っていたけれど、実際にどのパターンがどの文字に対応しているのかはさっぱりなのだった。オリジナルの符号を作れば、とも思ったけど、それを人々に伝える手段がない。
 ぼくは知恵を絞って、こんな方法を考えた。
「人が来るたびに、とにかく音を立てればいいんだよ。信号じゃなくても、なるべく規則的に聞こえるように。そうしたら、だれかが『これはモールス信号じゃないか』って思うかもしれない」
「それで?」
「その人は、たぶんモールス信号の変換方法を調べるはずだ。スマホか何かで。それを、後ろから覗き見て覚える」
「――気の長い話だね」
 幸い時間は無限にある。ぼくは次の機会から、それを実践した。廃墟に新しい人間が来たら、近くの壁に立ち、トン、ツー、トントン、ツーといった調子で、いかにもそれっぽい雰囲気の音を適当に奏でる。音が鳴っていることには、多くの人間が気づいた。けれど規則性を疑う人間はなかなかいなかった。
 ぼくは根気よく続けた。新しい人間が来ると、背後にぴったりくっついて、壁という壁を叩いた。普通だったら、とっくに手が腫れ上がっていただろう。それでも、これがメッセージだとわかる人は現れない。いつまで経っても。
 あるとき、苛立ちがピークになったぼくは、肝試しの連中が帰ったあとも、執拗に壁を叩いた。叩くというより殴るというほうが近かった。だけど、殴っても殴ってもぼくの手に痛みはない。それがまた苛立ちに拍車をかけた。ぼくは自分を罰するつもりで、壁に両手を何度も打ち付けた。
「うるさいんだけど」
 ついに樹菜が苦情を言ってきた。生きている人間には聞こえない音でも、幽霊の樹菜にはちゃんと聞こえていた。彼女は壁に置かれたままのぼくの手を見て、ぼそっとつぶやいた。
「体もないのに自傷って、ばかみたいだよ」
「ほっとけよ。どうせ怪我なんかしないんだ」
「何、カリカリしてんの」
「してない!」
 大声を出してから後悔する。樹菜に八つ当たりしたって仕方がないじゃないか、と思う。謝ろうとしたけれど、その前に樹菜は行ってしまった。取り残されたぼくは、壁に額を当てて、静かにうめいた。
 体もないのに――か。たしかにそうだ。ぼくは消えたかった。この世界から出ていきたかった。だから首を吊ったはずなのに、なぜか今では自分を世界に繋ぎ止めようと精一杯だ。だれかが聞いてくれることを期待して、ひとりぼっちで壁を叩き続けている。樹菜の言うとおりだ。本当に、ばかみたいだった。
 次の日と、その次の日は、ぼくは何もしなかった。だれも廃墟を訪れなかったからだ。そして次の日も、そのまた次の日も。
 五日目で、ぼくはおかしいと気づいた。こんなに間隔が空いたことは、今までになかった。理由を考えているうち、ふと恐ろしい事態に思い至って、背筋が冷たくなった。
 事件が風化しつつあって、人々の興味が薄れてきているのだ。考えてみたら。こんな山奥の廃墟が、あれほど賑わっていたことのほうが異常だった。やがてこの廃墟は元通り、めったに人が訪れない場所となるだろう。そうなったら、ぼくの声はだれにも届かない。
 ぼくは、黄色いテープの巻かれた正面玄関めがけて走った。そのテープは、今ではマナーの悪い訪問者によってなかば剥ぎ取られている。玄関から顔を突き出すと、前と同じような抵抗を感じる。でもかまわない。ぼくは力の限り叫んだ。
 だれか来てくれ。ぼくの声を聞いてくれ。違うんだ。ぼくはそんなつもりで。
 そのとき、だれかがぼくの服の裾を掴んで、引っ張るのを感じた。例の不思議な力による抵抗と合わさって、ぼくは後ろ向きに吹っ飛んだ。仰向けに倒れているぼくの顔を、樹菜が覗き込んでいた。
「ねえ、もうやめなよ」
「やめない」
「あんた、完全におかしくなってるよ。モールス信号なんかどうだっていいじゃん。どうしてそんなに必死になるの?」
 どうしてって、そんなの決まっている。
「――誤解されたままなのは、嫌だって」
「え?」一瞬、樹菜は考えた。「ああ、そう。あたしが言ったんだっけ」
 ぼくは上半身を起こして、体育座りをした。最初から無理な相談だったのかもしれない。まともな人間は、死人の声に耳など傾けない。この世では、まだ生きている人の声でさえ、うんざりするほどたくさん聞こえてくるのだし。
