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中村航の短編小説『頼道さんの欲しいもの』

小説家・中村航さんの新作短編を公開します。先日、『愛じゃないならこれは何』の刊行を記念した斜線堂有紀さんと中村航さんの対談が行われましたが、その時出たキーワードをテーマに書いて頂いた恋愛短編です。そのキーワードとは『異常行動』……。端的にいうならば『恋愛してるときの暴走行為』……でしょうか。恋愛している時、絶対異常なのに、絶対誰しもやってしまう……。もちろん斜線堂さんも中村さんも、やっています。詳しくは対談にあるのでそちらもぜひ読んでみてください。中村さんの描く異常行動とは……。少女たちのあざやかな生き様が刻まれた一編です。


作者プロフィール

中村航(なかむらこう)

『リレキショ』で第39回文藝賞を受賞しデビュー。代表作に『夏休み』『ぐるぐるまわるすべり台』『100回泣くこと』など。『デビクロくんの恋と魔法』『トリガール!』などメディア化作品も多い。大規模メディアプロジェクト『BanG Dream! バンドリ!』のストーリー原案・作詞など小説以外の活躍も。


頼道さんの欲しいもの


 好きという言葉は生ぬるいと亜衣乃は思う。
 LikeよりもLoveよりも純粋でほとばしるこの気持ちは、クラスメイトの言っている長尾っちが気になるとか、藤田くんが好きとか、橋谷センパイが格好いいとか、そういうのとは全然違う。言葉にできないこの気持ちを、もしも言葉にするとしたら、小野寺さん――、小野寺修一さん――、小野寺修一センパイ――、

 ――お慕いしています。

 校舎の屋上へと続く踊り場で、滝内亜衣乃は深く息を吸った。
 屋上へと続くドアには常に鍵がかかっていて、ここには誰も来ることがない。どこまでも深く小野寺センパイを慕う自分以外は。
 あと二ヶ月だった。あと二ヶ月で小野寺センパイは卒業し、この校舎からいなくなってしまう。残り二ヶ月の恋が今、試されている。
 好きだから告白できない、とか、好きだからこそ勇気が湧かない、とか、そういう〝好き〟は生ぬるいと思う。○○と言われたらどうしようとか、△△だったらどうしようとか、そういうのは、自分のことが可愛くて大切だから、生まれる迷いだ。相手を慕うこの気持ちに比べたら、自分のことなんてどうだっていいじゃないか。
 静かな踊り場で、中学二年生の亜衣乃は存在証明のような白い息を吐いた。春のまだ遠いその場所で、小野寺センパイを想い、どきどきした気持ちを勇気に変えていく。
 そろそろだろうか……。
 ベストのタイミングなんてわからないから、自分で頃合いを見極めるしかなかった。とはいえ正確な頃合いなんてわからないから、小野寺センパイ、と小さく口に出してみる。小野寺センパイ――、今から行きますね、小野寺センパイ――。
 ふう、と息を吐いた亜衣乃は、一歩を踏みだした。踏みだせば、足取りに迷いなんてなかった。この日の行動イメージは、何日も前から頭のなかで濃くしてきた。
 早足で歩けば、両脇の景色が流れた。階段も廊下も、しん、としている。まだ授業をしている教室には目をくれず、亜衣乃は制服の胸より下のあたりを押さえながら、すたすたと廊下を進む。
 三年C組の生徒は今、音楽の授業で音楽室にいた。そのため無人の教室の扉を、お慕いしています、などと思いながらそっと開ける。
 教室に侵入した亜衣乃は、迷いなく後ろのロッカーの左端へ向かった。左から二番目の上の段のロッカーを開け、adidasのロゴが入った黒い袋に手を伸ばす。
 袋から取りだしたのは体操服だった。胸の緑のラインの中に、『3―C 小野寺』と書かれたゼッケンが縫い付けてある。
 午前の体育の授業で使用された彼の体操服に顔をつけ、亜衣乃は思い切り息を吸い込んだ。
 小野寺センパイの匂い……。
 自分はセンパイを狂おしく慕っている。ラインを越え、ノンストップに、ノールールに。
 好きすぎる……。
 もっとこの匂いを嗅いでいたかった。このまま一時間くらい幸せに浸っていたかったが、そんなことをしている場合ではなかった。
 体操服の匂いを嗅ぐなんて、もうすでに何度かやってきたことだ。そこから先の〝恋慕〟へと踏み込むために、自分はここにやってきた。
 Changeだ。亜衣乃は自分のブレザーの中に隠し持ってきた体操服を取りだし、adidasの黒い袋に入れる。本物のほうは懐に入れ、くるり、と踵を返した。
 足音を立てないように教室を出れば、懐にセンパイのぬくもりを感じた。
 両手で懐を抱くようにして廊下を歩き、センパイとの一体感を楽しんだ。今からお腹が痛い、と言って保健室に行くわけだから、その行為にはあまり矛盾はなかった。

