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第七話 春陽会というところ 2

 春陽会はおおよそ300ある公募展団体の一つで1922年(大正11年)、小杉未醒、山本鼎、梅原龍三郎、石井鶴三、岸田劉生、木村荘八、中川一政、萬鉄五郎らによって創立された。展覧会場は六本木の新国立美術館だが、私が初入選した頃は上野の東京都美術館で開かれていた。もうすぐ100年になる。

展覧会場では、会員、会友、一般出品者の100号以上(約162×130㎝)の油彩画が多数を占めているため、私が出品する水彩画の40号(約100×80㎝)は貧相に見えたし、水彩ということにコンプレックスを抱いていた。

春陽会は絵画と版画と部門が分かれているが、小さな作品も分け隔てなく審査してくれた。しかし、主流は油彩画であり(30年前のこと)ニッチな水彩画だから審査員の目に新鮮に見えただけではないかと感じ、周りからも「水彩は得だ」などの声も聞こえて、油彩画で勝負しなければ正当な評価を得たことにならないのではないかと思い悩んだ。

その考えを正して救ってくれたのが、アンリ・ルソーの研究家であった会員の故山崎貴夫氏の「人生は短い。自分に合わない材料で手こずるより、自分に合った方法で進んだ方がよい」という言葉だった。

日本では油彩画の評価が高く、水彩画や版画、デッサンの評価額は低いという慣例があり、1号いくらで絵の大きさを掛け算した量り売り的な計算方法で金額が設定されている。いまだに。紙に描くと金額が安くなりカンバスだと高くなるのがそもそも、創作というものに敬意が感じられないし基準が大変あいまいだ。その商慣習が業界で続いている。

しかし、私は思い切って油彩画を捨てて水彩画に専念することにした。
他の創作でもビジネスでも共通すると思うが、あれもこれもと器用に手を出し過ぎると、ひろがりはあるが、時間が分散されて深く追求することができない。自分が表現するにふさわしい方法を一つに絞ってその道を拓いていくのがよさそうだ。
意欲に満ちた人はいろいろな方法で表現したいという欲があるから、人それぞれだけど。

春陽会は各地方に研究会が設けられており、制作した絵を持ち寄っての合評会がある。道場のような厳しさがあり、皆、会員の批評を待ちながらも当日は緊張した。研究会までに1枚でも描くことが締め切りになる。人は期限がないと描かない。

春陽会の本展、展覧会当日にも批評会は設けられた。自分の絵を前にして数人の会員から同時に助言を頂くのだが、容赦のない言葉に泣き出す出品者もいた。
助言や批評を素直に受け入れるか、あるいは、はね返すかしながら、1年後の展覧会まで制作に励むのだ、何年も何年も。会員になる目標を胸に。

公募展団体の不要論が聞かれてから久しい。団体に所属しないで描く人も
もちろん大勢いるし、趨勢は変わってきたが、団体の数は減らないようだ。
なぜなのか。
会に所属して切磋琢磨し個性的な会員の生きた絵画論を聞く機会を得て絵の本質を学び、描く心構えをたたき込まれるのは、他では味わえない環境なのだ。多数の出品者の中で相対的にどう評価されるのかがわかるし、また、その人が毎年どのように変化し上向いてきたのか、あるいはぱっと開花したのを見逃さずに発見する、絶対評価の定点観測が会の愛情の眼だと思う。

私は10年かけて会員になった。それからは自分が会友や一般出品者の絵を審査する立場になった。審査会場では入選落選は多数決で決まるが、物議を醸すような作品に激しい意見のぶつかり合いがはじまることがある。会員の演説が始まる。どうしてこの絵が良いのか、悪いのか、良い絵とはどういう絵か、絵に対する誠実な意見のぶつかり合いから学んだ時間は自分の宝物だ。

先輩の画家の絵を見る眼は大変勉強になり鍛えられた。
同時に自分の眼に自信が持てるよう成長しなければと思った。他人の絵を批評することは、そのすべてが自分に返ってくる。

すでに鬼籍に入られる会員の方々の言葉に自分は育てられた。
そして、初入選から27年間在籍して退会した。









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