「じゃあ、あたしのため?」
 樹菜にそう聞かれても、ぼくはぶんぶんと首を横に振った。
「違う。ぼくが嫌なんだ」
「あたしと恋人だったって思われるのが?」
 返事をしようとしたところで、いきなり彼女の言葉の意味に気がつき、反射的に顔が熱くなる。イエスでもノーでも、違うほうに受け取られそうだ。
「そうじゃなくて――」
 ぼくはしどろもどろになってしまう。どう説明したらわかってもらえるのだろう。何も思いつかなかった。だから、自分の考えをひとつずつ話すことにした。
「恥ずかしいんだ。いじめられてること、だれにも相談できなかった。これがいじめだって認めるのが怖かった。自分がいじめられて助けを求めるような、弱いやつだって思われたくなくて」
 樹菜は何も言わなかった。黙ってぼくを見つめ、それから、ぼくの隣へ腰を下ろした。
「首を吊るのに、こんな場所を選んだのだってそうだ。家族や知り合いに見つけられたくなかった。死体を見られて、ああ、こいつは逃げて死んだんだって、そんなふうに、だれかが」
「だれも言わないよ」
「言わなくたって――言われるかもしれないと思っただけで、ぼくは何もできなくなる。ぼくはそういうやつなんだ。そういう、情けないやつなんだよ」
 胸の奥に溜まっていた言葉を吐き出していく。自殺しようと決意した後になっても、まだどこか曖昧だった自分自身の感情を、今なら完璧に理解できそうな気がする。本当の自分を知られたくない気持ちと、だからって隠し通すこともできない弱さと、その板挟み。
「じゃあ、あんたはそのことを、みんなに伝えたいの?」
「違う。きみを巻き込みたくないんだ。ぼくは情けない子供で、勝手に追い詰められて、勝手に首を吊った。きみは関係ない。きみの死はきみだけのものだから、そんなことで上書きされてほしくない。嫌なんだ」
 すると樹菜は意外そうに目を開いて、ぼくのほうを見た。女の子に見つめられるのは慣れていなかったので、つい視線をそらした。
「そっか、そうだよね。あたしの命は――あたしだけのものだもんね」
 彼女の言葉には、ちょっと引っかかる感じがあった。そこでふと、ぼくは樹菜がなぜ死んだのか、その理由を知らないのだと気づいた。
 尋ねようとした瞬間、どこからか人の話し声と、足音が聞こえてきた。ぼくは会話を中断して、音の主を探した。テープが張られた正面玄関の向こう側に、やがて人影が現れた。久しぶりの来訪者だった。

 *

 やってきたのは三人組だった。男がふたり、女がひとり。そのうち、男の片方には見覚えがあった。以前にもここを訪れていたジャーナリスト風の男だ。もうひとりの男は、その助手のような立場らしく、ものものしい機材を担がされている。女のほうはよくわからない。かなり若く、神経質そうな見た目で、怯えたように周囲を見回している。
 助手の男は、背負っていた三脚を、エントランスホールの隅に設置する。三脚の上に取り付けているのはビデオカメラらしいけど、ぼくが見たこともないようなパーツが何個もくっついている。その間、記者風の男は連れてきた女と、何やら会話している。ぼくはカウンターの陰に隠れて聞き耳を立てた。
「ぜひ先生に霊視してもらいたいと思ったんです。ここで起きた事件については、まだ謎が多くて」
「先生はやめてください」と女が言う。「それに霊視だなんて――わたしはただの素人ですから」
「でも、幽霊がお見えになるんでしょう?」
「姿をはっきりと見たことはありません。感じることができる、という程度です」
「だったら、今は感じますか?」
 そう聞かれて、女は黙り込んだ。意識を集中させているのかもしれない。ぼくは期待しながら、女の答えを待った。
 しばらく経った頃、ようやく女が言った。
「息遣いのようなものが聞こえます。かすかに、そう、そのカウンターのあたりから」
 ぼくは心臓が飛び出るくらい驚いた。と同時に、彼女は本物だと思った。本物の霊媒師だ。
 いつもの、でたらめモールス信号を打ち始めるべきだろうか。いや駄目だ。もしも彼女が本当に霊を見ることができて、ぼくの存在も完璧に察知しているのなら、でたらめな信号はかえって混乱させることになるかもしれない。