      ◇

 家に戻って小野寺センパイへの恋慕を存分に楽しんでいると、階下から、ぴんぽーん、と音が聞こえた。しばらくして、亜衣乃ー、と母親の声がする。
 何だろうと階段から顔をだすと、「友だちが、忘れ物だって」と母親が言った。
 友だち……?
 リビングに戻る母親と入れ替わるように、亜衣乃はゆっくりと階段を下りた。友だち……。
 忘れ物なんて身に覚えがないし、友だちにはもっと身に覚えがなかった。多少喋るくらいのクラスメイトはいるけど、家に訪ねてくるような関係性の者はいない。部活もしていないし、塾に行っているわけでもなく、ただ密かに小野寺センパイを慕っているだけの自分を、友だちと呼ぶような人間がいるだろうか……。
 んん?
 その女子を見て、亜衣乃の動きと思考は止まった。
 玄関に立っていたのは、クラスメイトの頼道さんだ。美しい顔立ちで、背が高くて、はきはき喋り、みんなから好かれている頼道さん。クラスの裏街道を進む亜衣乃との共通点は、同じクラスにいる、ということだけだ。
「急にごめんな」
 頼道さんが両手を合わせてぎゅっと目を瞑り、申し訳なさそうな表情をした。
「……忘れ物っていうか、相談があるんやけど、ちょっとだけ部屋に入れてもらってもええ?」
 中学進学と同時に関西から引っ越してきて、未だ関西弁が抜けていない彼女だったが、そのキャラクターのままクラスに溶け込んでいた。声の大きなその関西弁は亜衣乃の耳に焼き付いているけど、正面から聞くのはこれが初めてだ。
「……いいけど」
 訝りながら頷くと、弾けるような笑顔が返ってきた。
「ありがとう!」
 キュートな人のキュートな表情だった。ありがとう、の、とう、の部分にアクセントがある。
「……どうぞ」
 靴を脱いだ頼道さんを家にあげ、警戒しながら二階へと案内した。ドアの前で少し待ってもらい、置きっぱなしだった小野寺センパイの体操服を、引き出しの奥に隠した。
「ごめんな、急に」
 部屋に入ってきた頼道さんが、ベッドの横にちょこん、と座った。お気に入りのピンクパンサーのぬいぐるみが置いてある以外は何もない無機質な亜衣乃の部屋が、急に色づいた気がした。
「あんな、亜衣乃ちゃん、相談ってのは……、ちょっと言いにくいねんけどな……」
 頼道さんは亜衣乃のことを、亜衣乃ちゃん、と呼んだ。
「……あんな、うち、実はな、」
 それが何なのか見当もつかない亜衣乃は、次の瞬間、驚愕することになる。
「……うち、……小野寺センパイのことが、好きやねん」
「ええ?」
 驚いた亜衣乃だったが、すぐに、いやいやいやいや、と思った。
 だってそんなわけはなかった。頼道さんのような輝く女子が、小野寺センパイみたいな冴えない人を好きになるわけがない。というかそもそも、それを亜衣乃に伝えてくる道理がなさすぎる。
「……頼道さん」
 警戒心をマックスにしながら、亜衣乃は問うた。
「どうして、そんなことを私に言うんですか? おかしいですよ」
 頼道さんはかっ、と目を見開き、驚いた表情をした。
「……亜衣乃ちゃん、なんで敬語なん? それに、頼道さん、て」
「別に敬語でもいいと思います。頼道さんだって、急に私に、馴れ馴れしく話しかけてくるのは、変じゃないですか?」
 亜衣乃は守るような気分だった。小野寺センパイのことを、そして自分の恋慕を守る、固い衛兵になったような気分だった。
「……敬語……せやな、確かに」
 つぶやくように言った頼道さんの表情が、少しずつほどけていった。
「うちが馴れ馴れしいのは、ほんまごめんな。もともと、こんなふうにしか、話せへんねん」
 うん、うん、と、頼道さんは頷きながら言った。
「亜衣乃ちゃんがうちに敬語を使うのも、考えてみたら別に変やないな。さん付けするのも、おかしないし。もちろん、好きな呼び方してくれていいし、敬語でもかまへんで」
 亜衣乃は警戒を解かなかったが、息を吐いた頼道さんはにっこりと笑った。そしてまた、恥ずかしそうに口を開いた。
「……そんでな、うち、めっちゃ、小野寺センパイのことが好きやねんな」
「そんなの嘘です」
「ええ!?」
 また目を見開いた頼道さんに、亜衣乃は言った。
「だって小野寺センパイって、ひょろひょろメガネの冴えない人ですよね? そんなのおかしいと思います」
「いやいや、ひょろひょろで冴えないのが、ええんちゃうの?」
 素っ頓狂な声をだす頼道さんに、んん? と亜衣乃は思った。
「うちはああいう、ほっそい人が昔っから好きやねん。細ければ細いほどええねん。あの人ゴボウみたいやん。そのゴボウみたいなんがええやん」
「……ゴボウっていうか、……マッチ棒、みたいな?」
「そう! うちはそういう、マッチ棒がメガネかけたような男が、どうしようもなく好きやねん。風が吹いたら折れそうな感じが、たまらんねん」
 わかる、と言いそうになった亜衣乃に、頼道さんはうっとりした顔で続けた。
「うちより力、弱そうやん。動きもなんかカクカクしててオモチャみたいっていうか、巨神兵が骨組みだけになったみたいで、愛らしいやん。そんでな、亜衣乃ちゃん。うち今日、見ちゃったのよ。ごめんな」
 愉快な気分になりかけていた亜衣乃は、また緊張に引き戻された。
「警戒せんといてや。うちら同担やん」
「……同担?」
「ずっと前から、もしかして思てたんよ。亜衣乃ちゃん今日の三時間目だって、校庭見てたやん? うちもおんなじやで。ゴボウみたいやわー、好きやわー、っていつも見てるから。うちの席からやと、ようわかんねん。小野寺センパイ、ゴボウやのに一人でぽつんとゴールキーパーやったりするやん。亜衣乃ちゃん、ずっとそっち見てるやん」
 青天の霹靂だった。クラスでの自分は空気のように存在しているから、自分を観察している目があるなんて、想像していなかった。
「それにちょっと前から亜衣乃ちゃん、金曜の五時間目の授業、サボってるやん? 何してるんやろ思て気になってん。そんで……、うちも気付いたんやけど、センパイ金曜の五時間目は移動教室やねんな」
 もしかしてバレているのだろうか……。だとしたらどこまで……。
 3―Cは金曜日の三時間目に体育があって、五時間目に音楽の授業がある。音楽の時間を狙って、亜衣乃は何度も教室に忍び込み、探り当てた小野寺センパイのロッカーから、三時間目に使われたばかりの体操服を取りだし〝恋慕〟した。
「今日の五時間目も亜衣乃ちゃんいなかったから、うちも勇気だして、お腹が痛いって言って、授業サボったんよ。亜衣乃ちゃんが3―Cに行くはずやって。だけど教室行ったら誰もいなくて……」
 迂闊だった。授業をサボろうが、誰も自分のことなんて気にしていないと思っていた。
「そしたら……、急に何か気配がしたから、とっさに教卓のところに隠れたんよ……。そしたら亜衣乃ちゃんが入って来てな……」
 頼道さんは亜衣乃の目をじっと見た。
「……うち、本気で亜衣乃ちゃんのこと尊敬したわ。うちにはとてもできんことを、軽々とやってのけてる。痺れたわ」
 亜衣乃は自分の手を見つめた。
「もちろん、こんなん誰にも喋らへんで」
 どうやら全部バレているようだな、と、亜衣乃は醒めた頭で観念した。だけど何故だか、この子になら良いか、とも思っていた。
 亜衣乃は金曜の五時間目にセンパイの教室に通い、体操服を見つめたり、嗅いだり、畳んだりした。それだけで幸せだったが、やがてどうしてもその体操服が欲しくなった。
 ゼッケンの位置や字を目に焼き付け、学校の近くの書店で同じサイズの体操服を注文した。ゼッケンを手作りして縫い付け、何度か着たり洗ったりして、良い具合に古めかし、今日交換してきた。
「そんでな、もしよかったらやけど……」
 頼道さんはくねり、と体を曲げるようにした。顔を赤らめ、上目遣いで亜衣乃を見る。
「……その体操服、うちにも見せてくれへん?」
 何なのか、と思ったが、どうとでもなれ、という気分で、亜衣乃は机の引き出しを開けた。ずずい、と前に出た頼道さんが、身を乗りだしてのぞき込んできた。
「……どうぞ」
「触ってもええの?」
「はい」
 頼道さんは、きゃん、というような声をあげてから、恐る恐るといった感じで体操服に手を伸ばした。両肩の部分に手をやって掲げ、うわあー、とファルセット気味の声をだす。
「……あの、……嗅いでもええの?」
「どうぞ、ご自由に」
 頼道さんはその小さな顔を、小野寺センパイの体操服にうずめた。そのまま動かない頼道さんを、亜衣乃は、ぱしゃりぱしゃり、と写真に収めた。
「ん、どうしたん?」
 スマホのシャッター音に気付いた頼道さんが顔をあげた。
「撮っておこうと思って。口止めになるかと」
 あははははは! と、教室でときどき聞こえる笑い声が、亜衣乃の部屋に響いた。
「そしたら、写真いっぱい撮ってや。そんで後でうちにも送って。あー、小野寺センパイの匂いやわー」
 早口で言った頼道さんが、また体操服に顔をうずめた。ぱしゃり。顔をあげて小野寺センパイの体操服を広げ、その後ろで首を傾げて微笑む。ぱしゃり、ぱしゃり。撮れた写真がとてつもなく可愛くて、亜衣乃は愉快な気分になってきた。
「ここちょっとだけ噛んでもええ?」
「いいよ」
 ほとばしる頼道さんは体操服の襟をぱくりと噛み、それからあむあむと何度か唇を動かした。ぱしゃりぱしゃり、と亜衣乃はシャッターを切る。
「この体操服、亜衣乃ちゃんの匂いもするで」
「さっきまで着てたから。全裸の上から」
「まじで!?」
 あははははははは! と、笑った頼道さんが、亜衣乃の肩をぱんぱん叩いた。
「それ、もう間接的なBやん! 乳首と乳首がおうとるやん!」
 確かにそうだ、と亜衣乃は思う。
「……頼道さんも、間接的に、センパイの首筋に唇当ててるよ」
「ぎゃー!」
 もんどり打った頼道さんは、体操服に顔をうずめたまま、じたばたする。
「自由やん! 間接なら何でも自由やん!」
「自由だよ」
「ええなあ、亜衣乃ちゃんはええなあ、うちも体操服欲しいわー」
 無邪気に羨ましがる頼道さんに、亜衣乃は可愛らしい犬を餌付けするような気分になっていた。
「……じゃあ……一緒に取りにいく?」
「え?」
「同担なら、グッズはお揃いで持っておいたほうが良いでしょ?」
 驚いた顔で亜衣乃を見つめた頼道さんは、やがて、こくり、と頷いた。
 十五歳の小野寺修一は何も知らなかった。
 彼の体操服は知らぬ間に新調され、その新調されたものもまた新調されようとしていたが、きっと何も気付かないだろう。彼はゼッケンの文字をまじまじと見ることなんてなかったし、たとえ見ても何も思わない。

