精神科病院薬剤師のお仕事風景 1.エビリファイ内用液

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 ある日医師から相談を受けた。
「エビリファイ内用液を使いたいんだけど」と。
​ エビリファイというのは抗精神病薬と呼ばれる薬のひとつで、一般名をアリピプラゾールという。その医師はその液剤を患者に飲ませたいというわけだ。​
 アリピプラゾールの液剤はウチ​の病院​では現状不採用なので、彼がこれを使用するには​、薬剤採用の決定権を持つ​僕を納得させる必要がある。

 薬剤の臨時採用について、僕はかなり寛容な病院薬剤師なんじゃないかなと思う。不良在庫になることが明らかでなければ大抵の場合は許可するし、それが不良在庫になりそうかどうかもこちらで判断してあげる。
「その薬剤ですと、おそらくこういう使い方をされるでしょうから、こういう買い方と使い方をして、最終的にはこうしましょう。こうなった場合はこうしましょうかね」
 なんて提案を作成し、承認を得た上で薬剤を購入する段取りをつけて、システムを整備し処方可能となった旨連絡すると、はじめの頃はとても驚かれたものだった。「普通のことでは?」と思うかもしれないし、僕もそう思うのだけれど、普通のことを普通にできる人は意外とそんなにいないのかもしれない。
 こんなの慣れれば10分仕事だ。正規採用として好き放題に使いたいというなら話は別だが、コントロールできる1症例で使い切る薬を理由なく制限する必要はどこにもない。​

 しかし今回の議題はエビリファイ内用液である。一体何に使うのだろう?
 もちろん治療に使うのだろうけれど、液剤でなければならない理由が僕にはよくわからない。だからゼロ秒で即採用というわけにはいかず、彼は僕に使用意図を説明する必要がある。
 それをちゃんとわかっている彼は、僕が促すまでもなく言葉を続けた。
「ブラインドで飲ませたいんだ。拒薬する患者でね、家族の了承は得てるんだけど」
 ブラインドで飲ませる、というのは食事や飲み物なんかに混ぜて、患者に知らせず薬を飲ませることである。
 なにそれ騙すの、患者の人権的にどうなの、と思うひともいるだろうけれど、治療上服薬はとても大事で、必要な処置であることがどうしてもある。仕方ない、とは誰も言いたくないだろうが、仕方のないことである。​患者の家族に説明と同意を取るというのは​、せめてもの思いやりというよりは自分や病院を守るため、といった性格があるいは大きいのかもしれない。
 ブラインドで飲ませる場合は食事、それも汁物なんかに入れて飲ませる場合が多い。単純に溶けるというのと、全量摂取できたかどうかがわかりやすいからだろう。そして味が濃ければ濃いほどブラインド薬剤の影響は感じづらい​​。
 汁物に入れて飲ませる場合は、錠剤や散剤を溶かすよりも液剤が好まれる傾向にある。溶けたかチェックをするのは病棟負担になるからだ。液剤であれば、そこに加えてかき混ぜればそれで完成だ。誰もが喜ぶ処方である。
 その​お目当ての​液剤が​、​現在採用されていないという​一点​を除いては。

 臨時採用に至るまでの段取りを頭の中に浮かべながら、僕は医師に確認をした。
「後発品でもいいんですよね?」
「いいけど、できれば味がないのがいいな。オレンジ味か何かでしょ」
「実は見たことないので知りませんが、調べときましょうか。まあでも液剤に味が付いてるのって薬の味をごまかす場合でしょうからね。難しいかも」
「味噌汁に入れようと思ってるんだ。ごまかすにしても、目立たない味付けがいいな」
「種類があるかも調べときましょう。調べるので少し時間がかかるかもしれませんよ」
「いいよ、今すぐ使いたいわけではないからね」
「目途が立ったら知らせます」
 そんな会話を交わし、僕らはそれぞれの業務へと戻った。今日すべき仕事を確認し、この薬剤について調べるよりも優先度の高いものを処理する合間に考える。
 はたしてエビリファイ、アリピプラゾールの内用液に豊富なフレーバーが用意されているだろうか? 配合変化も確認する必要があるだろう。
 当院採用の抗精神病薬液剤はリスペリドンのみだけれど、この子はポリフェノールに不安定なのである。あの、​ワインなんかで​有名なポリフェノールだ。なんじゃそら​。お前は人類の味方ではなかったのか。​

 このように、予想不可能な相性の悪さがあったりするので、普段情報提供し慣れていない薬剤については「おれはこいつについてよく知らない」と自覚することが大切であると思う。
 薬剤師はお薬の専門家なので、あらゆる薬剤に精通しているべきなのかもしれないけれど、今のところ僕には無理だ。おそらくこれからも無理だろう。しかしそんな自分を自覚していさえすれば、それほど業務に支障は出ないので、僕はわからないことは堂々と調べるし、知ってる人に訊くことにしている。
 もちろん半ば無意識に知ったかぶりをしてしまうことや、そもそも勘違いして覚えてしまっていることもあるのだけれど、これらはその都度対処していくほかにない。栄養のある土に雑草は生えるものなので、気づいた時に引き抜くしかないのである。
 あらゆる薬剤に精通している薬剤師なんてどこかにいるの?