 このままタイミングを待つことにした。樹菜はどこにいるんだろう。彼女はいつも、人が来ると奥へ引っ込んでしまう。捜しに行きたかったが、万が一、霊媒師たちがぼくの姿を見たら、怖がって逃げてしまうかもしれない。これは二度とないかもしれないチャンスだ。危険は冒せなかった。
 一時間ほどかけて、彼らの準備は終わった。エントランスホールには二台のカメラと、いくつかの観測機器が設置された。霊媒師の女は部屋の中心に立ち、自身の周りを、祭具のようなもので取り囲んでいる。記者風の男はハンドグリップのついたスマートフォンを持ち、助手の男は少し離れた場所でノートパソコンを開いている。
「準備オーケーです」
「よし――先生、始めてください」
 霊媒師の女が目を閉じる。その隙に、ぼくはカウンターの裏から抜け出して、エントランスホールから建物の奥へと向かう通路のほうへ身を隠した。と、計器をモニターしていた助手の男が声を上げた。
「温度計に変化がありました。磁場もです」
「出たか」
 ぼくの動きが、あちらの機材にも影響を与えたらしい。ぼくは期待で胸が膨らむのを抑えきれない。霊媒師の女がふたたび目を開けて、男たちのほうを振り返る。あらかじめ段取りを決めてあるのだろう。アイコンタクトだけでうなずくと、霊媒師はまた正面を向いて、言った。
「この場所に囚われた魂よ。わたしの言葉が届いていたら、反応してください」
 明らかに、それはぼくたちへの問いかけだった。ぼくはすぐ横の壁を力いっぱい叩いた。何度か叩いて、女のほうを見る。彼女の表情は、驚いたようなものに変わっている。
「今、聞こえましたか」
 女はそう尋ねたけれど、後ろの男たちは顔を見合わせ、首を横に振る。ぼくの立てた音が聞こえているのは、彼女だけのようだ。でもぼくにとってはそれで十分だった。霊媒師は小さく深呼吸して、また口を開く。
「では、迷える魂に質問をします。質問の答えがイエスなら、反応を返してください。――あなたは、ここで命を落とした高校生ですか?」
 ぼくは、また壁を叩いた。霊媒師が何かを納得したように目をつぶる。
「あなたたちは、心中したわけではない。それも本当ですね?」
 興奮しながら、さらに壁を叩く。彼女たちはもう、そこまで真相に迫っていたんだ。これでうまくいく、とぼくは思った。これでぼくたちの声は、正しく伝わる。
 霊媒師はうなずき、次の質問をした。
「あなたは殺された。あなたの意思とは関係なく、ということですね」
 壁を叩こうとした手が止まる。
 質問の意味がわからない。何を言ってるんだ、あいつは。殺されたって、だれが?
 反応がなくなったので、あちらも不審に思ったようだ。重ねて質問する。
「あなたは心中などしなかった。あの少年に殺された。そうですよね?」
 そこで気づいた。彼女は、ぼくに質問をしているんじゃない。
 さっきから反応を返しているのは、樹菜のほうだと思われていたのだ。そして、彼女の言葉を信じるなら樹菜は――殺された。しかも犯人は、ぼくだと思われている。
 そのとき背後に気配を感じた。振り向くと、樹菜が立っていた。
「聞いちゃったんだね」彼女は微笑していた。「まあ、永遠に騙せるとは思ってなかったけど」
 樹菜は首に巻いていたマフラーをほどいた。初めて会ったときからずっと巻かれていたものだ。マフラーの下から現れたのは、大きな切り傷だった。喉のあたりがぱっくりと裂けている。血は少しも流れていないけれど、皮膚や筋肉の断面がむき出しで、それがかえってむごたらしく感じた。
「ごめんね。気持ち悪いもの見せて」
「そんな」
「でも、これが事実だよ。あたしは自殺したんじゃない。ここで殺されたの。あんたがここへ来る、少し前のことだった」
 考えてみたら心中というのは、恋人同士がそれぞれ自殺するという意味ばかりじゃない。ひとりがもうひとりを殺し、それから自殺するのだってそう呼ばれる。ここへ来た人たちが言っていたのはそういうことだった。つまりぼくたちは、無理心中をしたカップルだと思われていたんだ。
「でも、なんで」
「あたし、付き合ってる男がいたって言ったでしょ。そいつに呼び出されて殺されたんだよ」
「そういうことじゃない。なんで言ってくれなかったんだよ。自分は殺されたって、自殺じゃないって」