      ◇

「亜衣乃っちー、プレゼントやでー」
 ポスターサイズの大きな袋を抱え、頼道さんは今日も亜衣乃の部屋に遊びに来た。
 袋の中には大きな額縁が入っていた。頼道さんは体操服を飾るために、その額縁を二つ購入し、一つをプレゼントしてくれた。
「これに入れるの?」
「せやで。うちはもうやってみた」
 頼道さんの言う通りに、ボール紙の型に体操服を着せ、額装した。
 完成したそれを見て、亜衣乃は吹きだしそうになった。小野寺修一というただの中学生の体操服が、野球選手やサッカー選手のユニフォームのように額に収まっている。同じものを頼道さんが持っているというのも破天荒だ。
「けど卒業までに、もう一つメモリーが欲しいやんな」
「……メモリー?」
「だってセンパイは卒業してまうんやで。もう二度と会われへんかもしれんやん」
 確かにそうかもな、と思った。亜衣乃は単にずっと見つめられるモノが一つあればそれで良かったのだが、言われてみれば確かに、もう一つあっても良い。
 亜衣乃は別に大胆不敵で神出鬼没なガールでもないし、常にスリルを求めているデンジャラスなガールでもなかんだ。ちょっとばかり好きな人のモノに固執しているかもしれないけど、それは多分、淡い思い出のせいだ。

