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パレスチナの農業ー農家Sさんの半生

“If, one day, the people will to live, then fate must respond.”

“いつか、人々が生きたいと願ったなら、運命は必ず応えてくれる。”

(イッザ シャーブヨーマンアラーデアラハヤー ファラーブッダ アンイェスタジー バルカダル)


数年前、元同僚の60代のSさんに教えてもらった詩の一節。

フランス占領下チュニジアの詩人、アブー・アル=カースィム・アッ=シャービ (1909―1934) の有名な詩「生への意志」の冒頭の一節。

2011年、チュニジアから始まった「アラブの春」で、この一節はアラブ地域各地で叫ばれ、街の看板や壁に書かれたそうだ。

「生きたいと願ったなら」の言葉には、誰もがその生を支配されているという前提がある。

この詩は、専制政治や占領下に置かれてもなお、人生への希望を捨てない、という揺るぎない生への意思表示で、人々に、目を覚ませ、諦めるなと呼びかけている。アラビア語の表現は複雑。

パレスチナでも、この言葉がもつ意味は、とても深い。

私は、パレスチナで暮らした約5年半に、日々イスラエルの占領政策の影響を受けるパレスチナ農業の現場を見てきた。

占領政策に翻弄されたSさんの生活、パレスチナ人農家の困難をここに少しだけ紹介させてください。


元同僚のSさんは、キャリア40年の農業専門家で、自らも農地を持って、何種類もの野菜、果樹を育てる腕利きの農家。

いつも食べきれないくらいの新鮮な季節の野菜やフルーツをおすそ分けしてもらい、私の現地生活での食は繋がれていた。

パレスチナは、オリーブ以外にも、じつはかなりフルーツが豊富。

死海のあるジェリコにはナツメヤシ(デーツ)、海が近く高温多湿のトゥルカレム、カルキリヤにはシトラスやトロピカルフルーツ、平野の多いジェニンやガザのいちご、標高の高いヘブロンのブドウ、そして北部の県を中心に、パレスチナ全土に広がるオリーブ。毎年秋に収穫されるオリーブオイルは地域の特産。

日本では珍しいグアバ(カルキリヤ)

Sさんのおじいさんは、イスラエル建国前のクフル・カーセムという村に生まれた。1948年、ナクバ(大災厄)によって、村はクフル・カーセム村とマスハ村の二つに分断され、クフル・カーセムはイスラエル領内となって、マスハ村から切り離された。

1967年の第三次中東戦争で、パレスチナが完全にイスラエルに軍事占領されるまでは、マスハ側にいる家族はヨルダンの許可証(1967年までパレスチナはヨルダン領だった)、クフル・カーセム側にいる家族はイスラエルの許可証をとって、エルサレムで会う生活をしていたそう。

その後、クフル・カーセムの人々が軍事検問所のあるカルキリヤまで行き、西岸へ来るようになった。

イスラエルの違法入植地が増えたとき、さらに生活は変わった。Sさんは、エジプトがイスラエルと和平条約を締結した1979年以降、入植地の数が目に見える形で増えたんだ、とよく言っていた。

分断されたクフル・カーセムとマスハ
青い丸はこの地図の範囲だけで確認できるイスラエルの入植地

2024年の西岸地区の入植者は約70万人。
報告書などに載らない小さな集落もあり、“アウトポスト”(前哨入植地)と呼ばれている。

2014年から急激に増え始め、極右グループなどが政府の許可なしにキャラバンやテントを建てて、入植を既成事実化する。
のちに数が無視できないようになると、政府は「公認」の入植地とする。

いうまでもなく、公認されようがされまいが、国際法に違反している。しかし、いま、国際法や国際秩序とは一体何だったのかというところに、私たちは立たされている。

有刺鉄線とフェンスで分断されたカルキリヤの農地 
後ろに見えるのは高層ビルの建ち並ぶテルアビブ

2002年、イスラエルはパレスチナ人の住む場所を取り囲むように巨大な壁の建設を始めた。
壁の建設によって、パレスチナ人とイスラエル人は物理的に顔を合わせることがなくなった。

Sさんによると、第一次インティファーダ(民衆蜂起)の前は、イスラエル人入植者がマスハ村の土曜市に買い物に来ていたそう。
とてもにぎわっていたので、3㎞ほど大通り沿いに開かれる市を抜けるのに2時間もかかったと。

現在、大通りは分離壁の内側に移設されているので土曜市はなくなり、もちろん、パレスチナ人はイスラエルの許可なしにこの壁を出入りすることはできない。

海は壁の向こう側、豊富な水源もほとんどがイスラエル側。

そのため、パレスチナ人は水へのアクセスが限られ、イスラエルの同意があっても、ごく少量の水しか利用することができない。

この水はいつでもイスラエルによって調整可能で、ほんのここ数か月、西岸地区の水の供給量はイスラエルによって通常より50%もカットされている。

西岸地区の入植地からは近くの渓谷に下水がそのまま垂れ流されている場所もある。雨の降らない時期に渓谷の横を車で通りすぎると、ものすごい異臭がする。ヒジャーブ(スカーフ)の女子は鼻と口を覆う。