 さて、エビリファイ内用液だ。当然安定性などのデータをもっとも豊富に持つのは先発品なので、商品名で僕は調べる。思った通り、検索すればすんなり配合変化表を手に入れられた。インターネッツさまさまである。
https://www.otsuka-elibrary.jp/pdf_viewer/index.html?f=/file/1006/abb_if.pdf#haigo12
 少し下へとスクロールすれば水で希釈時の安定性データが顔を出す。なにやらやけに詳細に調べられている印象。特にメーカー別のミネラルウォーターについてもそれぞれ調べられている。
 エビアンで希釈後39.5パーの含有量。6割程度が失われてしまうということである。うわあ、なんということだろう。こいつは面倒くさそうだ。

 初心に戻って添付文書を見てみよう。こんなに派手なデータであれば注意事項が明記されている筈である。
https://www.info.pmda.go.jp/go/pack/1179045S1021_1_26/?view=frame&style=SGML&lang=ja
 するとわかった。こいつは塩素の影響を受けるのだそうだ。確かに水道水のデータを改めて見てみると、40倍希釈の際に1割程度の含量低下を起こしている。
「9割残ってる!」
 と言えばそこまで聞こえが悪くはないけれど、一般的​なお薬の常識として、​こ​の低下​は許容されない。
 しかし20倍希釈までは安定である。つまり、水道水希釈が可能かどうかは希釈後の薬物濃度によって変わってくる。そこで僕はピンときた。

 内用液を40倍希釈以上は不安定。それって、“錠剤を溶解”だったら絶対だめじゃない?

「別に溶解させんやろ」
 そう思ったあなたはまったく正しい。錠剤が飲める人が錠剤を溶かす必要はない。しかし、世の中には意外と錠剤を錠剤のまま飲めない人が数多くいる。
 嚥下が悪い人や、入院中の症例であることを加味すれば、経鼻チューブで薬剤を投与されている人なんかがその代表例だ。彼らは使用薬を粉砕したり、あるいは簡易懸濁法で使用したりする。
 簡易懸濁法。それは55度程度の温湯に飲むべき薬を全部ぶち込み10分くらい放置しとけばまるで液剤のようになるという、お手軽簡単な手技である。このためではないのだろうけど、ナースステーションの蛇口から出てくるお湯は55度程度であることが多いと聞いたことがある。

 そんなわけで、病院にもよるのだろうが、わりあい常識的な手技のひとつである簡易懸濁法は、ひょっとしたらエビリファイにふさわしくないのではないだろうか。
 そんな風に僕は考えたわけである。どうだい、そこまで変な思考ではないだろう?
 実際のところ、まるでそんなこと​は​なかったわけだけど。

〇〇〇

 そんなこんなで「エビリファイは簡易懸濁すべきでない」的なツイートを​軽い気持ちで​してしまった僕だったけれど、そもそも簡易懸濁法の可否判断は今回の僕の仕事ではなかったことにようやく気づいた。
 今大事なのはエビリファイのブラインド・アタックが可能かどうかだ。塩素が問題であるというなら除去すればよい。そして水道水中の塩素の除去法は既に確立されていて、煮沸すればよいのである。

 さて、煮沸すれば塩素が除去されることは幸いにも知っていた僕だったが、“煮沸”の定義は知らなかった。
「たぶん沸騰させるんでしょうなあ」
 くらいの把握の度合いだ。皆さんはどう? ちゃんと煮沸させること、できる?
 おそらくできないんじゃないかと思う。なぜなら、どうやら“煮沸”は何度何分間、のように厳格にどこかが定義してくれていないみたいだからだ。ぐーぐるで簡単に調べた限りでは、ある人は5分間が正しいと言っており、ある人は10分、15分と言っているような有様である。誰か知ってたら教えてください。

 というわけで、煮沸の定義を調べることを僕はただちに諦めた。なぜなら僕の目的は塩素を除去することであり、厳格な定義に則って煮沸させることではないからだ。塩素の除去に必要な処置については調べればすぐに知識が得られた。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jec1991/9/1/9_1_29/_pdf
 これだ。エビデンスと言ってもそんなに怒られないものだろう。この報告によれば、5分も沸騰させれば塩素の除去が達成される。有難い報告である。しかし同時に判明したのは、おそらく半分以上の塩素が沸騰に至らない加熱に耐えられるということだった。