 亜衣乃の初恋は幼稚園のバスの運転手だった。彼は『となりのトトロ』のサツキのお父さんが現実世界に現れたみたいな、細身でメガネなおじさんだった。
 まだ年少だったあるとき、バスで帰宅途中に気分が悪くなり、サツキのお父さんに抱っこしてもらって家に運ばれた。それに味を占めた亜衣乃は、卒園するまでに何度も気分が悪くなったフリをした。抱っこしてもらっているとき、たまたま胸ポケットに入っていたボールペンが落ち、こっそり持ち帰った。
 卒園してからの何年か、そのボールペンを見たり握ったりするのが、亜衣乃の恋だった。そのボールペンでサツキのお父さんの絵を描いたりした。トトロのオルゴール曲を聞きながらその絵を見つめていると、心が温かくなった。
 小学四年生になり、ちょうどそのボールペンのインクが尽きた頃だった。亜衣乃は急に、同じクラスの立花東吾を好きになった。細身の彼は四年生になってから近視が進んだようで、クラスで初めてメガネをかけ始めたのだ。
 五年生になる直前に、亜衣乃は思った。もうすぐ立花東吾とクラスが別々になってしまうかもしれない。別々になったときのために何か欲しい。亜衣乃はMONOの消しゴムを用意し、彼の愛用している同じ消しゴムとすり替えた。
 MONOの消しゴムを見つめながら、亜衣乃は何年か、立花に恋し続けた。だが中学生になると、立花東吾はコンタクトレンズをするようになってしまった。
 そんな亜衣乃が新たに見つけた細身のメガネが、小野寺修一だった。

「ベタやけど、制服の第二ボタンとか欲しない?」
 と、頼道さんが首を傾げた。
 亜衣乃の中学の男子の制服は詰め襟だった。好きな男子の上から二つ目のボタンをもらう、というのは、何故なのかわからないが何十年も続く卒業式のトラディショナルなイベントだ。小野寺センパイには関係ないかもしれないが、モテる男子の第二ボタンは、毎年の卒業式で争奪戦になるらしい。
「頼道さんだったら、卒業式のとき、普通にもらえるんじゃないの?」
「むりむりむりむりむり!」
 全然無理じゃないと思うのだが、頼道さんは手をぶんぶん振った。
「うちは、これが初恋で……。小野寺センパイて、正真正銘、初めて好きになった相手やし。だから、そんなん恥ずかしすぎて、絶対無理やねん」
「……へえー」
「こんな話できるのは、亜衣乃っちだけやし」
「どうして?」
 頼道さんはクラスの中心人物で、話し相手だってたくさんいるはずだ。女子たちが集まって恋の話をしているところでも、当然のように中心にいる。
「だって、クラスの子らには、恥ずかしくてよう言わんし……。亜衣乃っちは、同志っていうか……うちのことバカにしたりせえへんし」
 ふうむ、と亜衣乃は思った。よくあるしょうもない恋愛では、同じ人を好きだったら、敵やライバルとなることが多い。だがそのレベルを超えた恋する二人の間には、絆のようなものが生まれるのだろうか。
「じゃあ……、ボタン狩り行こっか?」
「狩るの!? 大丈夫かな」
「ボタンなんて、体操服に比べたら楽勝でしょ」
 ふふふ、と頼道さんは嬉しそうに笑った。
「ええなあ、亜衣乃っちは。勇気があって、自信もあって、堂々としていて」
 別に自信があるわけでも堂々としているわけでもなかったが、頼道さんからはそう見えるようだ。
「亜衣乃っちて、誰にも媚びてへんな。その佇まいが不敵な感じで、格好ええねんな」
「……頼道さんは誰かに媚びてるの?」
「媚びまくりやで。うちなんかほんま、人の目を気にしてばっかりや」
 それならどうしてそんなに大声の関西弁で喋っているのか、と思うのだが、他人からすれば恵まれているように見える人にも、きっと切実に足りないものがあるのだろう。
 だけど亜衣乃は別に、そのことに興味があるわけではない。
「……じゃあ、まあ、ひとまずボタン買いに行こうか」
「行こう行こう!」
 まだお店が開いている時間だった。二人は一週間前に体操服を買った店に、自転車で向かうことにした。
「うち、亜衣乃っちと一緒なら、何でもできる気がするわ」
 自転車を漕ぎながら頼道さんは歌うように言った。
「あとな、あれやねんな」
「……なに?」
「うち、亜衣乃っちの顔が好きやねんな。色白なところとか、にやって笑うときとか、好きやねんなー」
 この人は何を言っているのだろう、と思った。
 ボタンは裏の留め具も含めて一個二十五円だった。

