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主流派経済学とは?反緊縮とは?

ツイッター上では日夜、経済論争が繰り広げられている。そこでは対立する派閥の相手を不道徳であると見なしたり、ブードゥー(呪術)であるとみなしたり、あるいは単なる罵倒が含まれている。

こうした実生活における重要問題では、真理は対立しあう意見を調整し結合して得られるものであるが、両方に正確にアプローチして調整が行えるほどの心の広い人間は滅多にいないので、対立する旗印をかかげた論客同士の争いという荒っぽい過程を辿らざるをえないのは仕方ない。しかしその中で、日本ローカルの用語からくる認識の齟齬が生まれ、議論の精度が下がっていたりするので、今回はその辺を整理してみたい。

主流派経済学とは?

主流派経済学(mainstream-economics)という言葉にどのような印象を受けるだろうか。緊縮財政を支持する立場や、あるいはケインズ経済学と対立する思想という印象を持つだろうか。

これは半分正解で、半分不正解である。以下の記事における図を見てほしい。

https://www.washingtonpost.com/mainstream-economics-and-modern-monetary-theory-a-family-tree/2012/02/17/gIQAiy6RKR_graphic.html

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主流派経済学は、右翼と左翼に分かれた派閥がある。一つは新古典派、新しい古典派、新自由主義などの用語で知られる右翼の保守派、つまり緊縮財政を支持し、政府が市場経済に介入して不況を改善させることを支持しない学派のことである。ロバート・ルーカスや、ミルトン・フリードマンらがよく知られている。

そしてもう一つが新古典派総合、ネオケインジアン、ニューケインジアン、日本においてはリフレ派などのローカルな用語で呼ばれている左翼の急進派、長期的には緊縮財政の考えを維持しながらも、不況時には政府の介入によってこれを解決させることを支持する学派のことである。歴史的な経緯によって、新古典派とケインジアンという、相反するようにも見える学派の両方を取り入れているのである。昔からどちらの学派にも批判されてきたが、グレゴリー・マンキューや、ポール・クルーグマンジョセフ・E・スティグリッツなど、政界からメディア、大学教育におけるマクロ経済学のテキストの出版などにおいて、強い影響力を持ち続けている経済学者たちがここに属する。主流派経済学の右翼との論争を長く続けてきたのも彼らだ。

もちろんこのコロナ禍においても、積極的な財政政策によって経済的な危機を乗り越えることをいち早く提言してきており、立派な反緊縮の派閥の一つなのである。

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日本において反緊縮を根強く唱えてきた、マルクス主義を背景に持つ経済学者も、彼らを反緊縮の一派に加えて説明していることからも説明できる。

反緊縮とは?

さて、反緊縮というやや日本ローカルな、これまた複数の派閥を包括する用語から生じる問題も存在する。

一つはもちろん、反緊縮の中でも派閥によって主張する政策が異なるが、一緒くたにされてしまうのである。あるいは逆に、数ある中で特定の派閥だけを指す用語として使われてしまうことも多い。ポスト・ケインジアン、そこに含むMMT(現代貨幣理論)などがこの用語の代表的存在であろう。こうした若干の認識の違いが支障をきたし、議論が成立していないことがよくある。

以上のツイートの中で起きている議論において顕著だが、ここではニューケインジアン的な立場から反緊縮という言葉でMMTを指して批判している。しかしこれだと積極財政政策を支持しているにも関わらず、積極財政政策を批判しているように見えるのである。

主流派経済学という言葉にも同様の問題が生じている。

以上のツイートにおいては新自由主義を指して主流派という言葉を用いており、主流派の右翼しか見えていない。

こちらもニューケインジアンを指して主流派という言葉を用いていると言える。

しかし、ニューケインジアンにしろ、ポストケインジアン(MMT)にしろ、不況下での政府による景気刺激策(特に財政政策)という方向性は一致している。しかし相手の意見が用語の意味の差によって歪められ、一致している部分を見出せなくなるのである。

これに関連したもう一つの問題が、「反緊縮」という言葉の意味そのものから来ている。本来ならば反緊縮の派閥によるそれぞれの政策内容と、その違いにこそ焦点が当てられるべきだが、財政赤字の拡大それ自体こそが第一目標で、中身は二の次という印象を受けてしまうことである。

MMTにおいて顕著であろう。本来のMMTにおける、財政的な予算制約はないが過度なインフレにならない範囲であるという主張や、JGP(雇用保障プログラムという政策が、日本では無視されて語られてしまう。そのため日本式MMTと揶揄されることもある。

政策内容の違いと言えば、ポストケインジアンは財政政策を主眼とする、ニューケインジアンは金融政策と財政政策の両方を支持するが、ゼロ金利下では流動性の罠によって金融政策が無効化すると考えている。結果的にコロナ禍の現在の状況ではどちらも財政政策を支持し、問題はその中身であるなど細かな事情も存在するのだが、こうした点も議題に上がりづらい。