 失望。おそらく味噌汁を作る過程で5分の沸騰はさせないだろう。なんなら沸騰させないことすら考えられる。旨い味噌汁を作るには沸騰前で過熱を止めることが肝要だからだ。
 そこで僕は管理栄養士に訊いてみた。
「当院における味噌汁の作り方を教えてほしい」
 電話を受けた彼女はとても驚いた様子だった。当然のことだろう。新手のへたくそな口説き方かと疑われても仕方のない質問である。
 だから僕はその後丁重に、質問の意図を追加で情報提供した。要は塩素が除去されるようなレシピとなっているかが知りたいのである。
 そして彼女の返答はノンだった。なんだかフられたような気分になった僕を慰めることはせず、質疑への応答を終えた管理栄養士は電話を切った。やれやれである。

​ ​どうやったって、味噌汁の作成過程で塩素の除去は行われていないと考える方が適切だろう。わからないものに対してはリスクを大きめに想定する方が後々困らないものである。
 塩素は除去されないものとして考えよう。それではアリピプラゾールの含量低下を許容するのか? 確実に投与量の9割が胃袋に収まるというならば、それはそこまで悪い結果ではないようにも思われる。少なくとも、飲まないよりは。

 ちょっと待てよ。薬を飲む?

 薬を飲むってことは、胃袋の中に薬をぶちこむということだ。当然そこで撹拌されるし、なんなら胃酸にさらされる。
 胃酸の成分は塩酸だ。わかるだろうか。塩・酸だ。HCl。僕の記憶が確かであれば、このClは塩素を意味する。そう、アリピプラゾールの含量低下を引き起こす、小憎いあいつのことである。水道水の塩素が除去されていようがいまいがあいつは飲んだ瞬間塩素と触れ合い、胃袋の中で希釈されるというわけだ。頭の痛い話である。

​ そこまで考えたところで​僕はギブアップしたい気持ちになった。医師に丸投げする形でこれまでに得られたデータと僕の考えを情報提供し、「どうします先生。買います?」と判断をゆだねるのだ。とても楽ちんなことである。
​ その楽ちんなアイデアを実行に移す前に、ちょっと計算してみようという気になった。何を? もちろん薬物濃度をだ。飲んだ後のことはとりあえず置いといて、実際エビリファイを味噌汁に混ぜた場合の薬物濃度はどれほどのものになるのだろう?

 どうしてそのような気分になったかというと、うなりながらエビリファイ内用液のインタビューフォームを眺めていると、それまでちゃんと読んでいなかった内用液濃度が目についたからである。
 “0.1%内用液”とそこには書かれていた。ふうん、いいんじゃないの。普段ならそれ以上の感想は生まれないけれど、お仕事で調べものをしている時は別である。0.1%ってどんなもんだっけ、と僕は頭に浮かべて計算をした。これは質量パーセント濃度なので、0.1%というのは1㎎/mlの筈である。わかりやすい濃度だ。
 そして僕は気づいた。結構薄いな、と。
「当たり前だろアホちゃうか」と思った人はちょっと待ってほしい。これは本当に意外と薄いのだ。どのくらいの意外さかというと、40倍希釈で不安定、といわれた時に“じゃあ錠剤を溶解させたら絶対だめじゃん”と感じた僕の印象が、完全に誤りだと気づく程度の意外さだ。

 なぜならアリピプラゾールは結構な高用量で使用する。仮に24mg/dayだったとしよう。24mgということは、0.1%内用液なら24mlということだ。これを安定と言われている20倍希釈すると、なんと480ml。ほとんどペットボトル1本だ。
 つまり、​塩素の抜けていない水道水を利用して作った味噌汁に溶かしたとして、薬物濃度的に含量低下はおそらく引き起こさないというわけだ。これまでの僕の思考はすべて杞憂だったというわけである。どんどん混ぜていただきたい。

 これは良い気づきだった、と僕は自画自賛した。味噌汁サイズの希釈が問題となるのはきわめて低用量の場合であり、たとえば小児患者の時なんかだろう。オーケイ、今回の患者は立派なおっさんだ。おそらくは大丈夫。
 そのように抜け落ちている考えがないかと確認しながらインタビューフォームをスクロールしていった。再び配合変化の項目だ。水道水、ミネラルウォーター、そしてその他の飲み物水物。