      ◇

 クラスでの頼道さんは、たいてい人に囲まれていた。
 それは別に良いのだけど、最近、人垣の隙間からめざとく亜衣乃を見つけて、にこっ、と笑いかけてきたり、話しかけてきたりするようになった。
 教室では空気のようでありたい亜衣乃としては、それはむしろ、彼女と距離を取りたい理由になった。頼道さんたちが右後ろにいれば自分は左前、というように対角を意識し、休み時間を過ごした。
 ――次、三時間目やで! センパイの体育一緒に見よな!
 とでも言いたげなきらきら視線を、二時間目が終わったとき頼道さんが送ってきた。
 その輝く笑顔やウィンクを完全黙殺し、亜衣乃は発作的に席を立った。そのまま職員室に向かい、先生にお腹が痛いと告げた。
 職員室を出てトイレで時間を過ごして始業のチャイムをやり過ごし、何食わぬ顔で三年C組へと向かった。三時間目の今、三―Cは体育のため、教室は空のはずだ。
 三―Cの教室に忍び込んだ亜衣乃は、持っていたボタンを二つ、小野寺センパイの第二と第三ボタンと交換した。教室を出るとき、交換したボタンをよっ、と上に投げてぱしん、とキャッチした。
 造作もないことだった。何かと目立つ頼道さんと一緒にそれをするより、一人でやってしまったほうが早い。

「亜衣乃っちー! なんで一人で行ってまうん?」
「まあ、これくらいなら一人のほうが早いから」
「そんなこと言わんといてや、うちら生まれる前から共犯者やん」
「生まれる前は、ただの闇でしょ」
 部屋にやってきた頼道さんはふくれっ面をしていたけれど、ボタンを見せると嬉しそうな顔をした。桜模様の中心に、中、と書かれた二つのボタンは、買ってきたものと見た目は全く変わらない。
「ほら、これでもう、どっちが第二でどっちが第三かわからないでしょ」
 亜衣乃は両掌のなかで、ボタンをかちゃかちゃと振った。
「はい、頼道さんが選んで」
「……うん」
 ボタンを見つめた頼道さんはそっと一つを拾い上げ、きゅっと掌で握った。彼女の初恋相手の制服の胸ボタンは、第二か第三かわからないけれど……。
「これは、第二・五ボタンやな。お揃いや」
「そうだね」
 二人はボタンを握り、それぞれの想いに浸った。喜びや恋慕を共有できる第二・五ボタンは、第二ボタンよりも尊い気がした。
「センパイの卒業まで、あと三週間だね」
「せやな」
「……頼道さん、まだ欲しいものあるの?」
「そりゃまあ、あるわなあ。……んー、ノートとか。けどノートは代わりを用意できへんし、さすがに無理やなあ」
 頼道さんがそっと目を伏せると、長いまつげの影が見えた。
「無理ってことはないでしょ。例えば、一ページだけ切り取るとか。ノートが一枚減ってても気付かないでしょ」
「なるほど! 亜衣乃っち、天才やな!」
 その後、その計画も亜衣乃がさっさと遂行してしまった。
 因数分解の問題をひたすら解いたページを二人で分けると、頼道さんは泣いて喜んでいた。それを見た亜衣乃も嬉しくなって、ぱちぱちと瞬きをした。

      ◇

 卒業式の日、風はまだ冷たく、雨も降っていた。
 亜衣乃は在校生として、ひょろ長いセンパイを目で追うためだけに、卒業式に参加した。泣かないと言っていた頼道さんだが、堪えきれなかったみたいで、頬を何度もハンカチで押さえていた。それを見た亜衣乃も泣きそうになってしまったが、本当は大丈夫だった。私たちはまだまだ全然、大丈夫だ。
 雨の神社で待ち合わせ、二人は亜衣乃の家に向かった。亜衣乃は持っていた折りたたみ傘をしまい、頼道さんが開いたビニール傘の中に入った。彼女が開いたビニール傘の柄の部分には、「小野寺」と書かれたシールが貼ってあった。
 亜衣乃の部屋で、二人はセンパイの卒業を祝った。
「亜衣乃っち、絵めっちゃ上手いやん! 他にもないん?」
「ちゃんとしたのはこれくらいで、他にはあんまりないけど……」
 ちょっと恥ずかしかったのだが、亜衣乃は自分で描いたセンパイのイラストを頼道さんに見せた。
「凄いやん。他のも見してや! 今度うちの作ったんも見せるわ」
「え、頼道さん、イラスト描くの?」
「うちはイラストやなくて文字やで」
「へえー」
 二人は亜衣乃の描いたイラストの前に、第二・五ボタンを二つ並べた。
「センパイ、卒業おめでとうな! また会いに行くでな」
 何故だか手を合わせる頼道さんは、小野寺センパイのジャージの上を羽織っていた。
「これからも、よろしくお願いします。すぐに会いに行きます」
 隣で手を合わせる亜衣乃は、小野寺センパイのジャージの下を穿いていた。
 今日でセンパイは中学校を卒業したが、亜衣乃たちはセンパイを卒業したわけではない。こっそり後をつけて家の場所も調べてあったし、高校の場所や、塾の場所や、よく行くゲーセンも知っていた。
 亜衣乃にそんな気はなかったが、頼道さんは小野寺センパイと同じ高校に入りたいらしかった。