壁の左横が入植地、左側がパレスチナの村。道路脇に汚水が流れ、蚊が大量発生している

イスラエルは、新しい井戸の建設許可や、古い井戸から別の場所へ水を移送する施設設置許可も出さないようにしている。

現在ある井戸は、すべて1967年以前に掘られたもの。

例えばカルキリアでは、古い井戸がたくさんあったエリアで住宅地開発が進み、他の土地へ水を移送したいのに移送許可が下りなかった。

イスラエルは、各村の井戸の使用量をそれぞれ測定して、それ以上の量の水供給をしないように、バルブをつけて水の供給制限をしているそうだ。

降雨量がどんどん減っていくこの頃、夏に飲み水さえもなくなってしまう村もある。

分離壁建設によって、Sさんの家族も土地へのアクセスがなくなった。

イスラエル内部に入ったクフル・カーセム側の祖父の所有地は約25ヘクタール、マスハ側の所有地が約6ヘクタール。
以前は祖父とその兄弟2人が家族の土地として共有で耕していた。

イスラエル内部の土地では、1948年以前は、毎年120ガロン(約454ℓ)のオリーブオイルがとれ、あまりにたくさんとれるので、家に油を補完する井戸もあったそう。

しかし、1948年以降は20ガロン(約75ℓ)に減ってしまった。

自分の土地に行くための許可証すら出ず、手入れができずに土地が荒れ、入植者がきてオリーブを勝手に盗んでいくこともある。

Sさんの農地がある西岸地区の地域にも、マスハ村から以前は7㎞で行けたのに、現在は倍以上の距離がかかってしまう。

Sさんの土地でも、軍や入植者によって、野生のイノシシを農地に放されて土地を荒らされるなどのハラスメントが起こる。

Sさんの農地のすぐ横にある入植地と分離壁

イノシシは厄介。植えたばかりの苗木の根を掘り返したり、枝を折ったり。学習能力のあるイノシシは、トラップを仕掛けてもすぐに壊して、いたちごっこになる。それでもSさんは新しいトラップを作ったら、効果はどうだったと色々教えてくれた。

農作物の生産量も少なくなっている。理由の一つは、重要な肥料などの輸出をイスラエル側に制限されているためだ。

Sさんは、NPKやKNO3など、農家が必要とする肥料が「爆発物の製造に転用できる」という理由から輸入制限されていると言う。

農産物の化学肥料の依存度も高く、海外援助によって、西岸地区の農家に化学肥料がばらまかれた時期もあった。

化学肥料や農薬にさらされ腐食した土壌は、作物を育てるためによりたくさんの窒素が必要になる。窒素過多になると、作物の葉は大きくなっても病虫害に弱く、生産性が落ち、そうなるとまた農薬をまき、化学肥料をまき・・・と悪循環をたどる。

一方、オリーブは成長した木だと放っておいても育つため、化学肥料を使わないのが基本。

オリーブには、1年ごとに裏年(不作)と表年(豊作の年)を繰りかえす性質がある。

ただし、灌漑と施肥をしっかり行えば、豊作の翌年も、ある程度の大きさに育つそうで、Sさんは、水の入ったドラム缶にパイプを通して行う補助灌漑を取り入れるなど、工夫を凝らしている。

現在パレスチナで採れるオリーブオイルのほとんどは地産地消。

しかし、1967年までヨルダン領だったパレスチナでは、じつは地域内で生産したオリーブオイルのほとんどが、ヨルダンに輸出され、消費されていたとSさんは話す。

ヨルダンでは1985年までオリーブの生産量は少なく、ほぼ100%パレスチナのオリーブ生産に頼ってた。

また、ヨルダン人でもパレスチナに土地がある人は多く、知人に耕してもらって、ヨルダンへ持ってきてもらうというケースもあった。

1985年、ヨルダンは盛んになってきた国内のオリーブオイルのシェアを維持するために、パレスチナ産オリーブオイルの持ち込みを制限し出した。

旅行者一人当たり3ガロンまで(約11ℓ)と定めてしまったため、現在では親戚や知人へ少量送るのみとなっているそうだ。

その後、生産の2割ほどをイスラエルに輸出していた時期もあったが、第二次インティファーダで輸出はストップし、農家は大きな打撃を受けた。

現在、北米のパレスチナ・コミュニティーを中心に輸出されていたり、日本を含めるその他の地域にもフェアトレードなどを通してパレスチナのオリーブオイルが輸出されているが、重要な収入源というよりは、アドボカシーの領域にすぎない。

Sさん含めるパレスチナ人農家の生活は、言うまでもなく戦争、占領、大国の思惑に翻弄されてきた。

入植地建設による土地の奪取、資源の制限、制度的な制約によってパレスチナ農業は漸進的、計画的に破壊され、農業の上に成り立つ地域の食文化や伝統、人と土地との繋がりを希薄にしてきた。

昨年10月7日以降、西岸地区の移動は以前にも増して著しく規制されている。しかし、これまでイスラエル領内や入植地内で働いていたパレスチナ人労働者が、農地に戻っているという声をあちこちで聞くようになった。

自分で畑を耕し、作物を育て、余剰分を売って、家族を養う。

そんな状況を聞きながら、私は昔Sさんに教えてもらった詩の意味を思い出していた。

いちご狩りを楽しむ子どもたち(北ガザ 2021年)


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