「だって」樹菜は、いつもの冷めた声で答えた。「どうにもならないでしょ。死んだら終わりだし」
 死んだら終わり。それはそうだ。ぼくだってそう思っていた。なんであれ目の前の現実から逃れられるなら、それでよかった。なんの価値もないこの毎日を、ただ終わりにしたかった。あの夜も、そのつもりでここへ来た。
 だけど、その行為が、本当は無価値じゃなかったら。どうしようもない人生でも、それでもまだ生きているということに、何かの価値を見いだせていたとしたら。たとえば、そう。
「ぼくがここへ来たとき、優木さんはもう死んでた」
「そうだよ」
「どこで」
「たしか、あのへんだったかな」
 彼女は、ぼくがさっきまで隠れていたカウンターの裏あたりを指さした。ぼくが首を吊るため、ロープを垂らした位置から二メートルほどしか離れていない。
 ほんのちょっとでよかったんだ。ほんのちょっとの気づきさえあれば、ぼくは樹菜を見つけられた。人生を終わらせる前に、価値のある何かをするチャンスがあった。
「きみを殺した相手は、まだ捕まってないんだろ」
「誤解されたままってことは、そうなんじゃないの。あんたが犯人呼ばわりされてるってことは」
「ぼくが遺体を見つけて通報していたら、犯人は捕まっていたかもしれない」
「そうかもね」
 だから、ぼくのせいだ。ぼくがすべきことをしなかったから、樹菜はここに縛られ続ける。
 ぼくは立ち上がった。樹菜が怪訝そうにぼくを見た。
「どうしたの」
「やらなきゃ。今すぐ」
 それだけ言って、ぼくはエントランスホールに駆け込んだ。部屋の中央には霊媒師がまだ立っていて、質問を繰り返しているところだった。ずっと反応がなかったので戸惑っていたことだろう。ぼくは彼女に向かって叫んだ。
「ぼくは――殺してない!」
 だが、あちらの様子に変化はなかった。ぼくはさらに近づく。
「あの子を殺してない。ぼくはあの子とは、なんの関係もない。ぼくはただ――」
 さらに距離を詰める。生身の人間だったら、お互いの息がかかるというところまで。それでも女の目は、ぼくに焦点を合わせず、もっと後ろのほうを見つめている。
「ぼくはただ、ひとりぼっちで死のうとしただけなんだ。情けない人生を終わりにしたかっただけなんだ。それがだれかを困らせるとか、悲しませるとか、そんなこと考えもせず、ただ、ひとりで」
 右手を持ち上げ、彼女の肩に伸ばす。
「ただ、ひとりで消えたかっただけなんだ――」
 伸ばした手が、彼女の肩に触れる。
 はっとして、ぼくは手を引っ込めた。触った。今。
 しかし、ぼくより驚いていたのは霊媒師のほうだった。ぎゃあっというものすごい悲鳴を上げて、のけぞるように後ずさりする。ふたりの男が狼狽して、機材を蹴飛ばした。
「どうしたんですか、先生!」
「か、肩に何かが」
 触れられるのか。ぼくの声が届くのか。今なら。
 ぼくは霊媒師に飛びかかろうとした。だが、指先が彼女の体をかすめる寸前、あちらが身をよじって避けた。
「嫌、嫌、嫌!」
 三脚が倒れ、カメラが床に叩きつけられた。砕けたプラスチックの破片が散乱する。助手の男は何かわけのわからないことを叫びながら、外に逃げていく。それをもうひとりの男も追いかける。
 霊媒師は、腰が抜けてしまったのか、ぺたんと座り込んでいる。ぼくは彼女ににじり寄った。青ざめた顔で震えている女の前でかがみ、彼女の肩を両手で掴む。
 けれど、その手は空を切る。
 何度か繰り返した。でも駄目だった。ぼくの手は、もう彼女の体に触れられない。霊媒師は耳を塞ぎ、目を閉じて、お経か何かをぶつぶつと唱えている。こうなったらぼくの声も届かないだろう。
 と、一度は逃げ出した男たちが戻ってきて、霊媒師を抱きかかえた。ぐったりした女を背負うようにしながら、彼らは廃墟を出ていった。あとには放置された機材の山と、静寂だけが残った。
 ぼくは自分の指を鼻先に持ってきて眺めた。さっきはたしかに手応えがあった。あれは、でも、一瞬の奇跡みたいなものだったのかもしれない。波長が合ったとか、そういう何かによって、その瞬間だけ起きるたぐいのことだったのだ。きっと。