      ◇

 校門のそばの桜が散って、ちらほらと芽吹いた新芽の緑が目にまぶしい。そのまぶしさに包まれて踏みだした一歩を、あなたは見つけてくれるでしょうか?
 え、見つけるわけないって? そうだよね、そんなわけないんだけど、ついつい、そんなこと考えちゃう。
 だって、来ちゃったんだもん。うちはついに、ここまで来ちゃったんだ!
 あ! いっけなーい! 紹介が遅くなりました。
 うちは頼道加世。ちょっと前までいわゆるJC三年生ってやつで、今日から希望に胸を膨らませたJK一年生。うちがこの高校に来たのにはふかーい理由があって、それはまあ、そのうち話すとして……。
 って、えーーーーっ! ちょっ、ちょっと待ってや! そ、そんなそんないきなりなんで、どうして!!! どうしてなん?
「加世ちゃん、入学おめでとう。ずっと待ってたよ」
「え、えお、小野寺センパイ!」
 どどどどどどどうしよう! 待ってたって、そんなんうち聞いてへんし! こ、心の準備が全然できてへん! センパイ、そんな目でうちを見たらあかん! あかへんで!
「だから、こっちへおいでよ、加世ちゃん」
「ひぃゃあああ!」
 センパイはいきなりうちを抱き上げ、走りだしたのでした。
「だ、だめです、センパイ、そんな細い腕で、折れちゃう折れちゃう」
 走りだしたセンパイの胸にしがみつくうちのおでこに、ひらひらと舞い落ちてきた桜の花びらが、ぺたんと貼り付いた。
「加世ちゃんには、桜の花びらが似合うね」
「え、えっ! えっ!」
「今、僕、手がふさがっちゃってるから、口で取ってあげるね」
「え、いや! そ、そんな……、いやー! そんなぁー!」

 などと書かれた小説を頼道さんが読ませてくれたが、特に感想はなかった。
 実際の桜の季節、亜衣乃と頼道さんは別々のクラスに分かれた。
 亜衣乃としてはむしろそのほうがよかったのだが、頼道さんは新しいクラスの名簿を見て涙ぐんでいた。どっちにしても頼道さんは相変わらず亜衣乃の家に遊びに来たし、その逆をすることもあった。
 新学期、二人はときどき廊下ですれ違うと、にやり、という笑いを交換した。
 センパイが卒業したからと言って、やることがなくなったわけではなく、むしろ増えていた。二人の恋慕行為を加速させる要因が小野寺家で生まれ、同じ校舎にいたころよりも簡単に、二人は小野寺センパイを推せるようになった。
 高校進学のご褒美なのか、家が手狭になってきたからなのか、理由はわからないけど、小野寺修一は家の庭隅に建てられたプレハブ部屋で生活するようになった。その中にいるかどうかは、電気が点いているかどうかですぐわかる。
 センパイが家の風呂やトイレに行くときには、鍵などかけずプレハブを出ていくようだった。学校やコンビニに行くときにも、鍵をかけないことが多い。
 センパイは無防備で、亜衣乃たちは自由だ。
 何度かの張り込みの後、二人は無人のプレハブへ潜入した。一撃離脱。そっとドアをあけ、中の匂いを嗅ぎ、走って逃げる。
 中学最後の夏休み、二人の冒険は加速していった。
 図書館で勉強をしてくる、と言って家を出て、小野寺センパイの家の近くでアイスを食べながら張り込みをした。センパイが部活やイオンに行くのに付いていって、遠くから見学したり、すれ違いざまに写真を撮ったりした。彼のだいたいの行動パターンがわかると、二人はどんどん大胆になっていった。
 もはやプレハブ部屋のなかに入るのは、造作もなかった。見張りを立てることもあったが、二人で入ることも多い。センパイの布団にダイブして、潜りこんでくすくす笑う。
 センパイの消しゴムのカバーを外し、好き、と書いてカバーを戻す。
 センパイの英語の辞書のLoveの単語に蛍光ペンで印をつける。
 センパイのメガネを順番にかけて、記念撮影する。
 センパイのやっているネットゲームを突き止め、スクワッドに二人で乱入する。
 置いてあるペットボトルのお茶を飲もうとして、それは我慢する。うちら何でそれは我慢するんやろ、と言って、頼道さんが笑った。
 夏休みもあと少しとなった八月二十八日、夜中の二時半にこっそり家を抜けだして、頼道さんと合流した。どきどきするね、と言いながら、二人はプレハブ部屋へと向かう。
「うちら、ほんま、センパイのこと好きやな」
「まあね」
 懐中電灯が切り出す世界を、寄り添いながら歩いた。その夜のミッションは、センパイの寝顔を撮影する、というハードな内容だ。
 プレハブ部屋も、センパイの両親が眠る家も、近所の家も灯りなどなく、しん、としていた。耳を澄ましたが、いびきなどの物音も聞こえない。げこげこげこ、と、遠くカエルの鳴き声だけが聞こえる。
 さすがにびびっている様子の頼道さんに見張りを頼み、亜衣乃は深く息を吸った。
 ちゃんと寝ているだろうか……。
 ベストのタイミングなんてわからないから、自分で頃合いを見極めるしかなかった。とはいえ正確な頃合いなんてわからないから、頼道さん、と小さく呼びかけた。今から行ってくるね、頼道さん――。
 ふう、と息を吐いた亜衣乃は、ドアノブに手をかけた。踏みだせば、足取りに迷いなんてなかった。
 自分の部屋のように勝手知ったプレハブ部屋に裸足で侵入し、スマホをかざした。フラッシュとともにシャッターを切ると、まるでそのプレハブ部屋が一つの発光体のように、夜に浮き上がる。
 そのまま音を立てないように部屋を出た。慌てず騒がず、何ごともなかったかのように、小野寺家の庭を抜ける。頼道さんを先導するように、黙ったまますたすたと歩く。
 無事に戻るまでが冒険だった。いつだって手に入れるのは簡単だが、自分の身が無事で終わるかどうかは、やってみないとわからないところがある。
 路地を曲がったところで、二人は走りだした。はあ、はあ、という呼吸と、ふ、ふ、と漏れる笑いが混ざり、夏のスピードが一段階上がった。もう一度路地を曲がったところで、頼道さんに裾を引っ張られた。
「なあ、撮れたん?」
「多分、ばっちり」
 二人でスマホを覗くと、センパイの寝顔がきれいに写っていたので、笑ってしまった。
 二枚撮ったうちの一枚を頼道さんに転送し、自分のスマホからは削除する。二枚ずつ保存するより、このほうが良い気がした。
「凄いな! うちら凄いもん手に入れたな。ようやったな」
「まあね」
 間抜けな顔をして寝ているセンパイが、可愛くて愛おしかった。二度と同じ日は来ない、この夏のこの時間の、たった一枚のフォトグラフ――。
 亜衣乃は本当は一つで充分だった。あの日にもらった体操服一枚で満足だったけど、頼道さんと一緒に、こんなところにまで来てしまった。ここは二人じゃなかったら、来ようとも思わなかった場所だ。
「なあ、知っとる?」
「なに?」
 橋の中央で頼道さんが見上げ、指差したのは、夏の大三角形だった。
「あれがアルタイルで、あれがベガ。知らんけど」
「知らないんだ」
 亜衣乃にも、どれがどれだかはわからなかった。だけど三角砦のように、それは強固に輝いている。
「うちらみたいやんな。アルタイルとベガ。あと一個は知らんけど」
「……何も知らないじゃん」
 二人はしばらく星を見上げた。
 遠く白く、忘れ去られたデネブが瞬いていた。
 ちょうどその頃、忘れ去られたオノデラが「スポーツ刈り前長めで」と謎の寝言を口にしていた。

