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あなたがいなくても生きていけるけれど

3年ほど会ってなかった友達と遊ぶことになった。学校を卒業して数年間会ってないということは『学生の頃は仲良かったけど特に理由もなく疎遠になった友達』ということだ。かなり気まずい。

前日の夕方、3人のうち1人が来れなくなった。正直言ってその時点で(中止になるか、会っても微妙な空気になるだろうな)と思っていた。

疎遠になった友達と遊ぶのは小さじ程度の不安が付きまとう。変わってしまった友人と向き合うことは、美しき過去を穢されるとすら言えるからだ。

駅で落ち合い、再会のハグをして、溶岩焼きのステーキを食べた。美味しかった。探り探りの会話だった。

前まで不健康な会話を好んでいた友達でも、数年会わないと不健康さを嫌悪して昔とは真反対の立場に居座ることがある。だから、彼女がいまどんな人間であるか、私には分からなかった。

ラブ、セックス、鬱、不健康さのコンテンツ化、ブラックジョーク。なにを嫌悪してなにを笑い飛ばせるか。

人はほんとうは水のように不定形で、それを倫理観という皮膚で覆っているだけだと感じる。長年の付き合いだからこそ友達の輪郭を掴んだと思わず流動的な変化を受けいれてただ撫でていたい。

そうして、共通の友達のバイト先を通ったので店に入った。レジ係をしている友達を2人で眺めながらたくさんの話をした。

進学校というクレイジー監獄のこと。そこで植え付けられた劣等感。家庭環境が良くて裕福な子どもが多い偏った集団だったこと。勉強が至上の価値だった中高に比べて大学は自由なこと。自分のことをバカだと思っていたけど大学では真面目と評価されること。今はバイトやインターンを頑張っていること。あの頃は見せなかった陰鬱さ。強くなった自分のこと。

素敵だな、と思った。彼女は自分の柱を見つけて誇れる自分でいるのだと、話しぶりから伝わってきた。あんなに変わらないでほしかったのに変わっていて良かったと思った。

中高の頃、勉強に向き合うとは自意識と向き合うことだった。勉強だけが強さの証明で、それ以外の価値基準が用意されていなかった。それが大学に入って、いろんな選択肢が増えて、勉強以外の取り柄を見つけたのだ。

それが突出した技能かどうかはきっと問題じゃない。彼女が作った料理の写真を見ながら私はただ胸を打たれていた。自分の食事を作りただ生活を積み重ねることがどれほど素晴らしい営みであることか!あなたはいま、人間が生きとし生けるために必要な船を修繕しているんだぞ!ずっとそう叫びたかった。


その後行けなくなった友達から「いまからバイトだから良かったらバイト先に遊びにおいで」と誘われて中華料理屋に行った。再会のハグをして、バイト先のメンツに紹介され、ドリンクを一杯サービスしてもらった。空いている時間帯だったので友達が配膳してくれるたびに喋り、berealを撮り、小籠包を食べた。

私はberealをいれてはいるものの、使い方もよく分かっていない。反対に友達は当たり前のように撮る。

通知が来ると手慣れた仕草でボタンを操作し、1日に数回も撮る。その姿を見て、もう日常で接するコミュニティは違うんだろうなと思った。でもその違いは些細なことだった。

3人が揃うと教室の後ろで喋っていた空気感が一気に戻ってきた。係を決めるときにしたアイコンタクト。好きな人から送られてきたLINEを緊急事態だと騒いだこと。クラスが離れても他クラスまで行きハグした5分間。8拍子よりも早かった思春期たちの談笑が形を変えて戻ってきていた。

3人のうち1人が「ここはすごく素でいられる」と言った。数年間会わなかったのに1ヶ月後にまた会う約束をした。具体的な日時と行きたいカフェまで決めた。そのスピード感が今日がお互いにとってどれだけ楽しかったかを示していた。

きっと彼女たちと今日会わなくても生きていけた。お互いの人生になんの支障もなかった。二度と思い出すことすらなくても当たり前の関係性だった。だからこそ、縁を結び直せたことが泣きたくなるほど嬉しくて、愛しかった。

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