 膝をついたまま、動けなかった。周囲が急速に色を失っていくような感じがしていた。これが最後の機会だったという気がしている。さっきの三人組によって、危険な悪霊がいるという噂が広まれば、もう遊び半分でここを訪れる人はいなくなるだろう。ぼくたちの声はだれにも届かなくなり、真実は埋もれていく。
 だけど、それは仕方ないことなんだ、とも思う。これはみんなが――何よりも、ぼくが――選んだ結果なんだ。ぼくは望んでこの場所へ来た。そして、ただ、終わらせようとした。解決ではなく。
 そのとき、樹菜の声が聞こえてきた。
「ねえ、あんたはよくやったよ」
「何もかも手遅れだったけどね」
「そんなことない。いつだって、なんだってやり直せるんだよ。――あたしにはなかったけど、その時間さえあれば」
「ぼくにだって――」
「気づいてるんでしょ、とっくに」
 そう言うと彼女は背中から、ぼくに抱きついてきた。耳のすぐ近くに、彼女の唇を感じた。そしてキスをする寸前、樹菜は言った。
「あんたは幽霊じゃない。ずっと足があったんだから」
 ぼくは目を閉じた。

 ちかちかと光がまたたく。それは星のように、火花のように弾けて、そのたびに刺すような痛みが走る。
 耐えかねて、まぶたをそっと持ち上げる。そこはもうあの廃墟ではなかった。白い天井と、薄黄色のカーテンが見える。どこなのか知りたいと思って視線を走らせるけれど、眼球の奥にひどい痛みがあって、思うように動かせない。
 手も足も、じわりとしびれている。口の中が切れそうなほど乾燥している。鼻には何か突っ込まれているようで、ひたすら不快感がある。全身が鈍く痛む。ああ、そうか。そうなのか。
 ぼくは生きているのか。
 カーテンが揺れ、だれかが近づいてきたのがわかる。たぶん看護師さんだ、と思った。ここは病院で、ぼくはベッドに寝かされているのだ。看護師さんはぼくの目を覗き込んで何かに気づくと、早足で病室を出ていく。しばらくして、お医者さんらしき人が現れ、その後から、ぼくの母親がやってくる。
 まだ生きている。そう思ったら、どういうわけか涙が止まらなくなる。
「大丈夫ですよ、お母さん。これは正常な反射ですから」
 という声がする。ぼくは目をつぶり、まどろみの中へと落ちる。

 *

 退院して、満足に歩き回れるようになるまで二カ月もかかった。とはいえ、これは早いほうと聞く。状況を考えたら、もっと深刻な後遺症なりなんなりが残っていても不思議ではなかった。
 あの日、廃墟にやってきた警察官が、首を吊って揺れているぼくを発見した。なぜ警察がそんなところにいたのかと言えば、彼らは樹菜を捜していたからだった。深夜になっても帰宅しない樹菜のことを不審に思い、彼女の両親が警察に通報した。スマートフォンのGPS履歴から割り出された座標を中心に捜索がおこなわれ、その中で、たまたまぼくを見つけた。
 発見が早かったこともあり、ぼくは一命をとりとめた。しかし脳へのダメージは深刻なもので、ぼくの意識は戻ることなく、何週間も昏睡状態で、生死の境をさまよっていたのだそうだ。
 一方、同じ廃墟からは、樹菜の遺体も発見されていた。
 ぼくの首吊りと樹菜の死は、たちまち結び付けられた。噂が飛び交い、ネット上には怪しげな「推理」がいくつも書かれた。しかし、警察はそんな噂を真に受けることはなかった。ぼくと樹菜にはなんの接点もないし、彼女の喉を切り裂いた凶器は、ぼくの所持品から見つからなかった。
 それでも、下手をするとぼくのせいで事件が迷宮入りしかねないところだったのは本当らしい。というのも、廃墟に踏み込んだ警察官たちは、首を吊っていたぼくに注意を引きつけられ、すぐそばにあった樹菜の遺体にはしばらく気づけなかったからだ。そのせいで現場の保全が十分におこなわれず、また状況からぼくが犯人と決めつけられて、初動捜査に遅れが出た。
 だから、ぼくが入院していた数カ月間、捜査は行き詰まっていた。しかし、やがて意外な方向から事態は動き出す。きっかけは、ぼくが廃墟で最後に出くわした、例の三人組だった。
 あのジャーナリスト風の男は、調べてみると、どうもオカルト業界では有名な存在だったらしい。その彼が、これこそ本物の心霊現象の記録と称して公開したのが、あのときの映像だった。何かに触れられた霊媒師がパニックを起こして昏倒するシーンには、やらせとは思えない迫力があり、たちまち拡散されてブームとなった。噂では著名な監督による映画化も企画されているというが、そんなことはどうでもいい。