      ◇

 愛と冒険の夏休みが終わると、シビアな現実が二人を襲った。
 休み明けのテストは散々な結果で、頼道さんは両親にきつく叱られたようだ。亜衣乃の両親は何も言わなかったが、このままだとまずいことはわかっていた。

 ――さすがに遊びすぎたわ。センパイと同じ高校行くためにも、勉強せなしゃあない。

 頼道さんは、週に四日、塾に通うらしい。
 ときどきメッセージをやりとりしたが、二人はもう部屋を行き来したり、プレハブ部屋を見に行ったりすることはなかった。勉強の合間にセンパイの寝顔写真を見つめ、亜衣乃は頼道さんのことを思いだした。

 ――亜衣乃っち、頑張っとる? うちはぼちぼちやわ。

 頼道さんのメッセージに、亜衣乃がなかなか返さなかったりするため、二人のやりとりの頻度は、週に数度くらいに落ち着いていた。
 秋の夜長に、亜衣乃はセンパイとの恋愛を妄想した。小野寺センパイの相手は、いつしか自分ではなく頼道さんになっていた。センパイと自分より、センパイと頼道さんのほうが、妄想が捗る。

 ――なあ、去年、貰った第二・五ボタン、受験のお守りにしよや。

 冬、二人は受験会場に向かった。ポケットに忍ばせた第二・五ボタンをぎゅっと握れば、絆を感じることができた。無敵の二人は、受験なんか、口笛を吹きながら乗り切ることができる。はずだ。

 ――やったで! センパイの高校、受かったで!
 ――よかったね。おめでとう。

 頼道さんは第一志望の市内の公立高校に合格した。亜衣乃はそこよりも偏差値の低い、隣街にある公立高校に合格した。

 ――なあ、久々に見に行こや。

 春休み、頼道さんに誘われ、小野寺センパイのプレハブ部屋を見に行くことにした。
 夏休みの頃と何も変わっていなかった。いろいろな意味で、そこは何も変わっていない。
 センパイは亜衣乃たちの名前も知らないし、好かれていることも、推されていることも、撮られていることも知らない。ここでは頼道さんと亜衣乃の絆が深まっただけで、小野寺センパイにはまだ何も起こっていない。
 プレハブの見える位置でおしゃべりをしていると、センパイが出てきた。どうやら自転車に乗って、どこかに行くようだ。
「尾けよか?」
「そうだね、久しぶりに」
 久々だったが、体はかつてのように機敏に動いた。センパイの動きを先回りするように、自転車で路地の先まで出て、Uターンする。彼の向かった方向を見極めてから、自転車で追う。
「あ、マックかな」
「せやな、多分マックやな」
 国道の信号を渡ったセンパイは、予想通り、この街に一つだけあるマックに入っていった。
「多分、えびフィレオだろうね」
「せやろな! えびやろな」
 亜衣乃の予想通りえびフィレオを買ったセンパイは、無の表情で席についた。センパイの行動パターンは、半年前から変わっていない。
 シェイクを買った二人は、センパイの顔が見える席に陣取った。受験を終えたからか、春休みだからか、久しぶりだからか、少し大胆な気持ちになっていた。
「あんな、うち、好きな人がおんねん!」
「そうなの? 誰?」
 頼道さんの大声に合わせて、亜衣乃も大きな声をだした。
(……なあ、こっち見とる?)
(いや、見てはいないかな?)
(ちらっとは見たやろ)
 こそこそ喋った頼道さんが、再び大きめの声で言った。
「うち、センパイが好きやねん。あんたも好きやろ?」
「そうだね、私もセンパイが好きだよ」
 視野を広くして、亜衣乃は様子を窺った。小野寺センパイは、確かにこちらの声に気付いているようだ。
「けどあんたよりうちのほうが絶対、好きやわ。ほんま好きなんやで」
「そんなことないよ。私のほうが好きだと思うよ」
 これは〝間接告白〟だ、と、二人とも気付いていた。だんだん面白くなってきて、うちのほうが好きだ、いや私のほうが好きだ、と大きな声で言いあった。
「センパイは細いのがええんよな」
「そうだね。メガネもイカすしね」
 細身でメガネの小野寺センパイは、今どんな気分でこれを聞いているだろう。
 高校生になって一年経った小野寺センパイは、あの頃よりも少し肉付きが良くなっていた。細ければ細いほど良い二人にとっては残念だけど、それでもやっぱりまだ他の男子に比べれば細い。
「好っきやねん!」
「好き好き好き!」
 まさか自分が小野寺センパイに告白する日が来るなんて、思わなかった。
 間接的な告白を終えた二人は、あーん、と、満足気な声をだした。ずずず、とこの春最後のシェイクを啜り、ふう、と息を吐く。
 中学を卒業する二人はもうすぐ、高校生になる。
「けど……、あの夏休みは、ほんま愉しかったな。うち、一生忘れへんで」
 本当にそうだな、と亜衣乃は思った。だけどその思い出を、一生忘れない、という視点で見つめることのできるキラキラした頼道さんに、眩しさを感じた。
「なあ、知っとる? 中学生のときの夏休みの過ごし方が、そのまま人生の過ごし方になるんやて」
「そうなの? どういうこと?」
「人生は選択の連続やん。自由を突きつけられたらどうするか? それを体現したのが中学の夏休みなんやろな」
「……あ、」
「ん? どうしたん?」
「いないよ」
「ほんまや。センパイ、いつの間にか、帰っとるやん」
「でもまあ、いいよね。あの人の部屋にはいつでもいけるし。もう告白もしたし」
「確かに! けどうちら、まだあの人と、喋ったこともないけどな」
 あははははは、と頼道さんは笑い、亜衣乃はにやり、と笑った。