 そんな中に、味噌汁に混ぜた場合の記載があった。
 その内容に目を通した僕は「なんだよ!」と机を叩きたくなるほどに驚いた。実際は動揺を誰にも悟られまいと、静かにお茶をひとくち飲んだ。
 そこには、味噌汁に混ぜた瞬間3割程度までの含量低下が引き起こされますよ、という丁寧なデータが載せられていたのである。

​「いやあ先生、どうしましょ」
 ギブアップをした僕は医師への情報提供をはじめることにした。「味うんぬんの話じゃなくて、そもそも味噌汁へ混ぜることができません」
​「なにそれ。まじで?」
「どうやらマジです。お吸い物なら大丈夫みたいなので、どうやら味噌がだめなんでしょうね」
「そんなことある?」
「文句は大塚製薬に言ってください。まったくもう」
「しょうがないなあ。どうしようか」
「この患者だけ味噌汁をお吸い物にできないか訊いてみましょうか? でも、できてもこの人だけ目立って気づくでしょうね」
「気づくだろうね」
「​​​やっぱりブラインドしないのが一番ですかね」
​「それで飲むなら苦労しないよ。でもこれそもそも大丈夫なのかね?」
「何がです?」
「だって、朝食後でエビリファイ飲む人ってお腹の味噌汁と配合変化起こすんじゃないの?」
「確かに。​​​食事の影響受けそうですね。食事の有無と、その内容に」
「和食好きだとエビリファイが効きづらいとか、調べたら出てくるかな?」
​「出てくるかもしれませんね。​​​というか、ひょっとしたら、だからLAIがいいよって話になるのかも」
「あるかもね」
「意外とエビリファイ効かなかった、みたいなケースを集めて調べられたら面白いデータになるかもしれませんね」
「いいね。できるかどうかは別にして」
「ですよね。どう考えても面倒くさすぎます」
「面白そうではあるけどね。――ところで何の話してたんだっけ?」

 そんなこんなで情報提供を終えた僕は、アリピプラゾール自体の味を一度確かめてみようと会話の中で考えていた。
 その考えを伝えると、医師は「どうやって確かめるの」と訊いてきた。
「かんたんですよ。エビリファイを水に溶かして舐めるんです」
「まじで」
「まじです。舐めた後飲み込まずに吐き出して、口をゆすげばそんなに吸収しないんじゃないかと思います」
「粘膜吸収になるぜ」
「僕にアカシジアがでたらよろしくお願いします」
「それって労災おりるかな」
 できるだけ濃く作った方が味をみやすいだろうということで、外来患者用の水を少量拝借してエビリファイOD錠24mgをそこに落とした。500円弱かかる実験だ。怒られたら謝ろう。

 そして僕はいくつか新しい知識を得た。
 ひとつ。エビリファイOD錠は冷水に溶けない。ジプレキサザイディスの場合も同様なのだが、なぜだかフリーズドライのような加工を経たこいつらは、冷たい水は弾いてしまってどうしても溶けようとしないのだ。
 この問題はすぐに解決した。お湯を足して水温を上げればよいのだ。かつてジプレキサザイディス錠で遊んだ時に経験済みだ。
「こいつら、水が冷たいとなぜだかだめなんですよ」
「そうなんだ。やけに手馴れてるね?」
「色々やってますからね」
 そんなことを言いながら高濃度のアリピプラゾール液を作成した僕は、その様子を観察した。
「無色透明だね」
「そうですね。舐めてみます?」
「お前が舐めるって言い出したんだろ」
「ではお先に」

 そうやって一口ぺろっとした僕は、ガクンと脳に来て、これはクスリ盛られたなと確信した。嘘だ。
 実際のところ、僕はこの日で一番驚いていた。
「先生も舐めてみてください」
「なに。まずいの? 苦い?」
「いいからいいから」
「うええ、こわいなあ」
「いいからいいから」
 説得してアリピプラゾール液を舐めさせると、医師は僕と同じくとても驚いた様子だった。
 口をゆすいだ僕らは顔を見合わせる。
「味、しないですよね?」
「しないね。完全に無味無臭だ」
「これ、内用液買う必要ないですね。絶対にそのまま使えば気にならない」
「そうだね。どこかで何かに溶かして飲まそう」
 大いなる徒労! 青い鳥が最初から家にいたのと同じくらいの徒労感である。そうして僕らはアリピプラゾール実験を打ち切り、またそれぞれの業務へ戻った。
 実際どこで何に溶かして飲ませるのか、といった段取りをつけるべきだったのかもしれないけれど、とにかく僕らはうんざりしたのだ。それにお腹も減っていた。
 唾を吐き出し口をゆすぎもしたけれど、舐めたアリピプラゾールのうちのいくばくかは僕の胃袋へ落ちていったことだろう。
 僕らはただちに昼食の味噌汁を飲むべきだったわけである。


​おしまい​

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