 映像が広まると同時に、あの廃墟のことや、そこで起きた事件のこともふたたび注目されるようになった。普段は新聞やニュースを見ない層の人々も、この話題には反応した。近所に住んでいたが、女子高校生が殺される事件があったことなど今まで知らなかったという人もいた。その人が警察に伝えた情報から、ついにひとりの容疑者が浮かび上がった。
 そうして、ぼくの担任教師の加山が逮捕された。
 F高に彼氏がいる、と樹菜は言っていた。でも生徒だとは言ってなかった。それに自殺を図った夜、ぼくは廃墟へ行く途中で、猛スピードの車とすれ違っている。暗くてよくわからなかったけれど、落ち着いて思い出してみると、あれは加山がいつも乗っていた車だった気がする。
 警察の調べによれば、加山は樹菜と交際していた。ところが、その関係が周囲にばれそうになり、焦った加山は口封じのため、彼女を殺したのだという。身勝手な動機で虫唾が走る。あいつは、しかるべき罰を受けるべきだ。
 けれど、それでもどこかすっきりしない気持ちが残る理由は、ぼくが「殺された後」の樹菜を知っているからだと思う。彼女は自分を殺した相手のことをほとんど話さなかった。死んだら終わりだ、と彼女は言っていた。彼女はぼくと似ていたのかもしれない。結果としては殺されたのだとしても、どこかで、そうなることを望んでいたのかもしれない。
 ――あたしにはなかったけど、その時間さえあれば。
 今日、ぼくはまた、あの廃墟へ戻ってきた。
 建物の様子はあまり変わっていない。正面玄関の黄色いテープもそのままなら、エントランスホールに散乱する降霊実験の機材もそのままだ。さすがにまだ動くものは持ち去られているようだけれど、壊れた破片や、謎めいた祭具がいくつか落ちているのを見つけた。
 ぼくはカウンターの裏に回った。そこで樹菜は死んでいたのだと、彼女自身から教えてもらっている。ぼくは持参した花束を置き、しゃがんで手を合わせた。
 あの体験はなんだったのだろう、と何度も考えていた。ぼくの体から抜け出た魂みたいなものが、本当にこの場所に取り憑いていたのだろうか。あるいはすべてが完全なる夢の産物で、樹菜とぼくは、本当はただ一言も言葉を交わしてなどいないのだろうか。
 ただ、あの霊媒師は間違いなく、この場所で「何か」に触れられる経験をしたという。ぼくの記憶では、それはぼくの手だったことになっている。仮にそうだとして、それまで現実世界には干渉できなかったぼくが、なぜあの一瞬だけは霊媒師の体に触れることができたのだろう。霊媒師の力がそれほどまでに強かったのか、あるいは、ぼくの必死な思いが、なんらかの法則をねじ曲げたのか。
 わからない。でも、ぼくはそれでいいのだと思った。そんなありえない奇跡でも起きない限り、死んだ人間の声は、だれにも聞こえない。それでも耳を傾け続けるしかないのだ。そしてそれは、まだ生きている人間にしかできないことだと思う。
 ぼくはその場で耳を澄まし、樹菜の声を聞こうとした。風に揺れる木の葉の音や、鳥の鳴く声や、自分自身の息遣いの中から、存在しない声を聞き取ろうとした。
 そのとき。
 不意に、ぼくは背中に何かの重みを感じた。それは柔らかく、しなやかな重さだった。ぼくの背中全体を包み込むような感触で、ほのかに温かい。まるで――女の子の体みたいに。
 ぼくは動きを止めた。すると、どこかから甘い匂いが漂ってきて、鼻をくすぐられた。
「樹菜」
 そう口にした瞬間、背中にあった重みがすっと上向きに離れていくのがわかった。その動きにつられて、慌てて立ち上がる。しゃがみっぱなしだった膝が、ぴきぴきと音を立てる。でも離れていくその感触に追いつくことはできず、やがて重みは完全に消えた。
 ああ、行ってしまった。ぼくはせつなさのあまり胸が苦しくなった。この場所にあった大切な何かが、今なくなった、そんな気がした。ぼくはだれもいない廃墟を見渡した。ここで死んだ女の子のことを、ぼくは思った。
 けれど、その甘い匂いだけは、いつまでも消えずに残っていた。