さて、財政赤字の拡大についてのみを粘り強く主張することに関しては仕方ない面もあった。何故ならば、緊縮派、国の借金は民間の借金であるとの主張が根強い考え方であり、特に日本では未だ政界に影響を及ぼす人物がいた/いるからである。そうした世論を覆すには、同じように根強く、分かりやすい標語で対抗するしかない。本場のMMT派経済学者たちも、政府の赤字は民間の貯蓄であるというお金に関する理論を裏付けに、反緊縮を根強く主張しつづけた。これに関してはニューケインジアンの経済学者も以下のように述べ、半ば容認している。

MMT論者たちは、ある強く凝り固まった強力なミームと対決している。それは政府を家計と同じように考える考え方だ。家計が貯蓄しないでクレジットカードに頼りすぎれば、その家計はどんどん貧乏になる。だから人々は、アメリカ政府が国家負債を重ねれば、アメリカはどんどん貧乏になると考えがちだ。
現在のマクロ政策が、ネット上の論争に首を突っ込みたがる情弱の有象無象に左右されているとしたら、「政府赤字は民間部門の貯蓄(でも剰余でもなんでもいいが)に等しい」という呪文を唱え続けることが、必要な財政刺激策を実現する一助になるかもしれない。

さて最後の問題は反緊縮という言葉が日本ローカルであること自体である。

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反緊縮という言葉は海外が元でanti austerityと言うが、Google Trendによって調べてみると、2015年に一気にトレンドとなった。これはヨーロッパにおいて起きた一連の反緊縮運動の時期と重なっており、この運動が元であろう。しかしこの用語の流行は一時的なものに留まり、他の用語の方が用いられることが増えた。

https://ja.wikiqube.net/wiki/anti-austerity_movement

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日本においても同時期に反緊縮という言葉がトレンドに上がったのは間違いないが、違うのは一定の空白期間の後に再燃し、その後も他の用語より用いられているということだ。反緊縮という用語による問題はいくつか指摘したが、それは何らかの要因によって発生した、日本ローカルな問題なのである。定着した以上、新たな用語が使われるか、キチンと分けたり正しく認識されるようになるには時間がかかってしまう。もし誰かが標語となることを意図して広めたとすれば、中々狡猾であろう。

経済学は宗教戦争?

経済学における緊縮と反緊縮の戦いはその様相から宗教戦争、特に天動説と地動説になぞらえられることがままある。つまり、革新的な理論であり、世界を正しく描写している地動説を、宗教的な背景によって天動説という既存の思想を捨て去ろうとしない権威たちが妨害するが、最後には地動説が認められる、というストーリーである。この事象から、「物事の見方が180度変わってしまう事」を地動説の提唱者の名を取って「コペルニクス的転回」と呼ばれることがある。この例えにおいては、反緊縮を地動説になぞらえていることは言うまでもないだろう。

しかし、コペルニクスという人物とその理論に関する歴史を知っているだろうか?彼は実は、天動説を唱えたプトレマイオスの『アルマゲスト』という専門書に関して、深い知識を持っていた。さらには、神が作った世界に対する理解を深めるということも、その理論を打ち立てる動機に含まれていた。

これは反緊縮の源流である、ジョン・メイナード・ケインズにも言える。彼はアルフレッド・マーシャルに教えを受けて新古典派の理論に深い知識を持ち、世界恐慌という未曾有の危機を受けて『雇用、利子および貨幣の一般理論』というこれまた革新的な理論を打ち立てた。彼の『人物評伝』を読めば、マーシャルへの評価も悪くはないことが分かるだろう。

以上のことから言えるのが、革新的な理論は、既存の体系を無視して打ち立てられたわけではないのである。そしてその提唱者は、既存の体系への敬意も持ち合わせていた。

しかし現実の論争は、特にSNSという文字数制限の制約がある場では深い議論も出来ないし、対立派閥のこともよく理解せず、不道徳とみなして一笑してしまいがちだ。残念ながら、そうしたものが影響力を持ち、議論に勝利したとされる時代にもなってしまっている。

人間が論争をするときに犯すかもしれない罪のうちで、最悪のものは、反対意見の人々を不道徳な悪者と決めつけることである。中傷は何の役にも立たず、ただ自分に跳ね返ってくるだけなのだ。

時代というのもまた個人と同じくらい間違いを犯す。それは山ほど証拠があるし、ほとんど自明のことで、どの時代にも後の時代から見れば間違った意見、馬鹿げた意見がたくさんあった。現在一般に正しいとされる意見の多くもまた、将来においては間違いとされるに違いない。

しかし、人間が判断力を備えていることの真価は、判断を間違えたときに改めることができるという一点にあるのだから、その判断が信頼できるのは、間違いを改める手段を常に自ら保持している場合のみである。

対立する相手の意見を尊重し、知識を深め、自論と違っていようが、正しい部分と間違った部分を認める姿勢が必要なのではないだろうか?

既存経済学の悪いところは、その上部構造のまちがいにはありません。上部構造は論理的な整合性を持つように、とても慎重に構築されています。まちがいはむしろ、その前提に明確さと一般性がないことです。ですから本書の目的は経済学者たちに対し、自分たちの基本的な前提の一部を批判的に再検討するよう説得することです。(『雇用、利子および貨幣の一般理論』 ジョン・メイナード・ケインズ 1936年)

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