       ◇

 亜衣乃は高校では、勉強をしようと誓っていた。
 サブカル好きな亜衣乃は、上京への思いが強かったが、両親や教師を納得させるためには、勉強でのし上がる必要があった。
 だから三年間のほとんどを勉強に費やすつもりだった。ときどき息抜きにアイドルグループを推し、それだけで満足だった。小野寺センパイに関しては、やりきった感があったというか、割と忘却の彼方だった。
 亜衣乃は誰かに期待する、ということをしなかった。好きな人にも好きな友だちにも、何も期待しなければ、自分が傷ついたり、損した気分になったりすることはない。小野寺センパイにも頼道さんにも、亜衣乃は何かを期待したことはない。
 何にも期待せず、期待されず、亜衣乃はさなぎのような高校生活を送った。
 頼道さんからは、ときどきメッセージが届いた。
 美しくて性格も良い彼女は、亜衣乃のようにはいかないのだろう。何かを期待されたり、期待したりしながら、さなぎのように時間をやりすごすわけにはいかない。
 やせっぽちの小野寺修一は、頼道さんの同級生と付き合いだしたらしい。
 小野寺の相手が自分の身近な人間だったせいで、頼道さんはちゃんと傷つくことになった。頼道さんにとってそれは、曲がりなりにも恋愛だった。
 その傷から立ち直る頃、頼道さんは同級生から告白され、嫌ではない、という理由で付き合い始めた。そういうのが相手も自分も傷つけてしまうんだな、と気付くのに、およそ半年くらいかかった。

 ――最近な、中学のときのこと、よう思いだすわ。あの頃が一番楽しかったなって。けどな、別にセンパイのことはもう、よう思いださん。あんたのことばっかり思いだすわ。センパイのことは好きやったけど、あれは、あんたとおるのが愉しかったねんな。

 メッセージはときどきやりとりしたが、高校生の二人が会うことは、ほとんどなかった。
 正確に言えば、一年生のときに三回会い、二年生のときに一回会った。三年生になるとメッセージすら途絶え、完全に音沙汰がなくなった。
 その後、二人とも上京したのだが、お互いの行く先も知らなかった。

      ◇

 滝内亜衣乃と頼道加世が電撃的に再会したのは、彼女たちが大学生になって三年目、場所はアイドルユニット『SEVENSDOOR』のライブの現場だった。
『SEVENSDOOR』は個性がバラバラの痩身の七人組で、一人だけメガネをかけた男子がいた。今泉錬太郎。通称レンレンを推す者同士としての、運命的な再会だった。
「こんなとこで会うなんて、運命ちゃう?」
「そうかもね。ねえ、今度、レンレンの家見に行こうよ」
「ええええ? 家知っとるの? 亜衣乃っちたまらんわ」
 二人の数年間のブランクは一瞬で埋まり、また夏休みが始まったようだった。
 二人はそれから一緒にレンレンを推し続け、やがてレンレンの家から二十分の位置にあるシェアハウスで同居を始めた。就職してからも、二人は推し活動を中心とした生活を送った。
『SEVENSDOOR』は、メジャーシーンへと駆け上がっていった。アイドルを推す生活は楽しかったが、つらい時期もあった。『SEVENSDOOR』のメンバーが不祥事を起こしたり、レンレンの熱愛報道が出たり。
 二人は励ましあいながら、それらを乗り切った。
 それでもアイドルグループは永遠ではない。七人いたメンバーも、少しずつ減っていく。
 永遠ではないことなんて、わかっていた。自分たちは永遠ではないものを、どうしようもなく愛してしまう。
 だけど永遠に近いものが、二人の間では育まれていた。
 中学生のときの夏休みの過ごし方が、そのまま人生の過ごし方になる、というのは本当なのだろうか。情熱の発露の仕方、という意味でも、それは案外正しいのかもしれない。
 アルタイルとベガがあって、もう一つはデネブでもオノデラでもレンレンでも何でもよかった。その後にも二人の間で、様々な推し星が生まれ、消えていった。
 小野寺修一は結婚して犬を飼い、その犬にイヌマルというしょうもない名前をつけた。イヌマルが亡くなると、今度はタケマルという犬を飼った。そのタケマルも亡くなると、もう犬を飼うことはなかった。
 亜衣乃と頼道さんは五十年同居した後、同じ老人ホームに入った。
 そこでも二人は、痩せたメガネの職員を、慈愛に満ちた目で推していたという。

(了)